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サン・シモン駅

January 26, 2017

昼食を第2回移民22家族84名(熊本、福岡県出身)が就労した、ピッケ山(標高734m)のふもとから少し離れた市内でするが、若林氏はその場所々の食べ物を心掛けて食べると言うので、これには助かった。

 

 ここから先に出掛ける所は、このジャタイー耕地を追放されたある家族に乳飲み児がおり、サン・シモン駅前の飲食店のトイレ裏に幼児を遺棄したという曰く付きの場所。家族は仕事を探す足手間といのため、それらの行為に走ったそうだ。この耕地も、皇国殖民会社が手掛けている。

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コーヒー景気で栄えた町は凋落が酷く、廃駅は警察の派出所とかわり、駅前の家屋の多くは窓ガラスが割られ、また廃屋も目立つ。廃駅前広場はカーロス・ボテリョー広場と冠し、水野龍氏が1907年11月、日本移民導入契約成立を担当した時のサンパウロ州政府農務長官名である。

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すぐ先の道しるべにはサンタ・ローザ・ド・ヴィテルボと記される。この地名は1930年代、石川達三氏が就労したサント・アントニオ耕地所在地である。若林氏に訪問したいと求められたが、私は一度も訪れたことがないので、時間の限られた今回は諦めるように諭した。

 

サン・シモンから29km北東に位置し、蒼茫を読み返しその場所を要約してみると、サント・アントニオ耕地は町から約15km、面積は1700ha。農地は西側に連続した小丘をつらね、東向きのゆるい斜面に小さな部落を持ち、隣りの農場の部落まで、近いところで約12km。

 

耕地内には低湿地と沼地があり、先着移民中にはマラリア罹患者もあった。地図を広げ、それに沿って距離の円を描くと、モコカ市寄りのリオ・パルド川沿いだと思う。サイトで市役所の電話番号を調べ、4台ある番号を午前、午後に分けて3日間掛けたが全て不通話であった。

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