グァタパラ新聞2025年2月号
- akanemimi
- 2月28日
- 読了時間: 14分
今月の写真はグァタパラ耕地にある廃屋の工場と煙突です。萩原正五郎先生が来月(3月)に廃屋工場と煙突を見学される予定ということで、林さんと近藤さんで下見に行かれたそうです。私が萩原先生に連れられてはじめて方伯したのは2016年。翌2017年に私もこの廃屋工場と煙突を見に連れて行っていただいたのですが、その時はこんなに近くまでは行けませんでした。今回は煙突の足元まで辿る事ができたようで、煙突の中程には、「1906」と構築年が記されていたとか。日本移民就労1908年より2年早いものがこんなにきれいな状態で残っていることに驚かされます。119歳の煉瓦の煙突、なかなかのべっぴんさんです。笑

廃屋工場と煙突

廃屋の煙突
文協第十回定例役員会 2025.1.11
協議事項
一、2025年度の新各区総務委員名を、1月27日までに文協へ届けること。
一、90歳の卒寿者祝いを、80歳に該当年齢を引き下げの要望あり、これを総会で検討とする。
一、今年度の収穫祭月日を7月5、6日とする。
一、運動会を7月19日とする。
麻雀大会
1月12日は、グァタパラへ第一陣が63年前に到着した日であり、この日に5年振りの大会を正午の12時から、麻雀愛好者16名で四卓を囲む。女性雀士四名が参加されるし、中村、井手上、鈴木各氏とも初参加である。コロナ禍前の2020年から大会は中断されていたので5年振りの大会となった。
今まで抽選で卓の組合せを決めていたが、今回最初に自分の番号を引き、その番号で組合せが決まっており、各番号を四まで並べ、次は一番下を上に繰り上げ順番をずらすように成り、よく工夫された組合せである。
女性雀士から、殆ど牌を握らずなのに、どうして勝ち進めれるのかと問われる。また、どれ程麻雀を行ったのかとも聞かれ、養蚕飼育の端境期で、他の娯楽が少なかったせいか月月火水木金金ほどの時もあったことを話す。その上ある程度技量が付くと、あとはツキ七割り技量三割とも言われる。麻雀を打っていても、役作りを良く理解しなくて一牌の切り方で役を上げることが出来る。今まで上がることに気を使っていたが、これからは役作りにも心掛けることも必要と感じた。
井手上氏はグァタパラへ来てから習い始め、中村氏は経験充分でリーチがかかると生牌(ションパイ)は殆ど切らず放銃することもなかった。鈴木氏も初参加、健次兄達が移住船内で、台湾人(名前を忘れたので第十一回あるぜんちな丸移住渡航者名簿263名中該当名の記載はなかった)の方の指導で覚える。その人は渡伯
後、一度グァタパラ移住地を訪れている。鈴木氏は入植後、雀士の数が不足して、この頃に覚えたと言う。その後鈴木氏は卓を囲んでいないと言う。
今回1ゲーム1時間20分の持ち時間で4ゲームを戦う。 (敬称略)
BB賞:慶塚恵美子・10ポイント ∸十六点
げん点賞・中村公春 〃 ∸四点
八位:小林加弘 〃 +十四点
七位:佐々木俊秀 10.5ポイント +三点
六位:近藤佐代子・12 〃 +十五点
五位:近藤四郎・12 〃 +十八点
四位:新田孝二・12 〃 +三十六点
三位:田中万吉・13 〃 +二十点
二位:渡辺良則・13 〃 +二十八点
優勝:林 良雄・13 〃 +三十八点
今回役満は出なかった。夕方六時半ばに終了し、身体に殆ど疲労なく終えれた。
自由市場 一月十九日
夏休みでバカンスを満喫する季節なので、来場者が軽減するかと見たが、外部からの訪問者が多勢来訪され昼頃には大変賑わう。
1月19日は朝から気温も高く、雲も殆ど無い快晴の日であった。12月と同じ様に10店14名の参加者。
すっかり馴染みの品々に成ってるが、殆ど完売される。今回も各店の品々を重複しながら記す。
