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今村家のルーツ

  • 7月17日
  • 読了時間: 13分

今村富三郎夫妻とその9人の子供達


 今村富三郎・ツヨ、福岡県久留米市出身。渡伯は1913年5月17日サントス港着の若狭丸。渡伯時は夫妻と子供2人に親戚であり、妻の出身地は岐阜県高山市(飛騨地方)である。


 渡伯後最初の配耕先はグァタパラ耕地で契約農年2ヶ年後、ソロカバーナ線のジョゼ・テオドロ駅へ移転する。1928年幸運植民地生れの今村富三郎氏の子息敏美(2026年5月現在・当年98歳)氏も今回のグァタパラ移住地訪問に同行された。


 1934年頃、ソロカバーナ線のジョゼ・テオドロ駅付近の幸運植民地内で既に農地40haを購入し11人家族で米作、コーヒー栽培に従事する。その後、1961年頃サンパウロ市ビラ・プルデンテに移転。今村敏美氏はUSP法学部を卒業される。現在、9人いた兄弟も今では自分1人健在と矍鑠される。


 今村敏美氏の妻にあたるミヨ子(幸運植民地出身1934年生れ)さんの父親・黒岩實氏は福岡県出身の構成家族で渡伯。その後黒岩實氏はミヨノさんと結婚された。黒岩實・ミヨノ夫妻は1934頃ソロカバーナ線のジョゼ・テオドウロ駅付近の幸運植民地で既に農地10haを購入し、5人家族でコーヒー栽培、米作に従事し自家用貨物車も所有する。その後、黒岩一家はソロカバーナ線を更に北上し、プレジデンテ・プルデンテ駅より北東28KM地点のマルチノポリス市に在住される。この市、2024年現在人口は 25,299人。


 また、今村政三郎・ツボネ夫妻は福岡県出身で渡伯は1921年、今村富三郎氏とは従兄弟にあたり、同幸運植民地に於いて1934年頃8人家族でコーヒー栽培、米作に従事する。


 今村富三郎氏からして、孫にあたる昭雄氏は4人の子供に恵まれ、今回2人の子供さんを伴い同行された。昭雄氏もUSP卒業で首都ブラジリアとサンパウロ市間の仕事場と住居があり、建設業で両方を行き来している。昭雄氏の子息、富三郎氏からすると4代目のルッカス氏もUSP卒業で、グァタパラ移住地から西へ40KM地点のアララクワラ市の大学で歴史学科の准教授。講義上、日本移民の推移には大変熱心で「我がグァタパラ耕地」のサイトを知らせると、瞬時に全部ポ語に翻訳をしてしまい、記載の要点を教えるとグァタパラ耕地就労者名に辿り着く。今村姓を見付け曽祖父名かと聞かれ、そこを読み拾うと熊本県出身の今村姓であった。ヨーロッパ移民を研究中であり、また日本移民の資料として大学講義に使用したいと言われ、問題ない事を知らせた。


 ここ1年で次々とグァタパラ就労関係者の訪問者が相次ぎ、2ヶ月前にも1913年渡伯者でやはり福岡県出身者のグァタパラ耕地就労関係家族者の打診があった。色々と検索したが移民船名がどうしても分からなかったが、今村敏美氏は両親の乗船者名簿を所有すると言われるので、前回の方がこの名簿で奇遇にもヒットするかと淡い期待をしながら資料待ちである。同船には広島県広島市出身の久保友一・フジヨ一家が居り、この一家は翌年9月に長男文次郎がグァタパラ耕地内で誕生し、1915年の平野植民地開植時にはフジヨ夫人がマラリア病罹患で2番目の犠牲者であった。


 そして、日本のサイト管理者にグァタパラ耕地就労者が、『我がグァタパラ耕地』サイト作成してから、その後随分多く把握出来たので、更なる就労者名をプラス出来るか打診の話まですると、98歳の敏美氏は破顔され、また著者が8月にリベイロン市USPキャンバスでモジアナ地方(リベイロン・プレット地方以北のコーヒー栽培耕地地帯)の日本移民初期就労について(この地方の日本移民についての記録が殆ど資料として存在しない)2時間講義の依頼があり、その時一緒に講義される方が元サンパウロ市USPキャンバスの教授で裁判官であったサンパウロ文協評議員委員長の渡辺和夫氏と知らせると、よく知っている人で講義日が決まったらその日は応援に駆け付けると言って頂く。


