日本では赤・白・ピンクとツツジが咲き誇っています。
ブラジルの林さんから送られてきた今月の写真は、原産地が中米~ブラジルのメガスケパスマ・エリトロクラミス(キツネノマゴ科メガスケパスマ属)「赤い覆いの」という植物です。南国の花って言う感じがします。
メガスケパスマ・エリトロクラミス(キツネノマゴ科メガスケパスマ属)「赤い覆いの」
文協第一回定例役員会 2024.3.2
2024年度担当役員(敬称略)
【総務委員】
A区 松田信義 墓地
B/C区 多田豊希 体育
D区 池津純一 農事部
E区 竹中順市 文化
【財務委員】
渡辺光芳 渉外、施設
白水信祀 教育
大野卓治 環境、書記
吉岡美津子 文化
藤山実 施設
上田洋希 文化、書記
・入植、収穫祭は7月6日と7月7日、運動会は7月27日に決定する。
・2021年、2022年、2023年の地租税の調整は終了する。
・先に交換された入口のポルトン、トイレ側へのドアの売却を承認する。
・毎週水曜日の午前中に役員の誰かが事務所に在中するので、会員で入用な方は訪れる様。
・監事から毎月会計諸帳簿を見れる様に求められる。
・新聞への賃貸入金の記載は差控える。
・誠グループの責任者、委員長・海老沢康弘、副委員長・小林スエリ、総務委員・海老沢由美、
会計・茂木ヒサエ。
・祭典推進委員白水信祀、上田洋希、海老沢光次郎。
訂正
3月号記載の文協会員雫田政彦氏は昨年4月号に記載して居りますので、重複記載を訂正致します。
婦人会2024年度役員並び監事(敬称略)
会長 渡辺 千代子
副会長総務 落合 としえ
会計 井上 美紀子、鈴木 千代子
監事 新田 和美、 高木 敏江
現在 23名の会員。
自由市場開催
今年になって最初の開催となった、自由市場が曇空中の3月10日に開かれた。開催早々に客足も多い。
出店は13店で、16名の参加者であった。1月、2月と休んでいた関係か、各店の品数も多く見掛ける。
今回も、各店の品々を重複しながら記す。
木のイス、木の鉢入れ、竹カゴ、ランの鉢、手提げ、エプロン、ブレスレード、小物入れ、フキン、ススピーロ、パリャ・イタリアーナ、コーヒーゼリー、弁当、シュークリーム、漬物、ニンニク、サトイモ、サツマイモ、海苔巻きの輪切り、テンプラ、肉マン、ギョウザ、焼饅頭、蒸し饅頭、ワッフル、鯛焼き、センベイ、ピタイヤ、カリントウ、蜂蜜、鯛焼き、花ウメ、うめぼし、タペッテ、手提げ、カリントウ、味付シメジ、生シメジ、カレーライス、バター炒めのシメジ、オニギリ、酢レンコン、タクワン漬け(ミソ味)甘なっとう、
マンジョーカ・シュピッス、レンコン・シュッピス、ふりかけ、味付ノリ、ソバ、エスペット(フランゴ)、焼そば、寿司(サーモン、カッパ等)弁当、饅頭、ギョウザ、冷やし中華、焼そば、マッサン・アモーレ、トルタ・デ・リモン、パステル、ブーブル(茶・ミルク味、マッサン・ヴェルデ、モランゴ、ミルチーロ)バタタ・フリッタ、オニギリ、ラッカセイ(甘、塩、ツマミ)、サケリッタ(カイピリニャ・酒)、モランゴ、キューイ、マラクジャ味、コロッケ、弁当、ソウメン、海苔巻きの輪切り、オカキ(三種類)、饅頭(酒、蒸し、焼き等)、大福、モチ、肉マン、ギョウザ、アゲ、佃煮、うめぼし、水、飲物、SKL,HEINEKEN,ジュース、焼トリ、瓢箪人形(8種類)、キンチャク袋、人形、大き目の人形、トトロ人形、メイちゃん人形、キナコモチ、コッシンニャ、ピタイヤ(白、赤)、ポウパ・デ・ピタイヤ、マッサージ用ジル。
販売品は今までと殆どかわらずであったが、量が多かった。電源取口はアングル柱に取り付けられ、ATM決済機がない場合はPIXが取り入れられた。殆どの店が完売で、人出も多く大変盛況であった。
日語生徒作文
楽しかった日本JICA研修
佐伯池谷 檀