ネギ、ニラ、マンガ、潰しニンニク、アバカテ、マンジョカ、オクラ、蔓紫、レモン、黒ニンニク、茄子、レモン、茗荷、オクラ、漬物、栗おこわ、シュークリーム、手提げ、信玄袋、摘み饅頭、焼饅頭、蒸し饅頭、テンプラ、ギョウザ、白卵、鯛焼き、ワッフル、カリントウ、ピタイア、カリントウ、花ウメ、ミソ、生シメジ、輪切り寿司、卵焼き、味付シメジ、カレーライス、オニギリ、手拭き、手提げ、ススピーロ(マラクジャ、レモン、コーヒー味)、パリャ・イタリアーナ、和風ゼリー、焼トリ、手巻き寿司、詰合せ、刺身、げんき寿司、ホット・ロール、エンピツ入れ、色エンピツ、色マジック、ギョウザ、冷やし中華、焼ソバ、弁当、饅頭、ショウガカシ、糸キーホルダー、おにぎり、アイスクリーム(苺入りモチ)、ブルーテイ、鉢置き台、稲
荷寿司、摘みラッカ、オカキ、カリントウ、茶饅頭、焼饅頭、大福、モチ、ギョウザ、肉マン、ラッキョウ、酢レンコン、福神漬け、ピタイア、クレープ(チーズ、チョコ味)、ハスパジィーニョ、炭酸飲料水、ビール、焼トリ、カキ氷。
今回は蓮の花が花盛りで、見物者が多勢訪問され大変賑わう。
アニサキス・学名:anisakis simplex
自由市場での会話を対象後グーグル参照
カイチュウ目の線虫で成虫は4~15cm。
生きたまま誤食した際激しい腹痛、嘔吐などの症状が相俟って、名実ともに厄介な魚類寄生虫の代表格。ただ人体で成虫になることはない。特に幼虫はアジ、サバ、イワシ、サケ、タラ、スルメイカ等に寄生、また、いない事の多い魚はマグロ、サーモン、ヒラメ、カツオ。通常では加熱、しめ鯖では冷凍処理加工でアニサキス対策をする。
アニサキスは主に内蔵表面に寄生しているもので、下処理で大部分は除去できるが、時間が経つにつれて内蔵から筋肉部分へと移動するので、これを見付けることがなかなか大変である。
このアニサキスが寄生した魚介類を、生や生に近い状態で食べると、ヒトの胃や腸壁に侵入し胃腸炎を起こす原因になる。
アニサキスが死滅する温度は(マイナス20度Cで24時間以上)で、中まで完全に冷凍することが効果的。
生や生に近い状態で食べてから概ね8時間以内に、激しい腹痛や嘔吐などを伴う。
予防方法として「加熱」、「冷凍」、「取り除く」。
加熱:60℃で一分以上(中心部まで加熱)。
冷凍:マイナス35℃で15時間以上、マイナス20℃で24時間以上(中心部まで完全冷凍)、
マイナス5℃では6日経過しても生きる。
通常用いる塩漬け、酢漬け、わさび漬け、醬油漬けにしても死滅しない。
取り除く:アニサキスは内蔵に多く寄生しているが、筋肉にも移行していることがあり、発見しづらいため、
完全に取り除くのは困難。そのため充分に注意が必要。
ただし、淡水魚にはアニサキスは寄生しない。アニサキスは海にいる生き物で、オキアミ(エビに似るがやや小形で多くは体長3cm内外)を捕食する魚に寄生する。サケ類など海でも生活する回遊魚にはアニサキスが寄生している。養殖されているサケ等はアニサキス対策のため、オキアミでない人工餌を使用するなどの対策をしていることが多い。
アニサキス幼虫に対する効果的な治療薬はなく、唯一の治療法は胃壁、腸壁に食いついてるアニサキスを内視鏡用の鉗子によって腹部を切ることなく徐去する方法。
代表的なアニサキスによる食中毒の病状は、一時間に一回程度の周期的な痛みを繰り返す。
入会者募集中
脇山 純代
昨年12月28日、野球部主催でグァタパラ紅白歌合戦が男女26名の出場で開催されました。
本番には、プラドポリスよりプロの放送係が来てくださり、照明等舞台はとてもはなやかで、後には本人の名前が映し出され、うれし、はずかし、とても良い舞台でした。
年末にステキなドレスを着て、しっかり練習した歌を披露して、とてもすばらしい紅白歌合戦でした。
おじいちゃん、おばあちゃん、お父さん、お母さん、娘さん、息子さん、お孫さん、若いお兄さん、お姉さん、と共にこれからますます、すきな唄、歌、知っている歌を皆さんといっしょにDVDに合わせてうたって、楽しみましょう!