 日本からの訪問者で、四国大学の萩原教授と著者等も共に訪れた、サンタ・オリンピア農場(グァタパラ耕地と農道1つを挟んで隣接地)で1912年第3回移民船巌島丸、サントス港着4月28日の移民者23家族の配耕先であり、福岡、熊本、愛媛県出身者が当時雑貨店での掛場台帳に、23名の氏名が記されるのを見付けたことを農主に知らせると、農村関係のインフルエンサーを手掛ける方で、その場でナレーションを求められ撮影配信すると、周辺一帯にこの動画が閲覧され付近の方々に問われる事が急増した。その後手持ち資料で、この23名の氏名を日本字書き、出身県、更に20年後の移転先、営農内容も把握できた。


 今村家とは関連が無いが、この第3回移民船巌島丸移民のサンタ・オリンピア耕地で就労された、23家族内の1家族である塚本秋吉・ハル、熊本県八代郡出身者が1934年頃に同幸運植民地に6haの農地を購入され6人家族でコーヒー、綿等の栽培に従事。同植民地生れの今村政美氏も、きっと存じであろうと思う。


 グァタパラ耕地中央部内は、移転後1度訪れた事があると言われるので、それでは今村家の曽祖父母1家が最初に降り立った、現在では廃駅となっているパウリスタ本線グァタパラ駅跡を案内し、今村一家が異国ブラジルの地で働き出しの第一歩を踏み出した地である。駅に数年前まであった、半分朽ちかけていたグァタパラ駅名標はどこかへ完全に姿が消えており、ブラジルでは恒久的に保存維持することは難しい。今回アクセスする路線は日本移民発祥の地の一つであり、多くの日本移民が利用したグァタパラ駅は1868年にパウリスタ鉄道が開通したがその路線の現状は、この2駅先のサン・マルチニョ駅付近のサン・マルチニョ製糖工場で生産される、エタノール、砂糖の輸送路線に使用されている現在であり、そこから先の線路は敷設されたまま廃線となっている。また、このグァタパラ駅から数百メートル離れた先の東寄りに、モジアナ線モンテイロ路線が1910年に開通したので、そのモジアナ路線グァタパラ駅を利用し、グァタパラ小川の小架橋を渡りグァタパラ小川沿いを走り、近藤四郎農場北下側(ジョン・マルチンと当時は称した)を昔は通過して最初の駅のヴィラ・アルベルチーナ駅(1906年に構築された製糖工場とその高さ約30mでレンガ作りの煙突が現在でも立つ付近が駅だった)か、またはその次のモンテイロ駅で下車したと思う。だが、耕地まで約10KMの道程には耕地所有の支線、軌間1M(狭軌1.067mmと同幅)の私鉄軽便鉄道が1901年に敷設されて4両の蓋付車両、1無蓋車両と2車両のガーデン客車型車両が運用され、耕地まではこれが運行されていた。この軽鉄は、鉄道が敷設されてもその先の道路が発達しておらず、当時蒸気船の運用が重要であった。その為、モジグァース川の河川舟水運は延べ205KMであり、1884年から始まる。グァタパラ耕主の実弟アントニオ・プラードの所有する蒸気船は長さ18.3m、幅5.5mで1885年に舟水運、特に人の移動の足として始め、河川のグァタパラ船着場は1891年に設置、そこの船着場までに軽鉄が1901年に敷設された。それに合わせ、隣郡へ渡郡とコーヒーの運送に鉄橋が1901~1905年に当時では有名なアメリカ製が架橋されたが、一部にブラジル製が使用されていたそこの部分が近年崩落した。