僕は昨年の6月3日にサンパウロで行われたJICAの2023年度日系社会次世代育成研修、中学生招へいプログラムの最終選考会に参加しました。選考会は面接と作文に分けられていて作文のテーマは「これから頑張りたいこと。」でした。面接は全部の質問に普通に答えられたけど、自分の中ではどちらも自分が満足するほど出来ませんでした。11月21日に結果発表があって、僕の名前が合格リストにのっていました。とても嬉しかったです。両親も僕が一発で合格するとは思っていなかったのでおどろいて、とても喜んでくれました。
そのあとJICAから45ページのしおりと三つの宿題「移住学習」、「こんなところで発見!日本文化!」と「自己紹介」が送られてきました。どのプレゼンテーションもパワー・ポイントを使って写真付きで紹介するようにと書いてありました。移住学習では日本から移住して来た母や母の家族の話、僕のおじいちゃんの話を聞いてまとめました。日本文化については自分の生活や自分の周り、ブラジル社会の中にある日本文化について書きました。自己紹介では趣味や好きなこと、得意なことも入れました。
12月16日にサンパウロで研修の説明会がありました。そこでは研修の説明の他、同じ研修に参加した先輩達のアドバイスや自己紹介をしました。そして初めてサンパウロ州、パラナ州、ミナス州、南マット・グロッソ州から選ばれた9人の友達と出会いました。
1月7日は待ちに待った出発でした。ブラジルの他、アルゼンチン、パラグァイ、ボリビアとペルーの研修生、合計36名と引率の先生4名がグァルーリョスの国際空港に集まりました。僕は12才でグループの中では一番年下でした。日本はどんな国だろうか、自分のことを全部一人で出来るか、友達とうまくやれるか、期待と不安で一杯でした。
飛行機はドイツのフランクフルト国際空港に寄って日本に向かいました。日本の羽田空港に着いたのは1月9日の朝でした。日本のJICAのスタッフのみなさんが空港に迎えに来てくれてバスで横浜のホテルに向かいました。ホテルの部屋はとてもきれいで快適でした。一つの部屋に二人泊まることになっていて、僕のルームメイトは久場良則君でした。良則君はボリビアのサンタ・クルスに住んでいて背が高くておにいちゃんのようでした。
次の日の10日には開講式があって、僕達の研修がスタートしました。開講式にはJICAのえらい人達が来られたのですごく緊張しました。それに僕は名前順でいったら二番目だったので一番前の列でした。それに開講式の間はずっとしせいをきちんとして座っていないといけなかったです。自分は普段は落ち着きがないので、それを思うと更に緊張しました。えらい人達のお話が終わったら一人一人自己紹介をしました。僕は二番目でうまく出来ました。開講式の前に練習が出来たのが良かったです。研修員は全員で36人だったのでみんなが終わるまですごく時間がかかりました。その間、ずっとしせいをたもっていないといけなかったので大変でした。
最初のプログラム、アイス・ブレイクはみんな緊張を解かし、お互いを知り合って、溶け込めるようにと行われました。野外炊飯では僕はまきを切ったり、カレーを作ったり、食器洗いをしました。グループで作ったカレーはとてもおいしかったです。このカレーの味はみんなの手伝いがなかったら作れなかったと思いました。そのあとプロジェクト・アドベンチャーがありました。一緒に料理を作ったり、遊びをやったり、さわいだりして最後にはみんなと仲良くなれました。
最初の週末にはカップ・ヌードル博物館に行きました。カップ・ラーメンの歴史のビデオを見てる時、カップ・ラーメンを開発した人はすごいひらめきがあるのがとてもすごいと思いました。そしてマイカップラーメンのデザインを描いて、そのあと具材も自分で選んで世界に一つだけしかない自分のカップ・ヌードルを作りました。とても楽しい体験でした。
