グァタパラ新聞2021年7月
- akanemimi
- 2021年7月13日
- 読了時間: 14分
更新日:2022年9月12日
東京オリンピック開幕式まであと10日となりました。東京では緊急事態宣言が発令され、感染者が増加の傾向を見せています。本当に大丈夫なのでしょうか???
そんな中、今月も林さんからグァタパラ新聞7月号の一部が届きました。今月は久保家のルーツについてのレポートです。写真は、20数年振りの霜害であたり一面草木が真っ黒に焦げた畑の写真です。

数十年振りの霜害

凍傷のバナナ
問い合わせ
6月始めに文協を通して、トカンチンス州在住の久保マウリシオ氏から、久保家の渡伯ルーツの調べを依頼された。最初の内容は、1913年5月若狭丸で渡伯し、グァタパラ耕地に配耕された久保友一だけであった。文協の方から、本人に私(編集者・林良雄さん)の携帯番号を知らせてあるとのことだった。1933年までに約5万家族の渡伯者。それを記載する650ページの資料では一行か半行である。検索中の150ページ頃に本人からワッツアップが入ったので、少なくとも出身県を知らせてくれるようとしたし、他に資料もあったら送るように知らせると、1938年発行の戸籍謄本のコーピーとその他の資料35点程送って来た。資料があっても日本語を読めず、戸籍謄本は筆記体で古く文字がかすれ、その上読解に大変苦しむ程の筆跡であったが、地名はカタカナで書かれていたので、そこは救われた。この久保友一氏について記したい。
久保 友一(ともいち)当時29歳、妻フシヨ同26歳、広島県広島市仁保にほ町字津出身。
1913年3月30日神戸出港、5月15 日サントス港着で、家族構成は長女初江1歳と親戚の山本正夫、森夫の5人家族。
最初の配耕先はグァタパラ耕地。翌年の大正3(1914)年9月4日に長男文二郎誕生。戸籍の記載は父友一、母フシヨ、サンパウロ州グァタパラ停車場、グァタパラ耕地で出生リオデジャネイロ州総領事館扱い。
そしてこの一家、1915年8月平野運平氏の引率で、ノロエステ線ペニャ駅(カフェランジア)平野植民地開設時の20数名の先発隊である。グァタパラ新聞5月号でも触れた様に12月末~翌年5月頃までに80数名のマラリア病罹患死亡者で、フシヨさんは二番目の犠牲者で、1916年1月30日、29歳で亡くなられた。
戸籍謄本中、次女チヨ子・父友一、母ソマ、サンパウロ州ノロエステ線ペニャ駅平野植民地で大正8(1919)年6月16日出生。バウル領事館多羅間鉄輔扱い。この母親名の異なりから、編集者執筆の「我がグァタパラ耕地」を開くと、久保友一・フシヨ夫妻の記載があり、フシヨさんはマラリア病罹患死亡者の二番目に記される。
久保友一氏一家をさらに進めると、友一氏は1931年8月13日平野植民地で死亡。
文二郎氏は25歳の1939年に池田マサミさんと結婚し9人の子供達に恵まれ、長男たけし氏は平野植民地生まれであり、1970年代はアララクワラ線ウラニア、ジャーレス地方で米作に従事。1980年代にゴヤス州コーリナへ移転。その後、ゴヤス州は二つの州に分かれ、現在トカンチンス州コリーナで米作に従事する。たけし・りょうこ夫妻の子息がマウリシオ・ヒロシ・クボ氏であり第四代目となる。
マウリシオ氏は久保家の戸籍ルーツを案じ、原爆での類焼を考え私(編集者・林良雄さん)を通し、ニッケイ新聞元記者で広島市へ帰国した堀江剛史(よしふみ) 氏にメールで打診すると、仁保町の戸籍係を尋ねるが見たり、コーピー出来るのは家族か親戚もしくは委任状のある人と言われる。祖母マサミの死亡届が、サンパウロ総領事館へ提出されており、海外の総領事館で受理されたのであれば、戸籍は整理されていると係員から知らされた。
