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グァタパラ新聞2020年9月号

毎月恒例となりましたグァタパラ新聞の最新。コロナに負けず毎月きちんと林良雄さんから送られてきます。

メールには、「私達のグァタパラ郡ではコロナ感染者累計が69人になりました。その内、入院中が6人で死者1人となりました。移住地内でも感染者確認が4人ですが、今のところ日系人の感染はありません。」とあり、林さんの住むグァタパラでも感染者数が増えているようです。1日も早くワクチンが発されることが望まれます。


グァタパラ入植者


◼️45 川上 淳 茨城県水戸市酒戸町  1933年生れ(第19陣)


 住宅と倉庫を別棟で建築、これは初めての試みで、一般は半分を倉庫にしているが、収穫物を積込むと鼠が多くなって皆困っているためと、家族が多いので別棟にし、住宅は現規格通り90平米にし、倉庫は120平米位にして、合計1,400コントかかった由。弟只君は、望まれて工事事務所に勤務していたが神経痛で退職。入植初期頃。


 当初馬鈴薯に力を注いだが、早くから養蚕に切りかえ既に7年、現在桑園7ha、蚕室は既設451平方のもののほか576平方の物を建設中である。コンテナ飼育土間の枠飼 に先鞭をつけたのは同氏である。後年移住地内で商業に携る。



◼️46 森井 寿男 茨城県東茨城郡内原町鯉渕 1919年生れ(第23陣)


*氏の生地は東京浅草松山*


 入植後養豚を主において養豚組合の衛生を担当して巡回中、川上淳氏のところで発生したアフトーザ口蹄疫 を自宅の豚に伝染させ一頭を毒殺、他は恢復(かいふく)させたが丸一年配合飼料を使い、養生させて全部売却、養豚を止めたが利益を度外視したので携行資金を使い果たした。


 野球をやって足を折り長く療養したので、米作も食いつなぎだけ50俵位の収穫に止り、養蚕中心に経営を切変えて以来6年、桑園5haを持ち、43平米の蚕室を設備し、今年1,240gを掃立て平均3,5kgの優秀な成績をあげたが将来は養鶏に転換して行きたい希望。


 10周年を省みて「一時経営の行詰りから日本に帰りたいと申出たが、やる気があればと振興計画に入れて貰って、設備を拡張し、以来丸1年今では何とか落着いて銀行融資も返済し、負債は少ないので将来に希望をもっている。養蚕はこの程度で拡大せず老年になってもやれる養鶏に切かえて行きたい。」高橋昇氏は義兄である。



◼️47 高橋 昇 茨城県東茨城郡内原町鯉渕 1915年生れ(第23陣)


*氏の生地は東京浅草*


 入植後宅地が樹林であったため柑橘用地2haに落花生を作ったり低地で稲作をやったり、養鶏も500羽を1年半やったが何れも思わしくないので、1966年から養蚕を始め、今日までに14haの桑園を造成し、715平方の蚕室を建設し、昨農年(1973年)には1,260g掃立て4,164kgの収繭をあげ経営は安定している。用地は36haを確保、家族中長男は別に24haの用地を取得して3km離れたところで桑園を造成し、住宅と蚕室を作ってもらい、山形・茂木庄三郎氏の長女と結婚、経営は確立している。昇氏、後年日本へ帰国する。



◼️48 池津 勝治 茨城県筑波郡谷田部町 1942年生れ(第24陣)


*氏の生地は長野県下伊那郡松川町部奈*


 渡伯前農業経験ななかったが、父(林富男氏)、兄(林健次氏)が既にグァタパラに入植しておる等の関係で、入植後大きな失敗もなく順調な農業経営ができて一時2,000羽の養鶏飼育をしていたが、現在(1973年)は養蚕農家として安定している。用地は24,5haのうち12,5haの桑園を有し、昨年度(1973年))約5,000kgの収繭を上げた。本年度は掃立グラム当り平均3,77kgの成績を上げている。


 水戸市で溶接工をやっていたが、県の勧めで、義父池津芳松(1948年谷田部の筑波開拓地に入植)と急拠養子縁組をして、その次女と結婚、池津両親と義妹を同伴渡伯。溶接工で鍛えた緻密も役立って順調に経営を確立した。家族の義父は入植3年目に死亡したが、義母は健在。妹は中島水哉氏の長男に嫁ぐ。