最初の日曜日に現在、日本に住んでいる僕のいとこ三人がホテルに迎えに来てくれて東京を案内してくれました。秋葉原に行ってクレーンゲームやガチャポンを回したり、浅草を見学して写真を撮ったり、スカイツリーの近くも通りました。昼ごはんは回転寿司に行ってマグロ、エビ、イカなどのにぎり寿司を食べました。研修のプログラムにはのっていなかった東京に連れて行ってもらって感謝しています。
沖縄東中学校とのオンライン交流会がありました。最初は沖縄の中学生が自分達の学校を紹介してくれました。それから僕のルーム・メイト、良則君とアルゼンチンのえみさんが南米に移住した沖縄人のお話をプレゼンテーションしました。良則君とえみさんのおじいちゃんおばあちゃんも昔、沖縄からそれぞれボリビアとアルゼンチンに移住しました。僕も自分で考えた質問をしました。僕が聞いたのは「そこの学校に他の学校にはない特別な銅像とか歴史的なものはありますか。」でした。答えは「そのようなものはありませんが地域の方々に講師として来てもらっていろんなことを教えてもらうイベントがあります。」でした。
移住学習ではみんなそれぞれ南米に移住した自分の家族の話をパワー・ポイントを使って発表しました。移住学習で思ったことは多くの移住者がお金を稼ぐために移住したけど、中には新しい生活を求めていた人もいたと思います。言葉が通じなかったり、食べ物に慣れなかったり、いろいろな苦労を体験しました。そのおかげでブラジルでは日本の影響が大きいです。例えば、スーパーに行ったらさしみやしょうゆなど日本人が持って来た野菜が沢山売られています。日本食のレストランも一杯あります。
東芝未来科学館では改札機の説明やからくり人形のこと、メーカの家電商品の歴史などを学びました。僕が一番すごいと思ったのは改札機に切符を反対に入れてもちゃんと同じ向きと方向に変えてくれることです。
横浜吉田中学校、体験入学がありました。学校の授業や校内の雰囲気はあるでアニメの中にいるようでした。ブラジルの学校には数少ない美術室、音楽室、化学室、技術室、家庭科教室、道場などがありました。それに自動販売機もあってそして部活動をさかんにやっていました。僕はバスケ部とバレー部の部活を体験しました。僕はバスケが好きでブラジルでは遊び程度やっていましたが、いざ本気を出してやろうとしたら結構大変でした。バレーはポルトガル語の学校で週二回練習していてそれに昨年は僕のチームは大会で二位になり、銀メダルをとりました。日本のバレーの練習は思っていた以上にきつかったです。部員のみなさんがとても優しく、いろいろアドバイスをしてくれました。最後はなんとか練習メニューをこなすことが出来ました。もっとサーブ練習をやったり、練習試合にも参加したかったけど残念ながら時間がありませんでした。授業中は分からないところをクラスメイトが手伝ってくれたり、みんな優しくしてもらいました。たった三日間の体験入学でしたがとても楽しく、新しい友達も出来たので、そのままこの学校に残りたい気持ちになりました。
もう一つの学校、横浜南中学校では僕達がプレゼンテーションをして、学級活動、清掃、部活動を体験しました。僕は囲碁、将棋部を選びました。将棋と五目並べはやりかたを知っていたので何回も試合をやりました。部員のみなさんはとても強くて試合はほとんど負けましたがとても面白くもっとみんなと一緒にやりたかったです。そして囲碁を教えてもらいました。