 モジアナ路線モンテイロ駅からグァタパラ駅間の2区間の開通が1914年にされ、以後はこの路線が使用される。また、ヴィラ・アルベルチーナ駅からモンテイロ駅間は急勾配で線路敷設工事には高等技術を駆使しているし、傾斜を登る際、蒸気機関車ボイラーの上部にあたる所には「砂入れが有り」この砂を前進用と後進用の砂撒き管がそれぞれ動輪の前方に配置され、そこから必要時レバーを開閉して砂が撒かれてた。砂を介在させることで摩擦力(粘着力)を増加させ、確実に前に進むための装置があった。


 グァタパラ耕地とサンタ・オリンピア耕地の堺にあったモンテイロ駅(承軌面または道床・パラストは等高線技術を駆使していると先の萩原教授は説明される)で乗車して、リベイロン・プレット市まで出掛けることは1910年から充分できた。約72KMの所要時間は2時間強でその各駅を列挙すると、グァタパラ、ヴィラ・アルベルチーナ(グァタパラ耕地)、モンテイロ(サンタ・オリンピア耕地、グァタパラ耕地)、メンドンサ(レスチンガ耕地、ピラジュ耕地、バレイロ耕地)、ドミンゴ・ビィレラ(フィゲイーラ耕地)、フランシスコ・マキシミリアーノ(サン・マノエル耕地、サン・ルイス耕地)、ジョアキン・フルミーノ(サンターナ耕地)、サンタ・テレーザ(サンタ・リッタ耕地)、シルベイラ・ド・バール、リベイロン・プレット等各駅の中でも、メンドンサ、ドミンゴ・ビィレラ、フランシスコ・マキシミリアーノ、ジョアキン・フルミーノ、サンタ・テレーザの各駅には小コーヒー耕地が散在してあり、第3回移民、4回移民が4~5家族単位で就労し、渡航費無料には3人の労働力を必要とされ、擬成家族が第1回、第2回日本移民には多く含まれていたが、第3回頃から改善が現れ家庭内の問題も減少し、精勤で従順な日本移民はその後も継続的に就労した地域であった。その中で現在まで駅の建造物の形で残っている駅は、グァタパラとリベイロン市郊外精神病院付近に存在するシルベイラ・ド・バール駅である。その後の1969年から、このモンテイロ支線は1日2回の運行で2両編成による貨客混載の混合列車で運行していたが、1976年10月ついに稼働が停止し完全に廃線となった。


 モジアナ鉄道会社には約200両で多馬力の蒸気機関車が所有され、リベイロン~グァタパラ間の路線で初期における客車用の列車は、4両編成で500~800馬力の蒸気機関車が牽引し、貨物の大半はコーヒー運送であり積載量に応じ900~1200馬力の機関車を使用していた。そうした中、1960年代にはこれがデーイゼル機関車化された。また、パウリスタ線グァタパラ駅とモジアナ線グァタパラ駅の間に客車、貨車等の区別なく、操車場は機能的に駅等に付属していた。


 少し枝道であるが、モンテイロ駅の合流地点からサン・シモン駅間の支線ジャタイー路線はグァタパラ耕地内東側の先を横切り、カッポン・ダ・クルース、タツカ、ジロンダ、ジャタイー(現・ルイス・アントニオ市)方面へ進むこの路線の開通は1911年(延べ60KM・1961年廃線)で、この沿線にも小コーヒー耕地が存在し、第2回日本移民船旅順丸の渡伯就労者22家族が就労して居る。このジャタイー耕地就労家族は熊本13、福岡9家族で計22家族であった。


 そして、今村一家の今回最後の訪問先は、グァタパラ移住地内に建立する移民発祥記念碑前(当時の日本国総理大臣・小泉純一郎氏揮毫)で、一期一会を記念撮影して惜別した。


 2代~4代目となった頃には、父祖の拓いた道跡を素直に観みる堺にたち到るのかも知れない。


今村家2代目、3代目、4代目と林良雄氏、近藤四郎氏(移民発祥記念碑前にて)