1963年広島県が纏めた、県出身の海外移住の第8番目に友一氏は写真入りで掲載されていた。「移民県」と称された広島県中でも、この仁保町はハワイ移民から始まり、特に海外移民多出地域として知られる。
歴史の浅いアララクワラ線・後編
(加筆印始*終*)
この沿線で最大の都市がサン・ジョゼ・ド・リオ・プレットであり西北地方で、位置は西経49度20分、南緯20度30分であり、気温は最高38℃、最低14℃、降雨量は年間1,200mm前後で熱帯に類似して
いるので熱帯植物が多く栽培される。
1895年にアララクワラ鉄道会社が設立され、翌年からさらに奥アララクワラに鉄道敷設が着工され16年の歳月を費やし、リオ・プレットに鉄道が開通したのが1912年である。その後、この鉄道会社が倒産したため、そこから先の敷設工事が再開されたのが1933年以降で、パラナ河畔に到着した のが1952年であるため、西方面地方のジャーレス、ウラニア、サンタ・フェーといった順序で開拓されていった。
この地方、特にジャーレス周辺を1960年代半ばから触れて見たい。少し蛇足になるが、モジアナ地域からこのアララクワラ線をオエステ地域として分けられ、そして全伯球大会に出場するには、オエステ地方予選を勝ち抜いてからでないと、全伯大会に出場出来なかった。それにより、このアララクワラ沿線のリオ・プレット、ジャーレス、ウラニア地域に幾度も訪れ、分宿したりして営農内容などを伺ったが、この頃は雑作、牧畜などと養鶏も手掛けられていた。戦後の移住者は少なく、その中でジャーレス郡に1958年に入植し、コーヒー、綿花、トウモロコシ、米作等を栽培していた福島県出身者に、この地方の話を伺ったことがある。この一家74年にはミナス州カルモ・ド・パラナイーバ郡のセラード開発の先鞭をつけた*下坂一族である。その末子息とソロカバーナ線プ・プルデンテの子弟・松下忠義、後年パット・デ・ミナスにおいてコンピュータープログラムを組み入れ、地這トマトを点滴潅水で栽培するほか、バナナ、マンガ栽培を手掛ける。また砂糖キビ品種改良に貢献し、アララス・キャンバスで教鞭をとる有薗秀人、松岡静男教授共々、ジャボチカバール農学校で同窓した時期、そして著者も同じ1960年代後半の同窓である。*
それと当時、ジャーレス球場は地方で随一に公式野球が開催出来た、本格的球場である。
日系人のジャーレス地方の入植は、1942年で高木甚平・イサオ(福岡県出身・1913年渡伯)氏などの30余家族が入る。当時は鉄道も開通しておらず、収穫物の販売路も不便な状態のため、一家族、二家族とこの地を去った。それから1960年代になると700家族の入植戸数で盛大そのものになる。
それは、この土地が雑作に適したテーラ・ロッシャであり、入植者たちは米、綿作に力を入れ、特に米作には熱意を傾け、米の町」ジャーレス」と名を馳せた。
1980年代になるとアララ河から送水管で数キロを送り、大型灌漑設備を設置し、蔬菜(タマネギ、ピーマン、ジロー)、果実(イタリア・ブドー、マンガ、メロン等)を栽培する。またコーヒー栽培、穀物のトウモロコシ、米、フェイジョン、綿花も継続している。だがこの地方、日系人が2,000家族も在住しているが、農業者は一割程であり、90%が農業以外の職業に従事している。そしてこの地方に随一進出したのが南伯組合で、1960年 1月に進出し、1969年新組合法に基づき「有権責任ジャーレス南伯農産組合」となる。
そのほか、ジャーレス市東方約30キロ地点に在するフェルナンドポリス、この町の周辺にはマセドニア、グァラニー、メリジアノ等を含め主要農作物はコーヒー、綿花、トウモロコシ、柑橘、大豆とゴム栽培が僅かながら1980年代末に手掛け始めている。全盛時代には日系300家族が隆盛したという。