「うたを忘れたカナリア」にならないように楽しんで歌いましょう。入会をお待ちしております。
長寿会の総会
去る1月25日、午後1時10分から長寿会の総会が開かれた。参加会員30名中男13名、女17名であった。
議長に会長と総務が座り、議事の進行が行われた。
第一号議案の2024年度事業報告、会計報告が資料朗読で進められ、質疑もなく拍手を持って承認された。
第二号議案は2025年度の事業計画中ゲームに対する内容を限定せず、年会費100,00レアイスとした。
その他では新規加入者が9名となる様子で55名の会員となる予定。
議事終了午後2時10分
役員改選を選挙で決め、会長・田中万吉、総務・近藤四郎、会計・大野泰治の三氏で2025年度も継続する様に選ばれた。
監事も選挙で多田博、藤山純基の両氏、監事の方も続投。
その後、出席者全員で懇親会となり、新年度を祝って代表監事の多田博氏が乾杯の音頭をとった。
埋草・開拓 ③ *加筆印
*ノモンハン事件
事件の発端は国堺線が明確でない地域の国堺紛争で戦場となったノモンハン付近・中国東北部の北西辺、モンゴル国との国堺に近いハルハ河畔の地。
1939年5月~9月中頃まで、日ソ両軍が国堺紛争で交戦。日本軍がソ連軍の機械化部隊との戦闘で大敗を喫した。司令官・植田謙吉大将、参謀長磯谷康介中将、参謀副長・矢野音三郎少将。これが関東軍幹部の更送を促し、昭和14(1939)年9月7日梅津美治郎中将(一年後大将)が関東軍司令官、飯村穣中将が参謀長に就任した。
極東国際軍事裁判(東京裁判)で終戦時参謀総長の梅津大将がA級戦犯で終身刑の判決
を受け、服役中の獄中で直腸ガンが悪化、病床死亡(1949.1.8,67歳没)。*
・母・千歳の婚姻届は、昭和12(1937)年12月22日になっておるが、母からの話では、私の妹・千恵子の誕生日と同じであり、妹の誕生日を祝うことにより、結婚記念日を祝っていると聞かされたが、この時代身ごもるまで、婚姻届を怠るものなのか、それともしなかったものなのか、長男・純幸の誕生数ヶ月前に届出される。
この時代の農業地方では、婚礼をあげてもなかなか入籍せず、子が生まれてはじめて手続をとるという。一種の試験結婚の慣行がおこなわれていた。
・母・千歳、松村鶴吉・せい(旧姓・橋爪)の次女として大正2(1913)年7月31日、長野県下伊那郡松尾村松尾1430番地で出生、姉に八千代、兄・義員(よしかず)、妹・千巻の4人兄妹。7歳にして父親・鶴吉を失い、母親・せいの実家・橋爪家に妹・千巻共々引き取られるが、気落ちすること数十日間、叔
父・橋爪徳次郎も気をつかい、千歳だけ姉・せいの親元へ帰らされた。妹・千巻はこの橋爪叔父の所で成人するまで育てられた。この妹・千巻も新京(現・長春)方面に終戦まで渡満していた。また、千歳も早くして父親を失うことにより、姉・八千代共々片倉製糸工場にて女工を長く勤めたと聞く。盆正月の休日には帰省したが、仕事始めの前日、近所まわりの女工友達は皆工場に戻るが、母・千歳は母元を離れるのが辛く、当日提灯を灯し駄科駅まで下ったと聞かされている。
母の生活地。当時茨城を朝早く旅立っても、長野の辰野からの飯田線で目的地に着くのは黄昏時。その旅行は冬の霙まじりの寒い日だった。本家長男正兄の婚礼に出席の為、茨城から祖父、叔父、父と私(編集者)、小学校入学前の年だから1956年の冬と思う。婚礼を終え、翌日祖父母(母方)の墓参りに父と二人で母の生活地へ出掛け、駄科駅で下車。夕暮れに天竜川を渡る。そこに架かる東洋一の高架「南原」吊橋は見事だが、復興前のこの吊橋、渡ころ水面はすでに薄暗く、所々壊れた橋板の間から下を覗くと、大変遠くに川