「我がグァタパラ耕地」記載以外に戦前グァタパラ耕地で就労した人々


・東野 音市 愛媛県伊予郡出身、1890年生まれで18歳時に擬成家族として渡伯。笠戸丸移民のリストでグァタパラ耕地就労者名に記載されず。第4回移民船神奈川丸移民の配耕先モジアナ線モンテイロ路線メンドンサ駅(モンテイロ駅の次)バレイラ耕地へ通訳として任務につく。1940年の頃、パラナ州クリチーバ市ウベラーバ日本人会々長、農場経営者。しかし、これは日本・ブラジル交流人名辞典側のミスにおいて第1回移民のソブラード耕地で就労された。


・金城山戸(笠戸丸移民)沖縄県島尻出身、氏の妻楠枝さんは戸田良雄(医師、歯科医)氏と妻イサミ夫人の妹が楠枝さんで高知県出身の両親で、グァタパラ耕地で1年就労。渡伯は1919年11月22日着伯のはわい丸、長女・恵美子(現姓・篠原)、長男・駒雄、次女・美代子(現姓・熊谷)医師の妻となる。


・1912(明治45)年4月28日サントス着の巌島丸367家族1432名。蓮池九一・妻たづ夫妻は広島県加茂郡西条町字田口出身1912年4月28日着伯巌島丸。子息伯三氏は1914年でグァタパラ生まれ・妻ヒサ子。この巌島丸は船中疫病が蔓延し、第3回移民船であるが第4回移民船の神奈川丸より3日遅れてサントス港へ着岸した。同船者の樽本兼市孫宏美さんが供述しておる。(祖父母の九一・たづ夫妻の件は孫にあたる、蓮池マサキ氏がグァタパラを訪れた折の口述)


・大原綾子当時5歳は、父親木村嘉一・母ミエ、妹文子一家は熊本県鹿本郡出身で、構成家族に甥、姪を伴い就労したが、家族の諍いで姪は嫌気をさし夜逃げをしてしまう。グァタパラ耕地から聖市を経て、聖州リンス市郊外のコーヒー園に就労したのが12歳の時だった。

この巌島丸移民等の配耕後の状況も、第1回、2回とはいかないまでも無事でなく、移民又雇主、邦人対外国移民等の葛藤が数か所の耕地で演じられた。


・林 義茂 1912年4月28日巌島丸。


・丸林網蔵・まさえ 福岡県出身、1934年頃ドアルチーナ駅付近のグァラレマ植民地に家族8人の借地農で米作に従事する。


・柳原正蔵氏は丸林網蔵氏の擬成家族で1913年に渡伯。1934年頃、妻ときの間に4人の子供に恵まれ、ドアルチーナ方面の福寿第二植民地で10hの農地で養蚕飼育、コーヒー栽培に従事する。その後、とき夫人を亡くし、森本チヨ夫人と再婚しその間に誕生したのが、現姓の内山旭香さん。この方の夫で内山政弘氏(父親光次氏は福岡県出身、渡伯は1918年)がブラ拓製糸職員で、1970年代後半にグァタパラ移住地に家族移転され勤務。


・坂本芳行 熊本県玉名郡横島村出身、1913年5月7日サントス港着第二雲海丸、最初の配耕地先はサンタ・リッタ耕地(モジアナ・モンテイロ支線でグァタパラ駅から7番目のジョアキン・フルミーナ駅)、同耕地を1年未満で移転し、グァタパラ耕地に3ヶ年就労後平野植民地に農地を購入するが、マラリア病の為に放置した。


・神藤一 広島県隻三郡川西村出身、1913年5月17日サントス港着の若狭丸、グァタパラ耕地に配耕後年パラナ州トレス・バラース移住地に入植する。


・今村富三郎・ツモ 福岡県浮羽郡田主丸大字以真恵出身、1913年5月17日サントス港着伯の若狭丸、家族構成は夫妻とリクジ、シゲルの子供2人に親戚の高山ツボコ。グァタパラ耕地で契約農年2ヶ年後、移転6ヶ所目のソロカバーナ線ジョゼ・テオドウロ駅南運植民地へ。この地で40haを購入しコーヒー栽培、米作に従事する。