アララクワラ線最西端のサンタ・フェ・ド・スール、この町は1948年6月郡に昇格し、この地域農畜産業の郡である。日系では江頭氏が広く知られているし、日系農業者も幾人か在住する。*先にふれたジャボチカバール農学校時代に、日系ではないが同窓にサンタ・フェ・ド・スール出身者が在学し級友であった。放課後、学校から一歩外への出で立ちは、頭にカウボーイ・ハット、長靴姿で闊歩していた。サンタ・フェーの男たちは、この西部劇疑まがいの服装が多勢いるようである。 そして、ここの日系人はペレーラ・バレット出身者が多く入植している。平均温度が高い関係か、この地方ブドウーの糖度が高く、北伯産と比肩できるほどの良質のブドウーである。前述の江頭氏と同姓で、和歌山県出身ではあるが、本籍は佐賀県で長崎県で成長した
同船の江頭正明氏が、この地方のブドウーを一年中買い付け、サンパウロ市内セアザーで販売しており、年一度買い付け商談の帰りに時折来訪して、この地方のブドウーを味見させて頂いている。*
先輩の話は四六時中、自慢話でげんなりしたものだが、ウラニア在住の柳生茂平・トナ(岡山県出身・1926年渡伯)氏は淡々と営農を語る人であった。この頃(1960年代後半)の主要作物はコーヒー栽培であり、その他綿作などを手掛けていた。そして、この地域の草分けでもあった。
変り行くモジアナ地方の日系農業
モジアナ地方から奥モジアナ地方は、サンパウロ州北東端に位置し、この地方コーヒー栽培で栄えた地域であり、コーヒーの導入は1840年頃から始まり、ミナス州から入る。その後、1896年までの29年間が第一次コーヒー時代とよばれている。栽培地帯はクラビーニョス、セルトンジーニョ、それにリベロン郡に含まれたクルース・ダス・パセス、ヴィラ・ボンフィン、グァタパラなど広範囲にわたっていたが、何れも小規模であった。
1897年から1929年の間が第二次コーヒー時代であり、かつてはブラジルにおける大生産地帯であり、モジアナのコーヒー最盛期とされている。1929年世界大恐慌後の不況、コーヒー価格の低迷、さらに霜害の影響などで、その地理的および自然条件から綿花、陸稲、トウモロコシ、大豆、砂糖キビなどの生産地帯に変り、近年モジアナ地方は砂糖キビ栽培が特に注目されている。
奥モジアナ地方のイガラパーバ、やや東南のペドレグーリョ、また西南のミゲローポリス、西のグァイラ、その中心地のイツベラーバ、それより少し手前のグァラ、南西のモーロ・アグード、リベロン・プレットを中心にして北へ20キロのジャルジノポリス、西のセルトンジーニョ、南へ25キロのクラビーニョス、西南10キロ内外のビラ・ボンフィン、西でもやや西南で25キロ地点のズモン、東に25キロのセーラ・アズール。この沿線一帯にサンパウロ市400年祭(1955年)頃に700家族の大半が農業に携わり、 1930年頃からの足跡を追ってみたい。特にモジアナ地方の資料は大変少なく、参照する400年祭の寄付者芳名簿が最も多く掲載 されている。
リベロン・プレット中心のモジアナ地帯は穏やかな丘陵であるに対し、奥モジアナ地帯は穏傾斜丘陵地で、何れも土地の利用率が高い。土質はマサッペ土壌と呼ばれるものからテーラ・ロシャ・ミスタと呼ばれる砂質土である。気候は気温の最低摂氏10℃、最高34℃で平均21℃と温暖である。降雨時期については、サンパウロ州内陸型に属して10~3月の雨季、4~9月の乾季にわかれ、近年の年間平均1200ミリである。リベロン・プレット市の標高518メートルに対して、奥モジアナ中心地のイツベラーバ市は631メートルであり、奥モジアナ地方の方がかなり高い。