ホスト・ファミリーとの一日交流では僕は氷室隆聖君の家族にお世話になりました。隆聖君は僕と同じ13才だったのでゲームやいろんなことについて話すことが出来ました。氷室さんファミリーは茅ヶ崎市に住んでいますが、そのおうちには行かないで最初はショッピング・モールに行ってたこ焼きを食べました。店を見て回って、ガチャポンをやったりしてからフード・コーナーでパン、団子、ファンタ・メロンをおごってもらいました。それから車で寒川神社に行きました。夜は寿司屋さんに行って夜ごはんをごちそうになりました。ごはんを食べ終わったあと、氷室さんファミリーが僕の13才の誕生日を祝ってくれました。そして誕生日プレゼントに将棋セットやおりがみなどをもらいました。将棋セットは本当に欲しかった物なのでとても嬉しかったです。車の中で隆聖君としりとりをしながらJICA横浜に送ってもらってお別れをしました。誕生日を祝っていただいて更にプレゼントまでもらって、忘れられないとても楽しい一日になりました。日本を出発する前に僕達、研修生みんながそれぞれのホスト・ファミリーにお礼のお手紙を書きました。
研修旅行は二泊三日で大阪、京都、神戸に行きました。横浜から大阪までは新幹線で行きました。新幹線の中はほとんど音がしなかったので日本のテクノロジーはすごいと思いました。それで新幹線の窓から見られた景色や雪景色はとてもきれいで感動しました。新幹線の中で弁当を食べて新大阪駅からバスで大阪城に向かいました。お城の中にはいろんな展示物がおいてありました。僕は中には大きな柱が沢山立っていると思い込んでいましたがそうではありませんでした。大阪城は8階まであって一番上の階まで上がって外を見ました。ものすごく高かったです。僕はあまり高い所が好きではないので屋上にはあまりいられなかったです。その日の夜は和菓子屋に行って、特別に和菓子作りを体験しました。
そこでは「花と雪景色」という和菓子を作りました。次の日は金閣寺、清水寺、伏見稲荷大社に行きました。金閣寺の周りには池があって、その池にうつる金閣寺はとてもきれいでした。清水寺は僕達のグループがガイドをしました。そして質問もいくつか出しました。清水寺は木造建築で今まで何回も火災にあいました。でもその度に建て直されてきました。そのあと音羽の滝に行って手を洗いました。音羽の滝の水は健康と恋愛と学業を良くしてくれるらしいです。伏見稲荷大社には千本の鳥居をくぐるルートがありました。だけど時間がなかったので途中まで行ってもどりました。千本の鳥居を全部くぐることができなかったので残念でした。研修旅行三日目には神戸の海外移住と文化の交流センターに行きました。そこでは移住について勉強しました。移民像や移住者が寝泊りした部屋がそのままにしてありました。そしてそこでトメ・アスー移住地とサンパウロの友達のおじいちゃんおばあちゃんが同じ船で同じ時期にブラジルに移住していたことが分かったのでJICAの先生もびっくりしていました。僕のおじいちゃんが移住した、コチア青年の写真とその説明もあったのですごいと思いました。最後にみんなしてセンターの屋上とセンターの前で写真を撮りました。
研修感想文を書く前に作文の書き方を教えてもらいました。最初に書き出しを書いて真ん中の部分に研修で印象に残ったことを三つ選んで書きました。そして終わりには自分が思ったことを書きました。分からないところを先生に聞きながら、なんとか書くことが出来ました。
閉講式が行われました。閉講式の前に終了証書の受け取り方を先生から教わりました。JICAのえらい人達や中学校体験入学でお世話になった五つの中学校の校長先生も来てくださいました。みんな一人一人終了証書を受け取ったあと、となりの部屋でそれぞれの校長先生と体験入学の感想をお話しました。僕は友達が書いてくれたカードや手紙を受け取りました。みんな体験入学の自分の思い出をいろいろ書いてくれたので嬉しかったです。それからボードに研修のビデオが流されました。それには飛行場に着いた時から今までやってきたことが全部のっていました。とても泣けるビデオでした。それから僕達はお世話になったJICAの先生や中学校の校長先生にずっと練習して来た「Secret Base~君がくれたもの」を歌いました。いろんな研修生や先生が感謝しました。その後、JICAの先生がギターをひいてみんなで「さくら」を歌いました。