・中尾マスキチ氏が両親、叔父母と共に山口県からブラジルに渡ったのは1915年、18歳の時。最初はサンパウロ州リベイロン・プレットのグァタパラに移住し過酷な労働環境に耐えながらも結婚し、15年後の1930年に帰国。ブラジルで稼いだお金で土地を買い、祖国の地で新たなる夢をみたものの行く先に不安を感じ、2年後の1932年に再び家族と共にブラジルへ。ただ1915年から1916年の2年間は日本移民船は航海していないので、なにかの間違いで1915年と記載されたと思う。


・榛葉 彦平 1914年5月10日帝国丸。平野運平氏の実弟。


・藤江清次、兵庫県出身1929年渡伯。藤井一家の構成家族で渡伯後、グァタパラ耕地に配耕後、2ヶ月で単身カフェランジアの平野植民地へ。ここで妻帯・妻梅野。後年モジ・ダス・クルーゼスに移転し、ここで一生を全う。(子女・阿部小夜の記述)


・北西仁怨(じんじょ)・ステ、石川県出身1929年渡伯。最初の配耕先はグァタパラ耕地1929年~1931年。しかし、妻ステを1931年に亡くす。1933年頃9人家族においてセッテバーラス植民地で米作に従事し、所有農地6ヘクタール。ただし、くに、しのぶ、ひろし、ひろむ等の子供達。孫のオゾリオ・ヒトシ北西67歳がソロカバーナに在住する。


・蔵原 敏秋・春江 熊本県下益城郡小川町出身1929年6月2日らぷらた丸。

最初の配耕先はグァタパラ耕地で1農年就労後、1931年、プロミソン上塚植民地へ。1940年マリリア市管内のメスキッタ植民地の日語学校教師に招聘されるが開戦間近で徒労。1943年ポンペイア市へ移転、1964年サンパウロ市へ移転。 


・生原モアーシル(重吉氏長男)1933年4月15日グァタパラ生れ。生原重吉は弘田千代太氏の親戚で1955年頃はリンコン市に在住、その後ノロエステ線アントラジーナ市で歯科医。


・前村与吉・鹿児島県出身アフリカ丸で渡伯、1935年~37年まで2年間グァタパラ耕地で就労後、バリニャへ移転後78年間在住する。(子息吉之助の記述)


・祖父江 利光、敬一、重勝 兄弟は愛知県中島郡祖父江町出身でバリンニャ市に在住して居り、前村氏とも親しい。


・佐々木辨五郎・妻まさ 岩手県川井村出身1933年4月26日渡伯。構成家族に弟康雄・妻てるこ、とみよ、きみこ、忠治、ともこ、ちよみ、次郎、広治。一家はグァタパラ耕地で2年就労後、セルトンジィーニョ、プ・プルデンテなどに6回移転される。

佐々木氏の構成家族であった及川儀一氏は、グァタパラ郊外に農地を求め農業に従事する。後年兵庫県出身の尾崎万治・ミヨノ夫妻、万治氏の死亡でミヨノさんと結婚。しかし、長男の他の子供達は尾崎姓を名乗っていた。尾崎氏の長女はグァタパラ移住地入植者第2陣の長谷川宏造氏構成家族で実弟・雅昭氏結婚されるが、数年後長谷川雅昭一家は帰国した。また、尾崎家の親族がバリニャ市に在住する。及川氏はリンコン墓地に埋葬されている。(在伯岩手県人会資料)


 
 
 

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ズモン耕地 03
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廃コーヒー倉庫 07
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延べ10キロの水路
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グァタパラ耕地内のコーヒー園に並ぶ日本移民(1920年頃)
アルベルチーナ駅
1889年ころのグァタパラ耕地
グァタパラ耕地コーヒーの樹海
生産物馬齢薯をラバの背につけて市場迄
ヅモン路線列車
リベイロン・プレットモジアナ駅前・
モンテイロ駅
grupo escolar 1996
puericultura, lactario, farmacia 1992
拓魂
別れのテープ
サンパウロ市ルース駅
ドラムカン風呂で入浴

Brasil サンパウロ州グァタパラは第一回笠戸丸移民が配耕されたことから日本移民発祥の地と言われています。グァタパラ耕地を中心にブラジル日系移民にまつわる話を紹介しています。

 

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