 *池津 芳松、1902年新潟県三島郡王寺川村(現・長岡市)で7人姉弟の5男として生れる。子供の無い伯母により子供の内に上京し、東京で就学をする。日本銀行の金庫造りを手掛ける。召集され第13師団歩兵第30連隊第2中隊伍長。兵役中妻が死亡。子供たちを区内の方々が面倒を見られ、区民の手で隊に請願書が送られ帰京。東京都大森区(現・太田)にて、つねさん(旧姓・塚本)と再婚し、次女の澄子誕生。東京空襲の際、防空壕に避難中焼夷弾が入口に落下したと思ったが、焼けあとの弾であり難を免れた。空襲被害を避ける為牛久へ疎開。戦後の食料難で東京に戻って、4人の子供たちへのひもじさを嫌い牛久に住みながら開拓地を拓く頃、三女美枝子が出生する。

 昭和23(1948)年矢田部の筑波開拓地へ入植するが、一般の開拓地取得とは異なり少しずつ買い足す。氏の金庫職人として、戦後東京都内で十数年も開かなかった銀行の金庫を、持ち合わせた職人の腕で見事開けることが出来、最も誇れる話を伺うものであった。*



◼️49 渡辺 政勝 茨城県筑波郡谷田部町 1927年生れ(第24陣)

*氏の生地は山梨県で六人姉弟の次男。15歳で渡満、ソ連に抑留される。山梨県出身の千代子さん(旧姓・雨宮)と結婚し、昭和24(1949)年に矢田部の筑波開拓に入植。牛飼い、落花生、サツマイモ等を作付けした。*


 渡辺三郎、光次氏と同様の事情で渡伯、入植後養鶏経営を主として現在(1974年)成鶏9,000羽、雛2,000羽、用地は19,5haを所有する。


*注:渡辺政勝氏の十八番だった「異国の丘」(作詞:増田幸治、作曲吉田正)、シベリア抑留の兵士間で歌われていた日本の歌謡曲の楽曲である。これはシベリア、ウラジオストク郊外アルチョム収容所にいっしょに収容されていた、吉田正と増田幸治。そして初めて歌ったのが収容所の演芸会であった。これ以降、作業の行き帰りや夕方の人員呼時に、皆が口ずさんだ。お互いをいたわり、励まし合うようになり、自分さえよければといった殺伐とした雰囲気は次第に薄れていった。 (ウィキペディア引用)*



◼️50 渡辺 三郎 茨城県筑波郡谷田部町 1922年生れ(第24陣)

*氏の生地は山形県寒河江市。*

 渡伯前筑波開拓組合で酪農経営、入植地が学園都市となることが決定したので実弟等と共に渡伯に決心。


 入植翌年から養鶏を経営、現在成鶏1万羽、雛1,000羽。用地22,5ha、組合役員等を務めグァタパラの中心人物。


 自分は茨城でも10年の開拓地経験をしたが、10年で基礎ができれば上出来である。組合経営については大事な点だけまとめればよい。あくまでも自由意思に基く自主的な組織であるべきである。



◼️51 渡辺 光次 茨城県筑波郡谷田部町 1932年生れ(第24陣)

*氏の生地は山形県寒河江市*


 渡辺三郎氏の実弟。渡伯前酪農経営、入植後養鶏経営中心で現在(1974年)成鶏12,000羽、雛4,000羽、氏は池津勝治氏の義兄でもある。所有面積29,5haである。



◼️52 海老沢 信雄 茨城県筑波郡谷田部町 1930年生れ(第24陣)


前前者と同様の事情で渡伯。当初より養蚕に主力をおき用地51,5haを確保し、昨年度は8,119kgの収繭をあげ、本年(1974年)は9千kgを超える予想である。



◼️53 園部 久男 茨城県西茨城郡七会村 1929年生れ(第24陣)

 渡伯前居住の大沢開拓組合は3,3haで発展性が少なく県からの勧めもあり渡伯。当初米作をやったが65年末から養蚕を始め現在用地32ha。昨年度(1973年)は7,146kgの繭を出荷、組合中一、二位を争う養蚕農家になっている。

*注:七会村。1889(明治22)年町村制施行に伴い、徳蔵村、塩子村、小勝村、大網村、真端村、上赤沢村、下赤沢村の七村が合併して西茨城郡七会村が成立。2005年2月、東茨城郡常北町・桂村と合併し東茨城郡城里町となる。 (ウィキペディア引用)。*



◼️54 阿部 竹雄 茨城県北茨城郡関本町 1924年生れ(第25陣)