1930年当初、コーヒー栽培の低迷からモジアナ、奥モジアナ地帯は米作が盛んになったが、ブラジル陸稲栽培は陽射しが強いせいか、旱魃に弱く出穂時期に1~2週間降雨がないと白穂になるので大変危険で博打的要素を含む。ただ陸稲栽培は仕事が簡単で、播種後は栽培期間中除草だけである。適当に降雨があり、豊作に恵まれると一攫千金の夢を求めて、多くの日系農業者が奥モジアナに、その殆どが借地農を手掛けた。
モジアナ地方に日系人の農地所有者が、他の地方と比べて少ないのは前述のように米作の借地農が多くそのため、転々と耕作地を変えていったこと、沃土のこの農地が大小二百の伯人耕主がなかなか手放さなっかたことなどもあり、またこの穀倉地帯単一作では危険であり、多角農を営むためには農地面積が多く必要で、この地方で手掛けられた多角農は牧畜と共に米、綿、トウモロコシ、フェイジョン等であった。それが1932年以降のコーヒー不況では、多くのコーヒー栽培耕主は農地を細分化して売却するのが続出し、これを求めて小農が定着し始め、コーヒーの代わりに穀物栽培が広く一般に営まれる。そして1960年代までは各都市に米作者相手の精米所、あるいは綿作相手の精綿所を持ち、本人も農作地を経営していた。
モジアナ、奥モジアナ地帯で手広く営農を手掛けた人々についてふれてみたい。
奥モジアナ最古参の八ッ田一藤(やった・ いっとう 福岡県出身・1912年渡伯)氏はイガラパーバから一歩も外部に移動せず、米作、コーヒー栽培、特に砂糖キビは日本人の中では、早くから栽培に従事する。後年リベロン・プレットに移転した丸野弘(福岡県出身)氏も八ッ田氏と共に米作を手掛ける。
加来三善(かくみよし)・妻ハツメ(熊本県出身・1914年渡伯)氏は兄、加来順太氏の呼び寄せで共にグァタパラ耕地で就労後、モジグァス川の対岸東京植民地と向かい合わせのグァラニ(グァタパラ駅の次の駅)に移転し、営農に従事後、モジアナ地帯でコーヒー栽培と特に米作を手掛ける。1933年ペドログゥリョに連合日本人会を設立、1938年にはフランカ日本人会設立と同時に日本語学校も開設する。このフランカの町、モジアナ地方ではリベロン・プレットにつぐ大きな都市であり、皮製品の町で有名であるが、1934年当時は牛皮のなめし職人が多く在住する。既製品の外出用の革靴は、特別注文する時代であった。この加来氏、1957年にリベロン・プレットに移転する。刑部武・栄子(静岡県出身・渡伯1934年) 氏が1937年から私塾で日語学校を開き、以後18年間継続する。刑部氏が1963年に逝去された後、加来氏が1968年に、これだけの日系家族が在住する都市にもかかわらず、日本語学校のないことに憂慮し奔走後その甲斐あり、それを受け聖州東北南米本願寺開教師の浦部玄(熊本県出身・1955年渡伯)氏、佐和子夫妻の手で授業が行われた。
1930年代初期に奥モジアナで最も手広く米作を手掛けたのが、グァラ郡の中野益男(鹿児島県出身・1913年渡伯)氏で後に精米所、米、綿の仲買業等を手掛ける。また雑作業を一貫して、現在まで営農規模の拡大を続けている前田常左衛門(佐賀県出身・1927年渡伯)氏を元祖とし、イツベラーバ郡に拠点を置き、ミナス州まで拡大し大豆、綿花を主作している現在の前田グループ。また戦後移住者であるが峯虎司(佐賀県出身・1957年渡伯)氏は同県の前田常左衛門氏の呼び寄せ移民であり、奥モジアナのイツベラーバを拠点に置き、子息忠司氏は雑作の綿花、トウモロコシ、大豆を手掛け、特に綿花栽培が中心である。
グァイラ地方の西 光拝(鹿児島県出身・1931年渡伯)氏は米作を手掛け、広瀬省三(香川県出身・1929年渡伯)氏は精米所農産物仲買等を手掛ける。