面あり足が竦む思いだった。その怖さが少し和らいだ頃、お墓の前に辿り着き仁王門に二対の仁王阿形、吽形の形相に震え上る。
雪化粧の墓前に白米を撒くと、ぽつぽつと小さい米のあとができ、父に米を撒く謂れを問いたが、これまでの恐怖が強烈で思い出せない。尚このお寺(文永寺)風林火山で有名な武田信玄の参謀を勤めた山本勘助と縁の深いお寺と伺う。特に兵糧攻めを防ぐ為に焼米が保有されていたと言う。
高遠城籠城の際に、この地に保有された高遠城は日本100名城30番に選定。また、この天竜川沿いには昔は城が多く福与、船山、名子、大島、桃井(父の生地)、松川福与(元林家菩提寺在)、信濃松岡(叔母の嫁ぎ先)、飯田、神之峯、知久平、信濃松尾(母の生地)と相対する位置の鈴岡城(母の生活地・下伊那郡駄科)各城等の数々。
*白米を撒く謂れを検索すると、仏様の遺骨が米、米粒に似てることから「 舎利(しゃり) 」、舎利は米を意味するようになり、「舎利」と「仏舎利」の意味は殆ど同じ。お墓参りで米を撒くという行為は、仏舎利の力を借りて、死者の魂を浄化させるという意味があると考えられる(これは神道でのお供え物のこと。これを神撰と言う)。*
飯田線:岡谷、川岸も含むが、私達は辰野から乗車する為、宮木、伊那新町、羽場、沢、伊那松島、木ノ下、北殿、田畑、伊那北、伊那市、下島、沢渡、赤木、宮田、太田切、駒ケ根、小町屋、伊那福岡、田切、飯島、伊那本郷、七久保、高遠原、上片桐、伊那大島(父の生地)、山吹、下平、市田(ひろ叔母の嫁ぎ先)、下市田、元善光寺、伊那上里、桜町、飯田、切石、鼎、下山村、伊那八幡、毛賀、駄科、時又、川路、天竜峡、千代、金野、唐傘、門島、田本、温田、為栗、平岡、鶯巣、伊那小沢、中井侍(ここまでが長野県下の各駅)、小和田、大嵐、水窪、中部天竜、浦川、東栄、三河川合、三河槇原、湯谷温泉、三河大野、本長篠、豊橋で
195,7Kmの岡谷~豊橋間の営業キロ数(2005年6月現在)。
文永寺への石段を登り切った所の横に、祖父母(母方)所在地を見出せた。その先にお寺(文永寺)があり、そこには母方の祖父母のお墓を見付けることが出来る。このお墓を祖父母法要の為、1972年四月に私は墓参する。そして初めて会う木下(八千代伯母の夫)伯父、その子供である従兄・孝雄と初対面する。
・純幸、林富男・千歳の長男、昭和13(1938)年3月29日に出生するが、母は祖母とめのと、折り合いがつかず、父富男と共に父の姉の嫁ぎ先、山梨県甲府市朝日町で軍需物資の防毒マスク等を作成、これらの製品作りを父は手伝う。フィルター部品の中味に苦心したとのこと、原料になる物質が極度に品不足する時代。この甲府市朝日町十三番地に於いて、昭和14年4月15日午前10時に純幸・死亡、父林富男届出。同月20日受付1歳1ヶ月未満という幼児であった。
この頃、祖母・とめのは病気を悪化、床に横臥する毎日。これは和一の看病により祖母も、また結核菌に侵され、孫訃報の知らせにより気落ちし、後を追うように昭和14年5月16日午後8時死亡、戸主林富男届出。1881.1.22~1939.5.16享年58歳。
ここ、父の生誕地の部奈までは、松川町内を流れる天竜川沿いから部奈までの集落へは、細い七曲り九十九折りの登り坂路を上って到着した。
内原訓練所内日輪兵舎、この地で父は三ヶ月兵隊訓練。
この建物の外見は蒙古のパオに模したもので、内側に直径12m、面積百㎡余で二階建の60名を収容。10名の訓練生が数日で完成。事実1万人を収容したこの兵舎は、若干の職人を使用しただけで、他は訓練生の力で2ヶ月で作り上げる。中央に大黒柱という丸太一本を建て円周に何本か小柱を建ててこれを結び合わせ、屋根、壁には板を張り付けただけの簡単なものだった。この費用当時の金で三百円だと言うが、掘建て小屋以上だとはけしていえない。