*氏の生地は山形県西村山郡大江町所部で農家の七人兄妹の次男。

農地が小さい為、林業に従事し、特に山で伐採した木を山の麓まで運ぶ「丸太下り」に携わり、鈴木照夫、鈴木金三郎、木村安雄氏等も同じ場所で働いた馴染みである。

郷里山形県の同大字出身、しげ子さん(旧姓・鈴木)と結婚し、長男が誕生するまで山形県で働いた。*


 甲種合格で海軍に入隊、戦後29歳の時常磐炭鉱に入り12年間就労した。

入植当初米、落花生の栽培、養鶏をやったが結局水稲作中心で努力して、最近反当り778kgを収穫し、水利組合長となり米作の中心的存在となった。

*晩年自分の農地を持つことが夢であり、それが実現出来たので満足。*



◼️55 木村 安雄 茨城県北茨城郡関本町 1924年生れ(第25陣)


 山形県上ノ山市大門の農家三男。高射砲隊に入隊。戦後、阿部竹雄氏と同様の林業に従事する。また、常磐炭鉱も同様であった。

 

 入植当初、家族が女性ばかりで稼動力が少なく不振を続けたが、養鶏で活路を見出し現在小羽数であるが努力中である。


*後年、年金生活時代を迎える頃サン・ジョゼ・ドス・カンポス市に移転する。



◼️56 鈴木 金三郎 茨城県北茨城郡関本町、1927年生れ(第25陣)

 氏の生地は山形県西村山郡大江町、農家の長男。16歳で兵役志願、18歳で終戦。常磐炭鉱に入り20年後移住した。


 入植当初米作、養豚をやったが早くから養蚕経営に専念、昨年度には、5,300kgを収繭、2棟の蚕室、稚蚕室、貯桑室各1棟を所有。


*後年サン・カーロス市に移転する。*



◼️57 佐久間 好秋 茨城県北茨城郡関本町、1926年生れ(第25陣)

 原籍は福島、農家の五人兄弟の四男(父親が樺太に移住後出生)、大泊で入隊したが終戦後病気で原籍地に帰され、前記の3名と同様常磐炭鉱に就労した。入植後現在養鶏専業で成鶏4,800羽、雛2,000羽。


*後年娘婿の農地イビウナ市に在住する。


 後述する山口県出身の斉藤光夫氏長男長一氏と佐久間氏長女あけみさんが、常磐炭鉱地域の小学1年生時が同級であった。


 付記:常磐炭田。福島県双葉郡富岡町〜茨城県日立市まで広がり両県にまたがる、夜ノ森と久慈川に挟まれた沿岸地域に立地していた、純度の低い炭質。さらに地層が激しく褶曲しゅうきょくを受けているため、石炭層を求めて地下へとひたすら掘り下げる。この低カロリーの石炭を大量に産出、戦後石油が順調に普及し1976年全面閉山する。 (ウィキペディア引用)*



◼️58 斉藤 淳 茨城県東茨城郡内原町鯉渕、1930年生れ(第29陣)


 派伯実習生としてブラジルに行った県拓連の家村氏から話を聞き、かねがね広い所で農業をやりたいと思っていたので応募した。入植後養鶏を主体に1,500羽飼育したが、低地耕作と共に成績が上らないので、3年前に雑作に移転して養蚕を始めた。昨年(1974年)は450g掃立て1,700kgを収繭。今年(1975年)は今まで5回、最高80gを掃立てた。用地は32haあって桑園は4,5ha、蚕室も180平米で農機具はクボタ耕転機だけで規模は小さく、養蚕の開始も遅かったので経営は未確立である。


*後年娘の在住するサン・ジョゼ・ド・リオ・プレット市に移転する。 以上茨城県出身者30戸である。*



訃報

 8月5日、ブラジリア在住の吉田笑子(旧姓・真名子)さん享年70歳が、コロナウイルス感染で入院中に容態が悪化し心臓麻痺で死亡される。謹んでご冥福をお祈り致します。

【編集後記】


 ボリヴィア訪問から早1年経過した。私が宿泊させて頂いた藤田澄人氏から近況のワッツアップが届いた。

コロナ禍は比較的少ない。また、鶏卵価額は高値を維持している様子。そしてグァタパラ移住地の皆さんに宜しくとあった。


 しかし政治的問題があった昨年、大統領選の不正疑惑でメキシコへ政治亡命したエボ・モラレス(社会主義運動党・MAS)、この大統領補充選挙を10月18日に控え、MAS党の勝算が高く、そうするとエボ・モラレスも亡命先のメキシコから帰り、以前と同様な政治方針となりインフレが再発すると懸念される。


 ボリビア中部コチャバンバ県チャバレ、この地域は、コカ栽培が盛んで、MAS党の支持基盤であり、多くの貧しい先住民の支持者が存在する地域と言われる。

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