帰国する日の朝、ドイツの空港でストライキがあって帰りの飛行機が突然キャンセルになってしまいました。でもとりあえず僕達はホテルをチュック・アウトしてバスで羽田空港に向かいました。空港ではJICAのみなさんが何とかしようと夕方まで頑張ってくれました。結果的に二つのグループに分かれて帰国することになりました。一つのグループはその日の飛行機に乗ることになったのでそこでお別れをしました。とてもつらかったので泣いてしまいました。僕達のグループは品川プリンス・ホテルで一泊して次の日の夜に帰国することになりました。トルコの航空会社だったのでイスタンブールに寄ってからブラジルに向かいました。飛行機の中のサービスは行きのドイツの会社より良かったです。
この一ヶ月の研修において、いろんな学びた実感、体験をすることが出来ました。いろんな所に連れて行ってもらって、その度にいろんなことを学びました。日本文化に触れることも出来ました。そしていろんなおどろきもありました。例えば日本の建築物が日本ぽくないこと、道ばたや道路にはゴミがほぼないこと、どこに行ってもトイレがきれいなこと、学校の昼食は教室の中で食べること、日本の車の屋根の部分が四角い形になっていることなど。またこの研修のおかげで南米のいろんな国に住んでいる日系人と友達になることが出来ました。将来、その友達を通じて南米のいろんな国を訪れてみたいです。僕はこのJICAの研修に感謝しています。いろんな先生にお世話になりました。13才の誕生日の日に研修生のみんながパラベンスを歌ってくれたこと、友達と一緒に過ごした時間など楽しい思い出をたくさん作ることが出来ました。お世話になったみなさん、本当にありがとうございました。
渋柿
今年は渋柿ハマ・フォルチの生り年である。
先般その柿を戴き、リンゴ一個に15~16個の渋柿を入れてで脱渋をしてみた。さらにグーグルで平たい渋柿を検索。
平核無と書いて「ひらたねなし」。平核無柿は山形県では庄内柿、新潟県では八珍、佐渡島ではおけさ柿。この渋柿、新潟県が原産である。おおまかに言って暖かい地方では甘柿、寒い地方では渋柿が育つ。
入植当初、同船に山形県出身の同級生がおり、日本でやはり平たい渋柿の蔕(へた)を上にして出荷箱に並べ、新聞紙を開いた状態でその上掛けて、そこに焼酎を霧吹き、さらにその上に渋柿を重ねて箱作りをした。それが市場に出るころには渋も抜けていたと言っていた。酒田市坂野辺出であった。
渋みを抜くこと「さわす」と言ったり難しくは「脱渋(だつじゅう)」と言ったりする。全国で800品種の柿があると言う。ビタミンが豊富で、一個食べると一日に必要なビタミンCをほぼ満たす。高血圧などの成人病予防、利尿、二日酔い防止にも効果大。
ブラジル語で検索すると、CAQUIでRAMA FORTE,FUYU,GOIMBO,KYOTOの4品種があり、1918年に日本移民が持ち込む物とヨーロッパからのDIOSPYRUS KAKIがある。
栽培地域(2018年現在)はサンパウロ州が一位で58%、二位がリオ・グランデ・ド・スールで19%、ミナスが8%、リオが6%と続く。
西遊記
今度、西遊記10巻を戴いた。
入植初年度、移住地中央幹線道路の開設と拡張を、青年隊機械班の手で執り行われた。グァタパラ駅から移住地中央までは旧道があり、その先の州道までの幹線道路は無く、新に開設された。そして、駅から移住地内中央に至る、特に現在の吉永農地付近の拡張地は、道路沿いには立木が多かったので、木の根も多く路面に露出していた。青年隊機械班代表の菊池章(大分県出身、1961年5月渡伯・7期生)氏から、その根っこ拾いを私の父親に依頼され、子供の私達数人がこれを手伝う。約二週間程の仕事で、その手間賃は少年少女文学集の西遊記、太閤記、西鶴物語であった。子供向けだった物が、今度は微に入り細にわたっている。これを少し記してみると。
