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​むすび

 第11次あるぜんちな丸同船者名簿作成にあたりましたが、明年は渡伯45周年を迎えます。

 渡伯当時、11歳であった私は渡伯事態が、海外旅行にでも出かれる位の軽い気持であり、むしろ学校内では優越感を持つほどでした。その時(移住)から今日に至るまで言葉(ポ語)にどれほど悩まされましたか、恵まれた悩みと一言でかたづけられるかもしれませんが、たしかに同年代の友に比べたら勉学出来るだけでも恵まれて、むしろ贅沢と言われるかもしれませんが、中学入試時のポ語作文は合格ギリギリ、そして高校生時代もLiterarura(文学、文芸)には読解出来ず勉学する気力も失う。そんな頃、蚕病また養蚕飼育に悩んでいた父から、別な角度から学ぶ気持を養えと言われた。全拓連の平川会長にお願い致し当時の群馬県知事の計らいで群馬県蚕業試験場に聴講生として71年9月〜72年9月まで日本の高学年の教育を受けました。たしかに蚕の専門用語など数ヶ月大変ではありましたが、読解は充分理解出来、学ぶ喜びを養うほどでした。家族の営農開拓とは別に、異国での学問、特にポ語は形を変えた開拓と言えます。

 

 帰国後、独立して営農を始め、やり残しであった学問に戻り、開拓地から通学する為バスに乗る時間近くまで働き、走ることもしばしばだった。また帰宅が深夜の1時過ぎであり、桑刈は朝露のある日の出前、通学している間万年睡眠不足だったが、学ぶ楽しみを養うことが出来ました。

 

 農業開拓も並大抵の苦労ではありませんが、通学適齢期の場合はまだしもいいのですが、すでに日本で学んでいた子供が異国、特に移住集団地で日本語ばかりでの会話が、ポ語で文を組み立ての時、日本文の述語が最後にくるのに馴染んでいる私は、前と後ろが逆さまになり、文法的作文にならず異国の学問収得がいかに大変であるかを特記し、文化系に殆どの学生が苦しみました。

 

 最後に同船者名簿作成する前にブラジル初期移民(グァタパラ耕地周辺)、ブラジルの養蚕、両親の満州開拓、茨城大洋村開拓、グァタパラ移住地開拓の資料編纂する中、渡伯時の同航者に感心を持ちその纏めをすすめられたので、地元で随一資料を持ち合わせておりました、同航者の黒沢さんに当時の資料を拝借致し、またレジストロ在住の伊豆田玲子さんからも資料協力を頂き作成する次第です。

 

 尚、この同航者記録もほとんどが編纂でありますことを記して同航者の皆さんの御健康とまた御逝去されました先輩の皆様のご冥福を祈り終らせていただきます。

 

2006年 6月18日(移民の日)

2014年 8月18日 資料追加

林 良雄

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