内原訓練所日輪兵舎
渡満について。
父は階級支配・権威主義の軍隊には馴染めず、乙種合格、開戦時にはすでに34歳であり招集猶予もあったが、しかし職業軍人戦死者が激増する中、軍部に宛がわれた兵隊員数を、招集する立場にあった人(兵事係)が学友で、昭和18年頃には軒並み、一銭五厘の赤紙(動員令が発令されると警察官が市町村へ持参し、役場の兵事係が対象者を訪ねて直接手渡し交付される)で招集され、生殺与奪の権利を握られた。この学友から日本軍の損害を知らされ、その補充の必要、国民皆兵の覚悟をうながされた。軍隊が戦い、生きるための食糧生産を助け軍部に供給する満州開拓をすることで、招集が先に猶予されることを知っていた父は昭和18年に仁造叔父のいる、満州を視察、その年の暮れに帰国、財産を整理して昭和十九年三月に満州報国農場長拘命
(報国とは国家の為に力をつくすこと)にて渡満する為、長崎県の佐世保軍港に着く引越荷物、戦局悪化の為、佐世保止まりとなり、長野の祖父直太郎の妹の嫁ぎ先の米沢家に送り返され、祖父もそこで終戦まで過ごす。ここは林家の菩提寺の或る所で、祖父は長いこと檀家名代を務めたとも聞く。又、祖父は本家の戸主が兵隊に招集され、残された妻子はあったが、母親が病気を患い他界する。そこに残された本家の一人息子(正)の、身元引受人でもあった。
戦前満州での日本人は支配者であり一等国民、中国人(満人)は最下等に位置し「白い米を食べると逮捕された。」(皇帝溥儀の発言)。
「五族は平等だという「共和会」にしても、すでに満州国発足時から日、鮮、満、漢、蒙古。五族の内満、漢、蒙古、三族はひとまとめて満人となり、日、鮮、満の順序に序列が定められていた。三千万人の大部分を占める存在でありながら満州人は最下位に位置づけられていた。また王道楽土とも言われるものだった。」 (満州棄民より)次回に続く。
俳句 グァタパラ俳句会
草笛や一里を通いし学童期 近藤佐代子
心地良き雨後の朝の薄暑かな 富岡 絹子
虫の飛ぶ野菜畑の薄暑かも 脇山クララ
草笛は遠き記憶の隅にあり 菅原 治美
草笛を鳴らす人影今は無き 林 みどり
あやめ咲き雨降る日々となりにけり 小林 敏子
薄暑なり日々の早さや老いの身に 高木美代子
雨上り薄暑の草原匂いたつ 脇山千寿子
薄暑冷め空壊れたか雨止まず 田中 独行
〔次回兼題〕新年、 御降(おさがり) 、仕事始、当季雑詠。御降・正月の三が日の間に降るめでたい雨。
【編集後記】
降雨があるが大変暑い日々、夜中でも汗が噴き出て寝苦しい。大陸の暑さはカラッとすが特徴であるが、今年の暑さは少し気が滅入る。強風が多く、緑色も鮮やかなバナナの葉も幾か所も折られ、黒く焦げて何となく
痛ましい。何となくすっきりしなく異常気象といった感じのこの頃である。
先月号で査読し誤字を直したが、元のままであった。カタカナ綴りはF‐7で変換しているが、先月号の最後に間違ってF‐8を押してしまい画面が暗くなり、色々作動している内に文字が全部消え、それでも手を加えた
が復元出来ず、書き直した。コンピューターに詳しい方に聞くと、プログラムの問題よりミス作動で元の所が出てしまったのではないかと言われた。プログラムを更新して2年少し、何故か遣り切れない念いにさせられた。
訂正:一月号のロンドリーナとの試合で5回までを2回とし、菅田投手は医師でなく裁判官と訂正する。
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