東勝神州敖来国(ごうらいこく)花果山で石の卵から、金の目をした石猿が生まれた。斉天大聖・孫悟空とし、伸縮自在の「如意棒」をあやつり、黄金のよろいをまとい、歩雲履をはき、紫金の冠をかむって、「 觔斗雲(きんとんうん) 」でひと飛び10万8千里。この内容は私(編集者)が父親になってビデオテープで観た「七龍珠・ドラゴンボール」のゴクウ(惑星ベジータ生まれのサイヤ人)。鳥山明の漫書作品で、鳥山氏は2024年3月1日因急性硬膜下血腫で逝世・享年68才、近日連日ニュースで報道。フランス、アルゼンチンで追悼会が開かれた。ゴクウの下地が西遊記と改める。今度の西遊記は 呉承恩(ごしょうおん) (1500~1582年頃の中国、明末の小説家)作、小野忍訳が3巻まで、4巻から中野美代子訳にかわる。ビデオテープより読み応えのある書物。少年時代を振り返る切っ掛けを作って下さり、取り敢えずありがとうございます。
鈴木源治山形県人会副会長
鈴木さんの突然の訃報に、ただビックリしております。お年は良く調べたら、86歳になられておりました。
2月4日のサンパウロ山形県人会総会でお会いした時は、いつも通り元気でした。
4月から6ヶ月間夫婦で日本に行って来るから、今年はグァタパラの入植祭には出席できないと言っていました。
グァタパラには南米開発青年隊として来耕して、主に測量を専門としていたそうです。この移住地には2年いて、その後は、日本で身に付けた測量技術がモノを言い、仕事には困らなかったという。そしてNECに入社。ネッキマンとして活躍。その間、ブラジリア、ベレン、マナウスをつなぐマイクロウェーブ回線のための測量も行っていたそうです。
鈴木さんは山形県人会70周年記念式典を、昨年10月29日ロンドリーナで開催することに駆け回りました。47都道府県で知事をお迎えした地方開催は、山形が初めてだと言っていました。はじめのうちはロンドリーナ開催を一世達はとても無理だと断っていたそうです。が、二世の若い人達がやらせて下さいということで、それではやってみるかとなったそうです。
鈴木さんは当日、朝、私に会うなりポツリ「5年間かかった」と言われました。その式典に間に合わなかった吉村県知事のおみやげ(お茶)、2月4日の総会の時にお渡ししますとの事。軽い気持ちで「ハイわかりました」と言っておきました。後日電話があり、「あれ色々あって重いから、近所に住む大塚喜美恵さんが近々グァタパラに行くから車で運んでもらう」ことになり助かりました。とても重くてサンパウロの街をひきづっては歩けなかった。自分が年を老いた事を忘れていた。
総会に県人会と大塚さんと鈴木にお礼の品として、竜眼を持って行きました。次の日AVパウリスタで電話を頂きました。「竜眼おいしかった。ありがとう」これが鈴木さんとの最後の会話です。
思い出、思い出すままに
昨年の入植祭には、小山徳さんの納骨で拓魂碑に蜂の巣さわぎなどがあり、高木会長にえらい迷惑をかけたからあやまりに行かねばねと言って来る。
石田のみそ50キロを県連祭りで注文して、完売したと言っては電話してくる。
3月16日に長寿会で、田中会長に鈴木さんの事を報告したら「自分は測量班ではなかったから余り付き合いはなかった。源さんは車の運転が乱暴で、しょちゅう水路に車を落としていた。区画面積より少ないと苦情が出て、計測したら道路より水路の中央までで、当時の所長の説明通りだった」とか。
グァタパラでは田中長寿会々長を万吉と呼び、後輩の小島さんはオイ小島と呼び、私は大野さんと呼ばれる。何か変な気がした。
もう一つ、山形県人会佐藤マリオ会長の後は、井上千絵さんだと言ってました。
鈴木さんに見えた景色が私には見えない。千絵さんの変身を楽しみに、10年いやいや15年私は生きてみたい。
3月24日、今日はめずらしくグァタパラは一日雨だった。
拓魂 安らかなれ!