・鹿毛 正護(福岡県出身・1937年渡伯)氏は綿花、米作を手掛け、綿花採集機等機械化農業をいち早く始める。また緑肥栽培も手掛け、略奪農法の多いこの地方の農地回復には一役する。
・山下繁雄・ウメノ(北海道出身・1939年渡伯)氏の子息昇氏はこの地方で最初にピボー・セントラルを導入する。1975年潅水してフェイジョン栽培したところ、見事な収穫を得たため、この地方にも潅水農業が広まる引金になった。4台のピボー・セントラルの潅水面積は、最大のものが48アルケール(106ha)、最小のものが23アルケール(55ha)、4台合計で120アルケール(290ha)。グァイラの夏作フェイジョンは収穫時期に雨にたたかれるので、潅水方式による冬作が急激に伸びる。1975年頃、ブラジル全体のフェイジョンの平均収量は極めて低く、ヘクタール当り300~500キロ、冬作はさらに低く200~400キロである。それが潅水によりヘクタール当り2~3トンの収量ということになれば、償却はさほど難しくない。グァイラ地方は、サンパウロ州でも熱帯気候に類似しているといわれ、降雨量1500mm/年間、気温は最高35℃、最低10℃、平均24℃である。先の前田氏然り、この人達は「農産企業家」という人々である。グァイラに移転したのが1951年であり、穀物栽培でミナス州まで進出しており、大豆、トウモロコシ、柑橘類も手掛け、そこに灌漑施設のピボー・セントラルが殆ど設置されている。
ご成婚
去る6月12日。E区在住の脇山謙介・千寿子ご夫妻次男ルッカス昌士君とアリネ・トレンチナさんがご結婚されました。ご両人が末永く幸せでありますよう、ご成婚おめでとうございます。
御礼
亡妻、なお美儀(享年74歳)は、去る6月6日午後3時、自宅に於いて永眠いたしました。翌7日午前9時自宅にて告別、午後1時に当移住地内墓地に埋葬致しました。
生前御懇意に賜りました村民の皆様方より、お悔やみと過分なるご香典を賜りましたことを哀心より厚く御礼申し上げます。
2021年6月
喪主 宮崎 徳忠
親族 一同
なお、香典返しの儀は略させていただき、寸志をグァタパラ農事文化体育協会に寄付させていただきました。
訂正
六月号のコロナ禍中、ワクチン接種予定54、53、52、51歳この接種予定は基礎疾患者と訂正します。
俳句 グァタパラ俳句会
秋時雨急ぐ家路の長きこと 菅原 治美
次もまた良作願い種を採る 林 みどり
爽やかにワクチン終えて戻りくる 富岡 絹子
朝の日に鳥の鳴く声爽やかに 脇山クララ
爽やかにおしゃれはここよ柄マスク 高木美代子
背なを押す風爽やかにペタル踏む 田中 独歩
秋時雨自粛疲れの街と人 近藤小夜子
種を採りあげてもらって絆なる 脇山千寿子
[次回兼題〕兼題、乾季、寒燈、大根
【編集後記】
今回も広島県人発行記念誌が役だった。しかし、記念誌コーピー入手にエピソードがあった。ニッケイ新聞蘭に尋ね人があり、またリベロン在住の空手友達、友人中に広島出身の両親が多く、これを調べたく広島県人会を訪問したが、県人の個人情報と断られた。自分が所有する広島県人データー約18ページを渡して、やっと許可がでた。そして、尋ね人を出した岡山大学准教授が、この記念誌を携え私の渡した資料で尋ね人に合う事が出来たと訪問。広島県人子弟の方言継承を調べているというので、友人達に問い合わせたが日本語も出来ない人々の多い中、方言などとても継承するどころなかった。以後、日本移民百周年記念誌資料収集時には、地方編纂委員の名刺を持ってこれにあたる。
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