グァタパラ山形県人会支部長 大野 泰治
訃報
A区在住の香川清二(享年77歳)氏、1962年6月23日着伯、第5陣、島根県邑智郡石見出身。胃潰瘍が悪化し、ベネフィシエンシア・ポルトゲーザ病院で加療中でしたが3月11日午前3時に永眠されました。
葬儀は3月12日午前10時、移住地内モンブカ墓地で信徒の祈りを捧げた後、埋葬されました。
供え物に一膳飯、果物が供えてあり仏式が僅かに取り入られる。
ご逝去に心から哀悼の意を表し、謹んでご冥福をお祈り致します。
訃報
去る、3月5日午後0時20分頃、聖市内ACカマルゴ病院で鈴木源治(享年86歳)氏が永眠されました。1960年9月渡伯、南米産業開発青年隊6期生、山形県出身。
サンパウロ州タピライやグァタパラ移住地造成のための測量。他にリオ、パラナ、アマゾン地域等で測量士の技量を振う。
グァタパラ移住地開植当時、2区の低地へ下る農道を6~7人の青年隊員がジープで昇りきった所で、一同車から降りて一息ついた折、鈴木氏は布作りのハンチングを冠ったその帽子を上に高く投げ、抜撃で上手に撃抜いた。昔を偲ぶ縁(よすが)です。
ここ数年、在伯山形県人会を代表してグァタパラ移住地の祭りの式典に参加して戴きました。
ご逝去を哀心よりお悔やみ申し上げ、ご冥福をお祈り致します。
会葬御礼
亡き父、香川清二(享年77歳)儀、葬儀に際しましては、ご多忙中のところ万障お差し繰りご会葬下さり、且つ、又、鄭重なるご弔慰を賜り誠に有り難く厚く御礼申し上げます。
故人が生前中に賜りました格別のご懇情の上、過分なる御香典にお礼申し上げます。
2024年3月
喪主 香川 修一
他 親族 一同
尚、勝手ながら香典返しの儀は略させて頂き、寸志をグァタパラ文協に寄付させていただきました。
俳句 グァタパラ俳句会
門松を立てて新年祝うかな 脇山クララ
君が代を唄いて村の年明くる 近藤佐代子
隣人と揃いのうちわで夕涼み 高木美代子
年明けて悲惨なニュースの祖国かな 富岡 絹子
物価高左うちわにほど遠し 脇山千寿子
モンブカ湖水草の花敷き詰めり 菅原 治美
水草の花の命は短くて 林 みどり
張り替えて扇に俳画墨薄く 田中 独行
〔次回兼題〕秋高し、草紅葉、秋鯖、当季雑詠
*お願い
編集を預かる為、普段は記事が少なく投稿して戴くと大変助かりますが、だが時々記事が多くなりまして、投稿の際は400字原稿用紙で3枚、または1200字前後に纏めていただける様、お願い致します。それ以上多くなった場合は、2回以上に分けて掲載する事もあります。コンピューター書きの場合、モニターの左下側に字数が呈示されますので参照して下さい。
【編集後記】
先の葬儀で遺族であったが、60年振りの再会であった。
小学校3年時からリベロン市の学校に転校したため、殆ど会う事もなかった。それでも60年とは言えども、往時を追懐する面影が充分あった。故人になられた香川氏から昨年、不謹慎だが、この様な事柄の時しか会えないと言っていた言葉が脳裏をかすめた。
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