top of page

グァタパラ新聞2024年2月

今日はひな祭り。スーパーでは、美味しそうなちらし寿司や蛤が並んでいました。手巻き寿司パーティをするご家庭も多い日です。梅の花がちらほらと咲きはじめ、気温は低いものの春の気配を感じる季節になりましたー。

林良雄さんから届いた今月の写真は、ドリアン・ハラミツとアボカドです。ブラジルのドリアンは大きくて、写真の物で10kgもあるそうです!!!


ドリアン・ハラミツ


アボカド



文協第十回定例役員会 2024.1.13

 

協議事項


一、文協地租税2019年と2020年を調整、RSV26(38,8ha)とRSV36(1,414,40ha)。

  残り2021年、2021年、2023年の調整が必要とする。

一、事務職員助手であった海老沢クリスチーネさんを事務局責任者に改める。

一、施設使用料金の改正。

 ・会館と台所 1,000,00レアイス。

 ・会館のみ   500,00レアイス。

 ・イベント会場 100,00レアイス。

   〃 +テーブル、イス200,00レアイス。

 ・県人会使用料 60,00レアイス。

一、長寿会創立五十周年祭へ10,000,00レアイスの助成金を承認する。

一、石川県震災義援金10,000,00レアイスを承認する。


.

2022年国勢調査(ブラジル日報2024.1.9既報記事)


黄色人種の密度が最も高い10自治体

自治体名 市の人口総数(人) 黄色人種の割合% 移住地 

 

アサイ(パラナ州)    13,797人  11,5% ブラ拓

バストス(聖州)     21,503人  10,3% ブラ拓

ウライ(パラナ州)    10,406人   5,9%             

サ・セ・アモレイラ(パ州) 8,063人   4,8%

ペレ・バレット(聖州)  24,095人   4,2% ブラ拓

ノ・ア・コリーナ(パ州)  3,280人   3,8%

モジ・ダ・クルゼス(聖州)451,505人   3,7%

ミランドポリス(聖州)      27,983人   3,7%

ビリチーバミリン(聖州)  29,683人   3,6%

グァタパラ(聖州)      7,320人   3,5% JICA


 1位はパラナ州アサイ市で1万3797人で11,5%が日系人。今から約90年前、1932年にブラ拓によって作られた3つ目の移住地トレス・バラス。日本語では旭移住地と呼ばれ、戦争中に適性国である国の言葉を使った名称では問題があるということでブラジル風にも聞こえる「アサイー (Assaí)」に変更した。


・2位はサンパウロ州バストス市で2万1503人で10,3%の日系人。1928年に「最初のブラ拓移住地」として建設された場所だ。


・3位はパラナ州ウライ市で1万406人中で5,9%。アサイーから北に27キロの隣町に立地するウライ。満杯になったアサイーからもっと安い農地を求めてあふれ出すように移動した農家などが大挙して入植したと推測される。


・4位はパラナ州サン・セバスチャン・ダ・アモレイラ市で8063人中で4,8%。アサイーから23キロ南東に位置しており、アサイー入植者が新しい土地を求めて移動していった場所。


・5位はサンパウロ州ペレイラ・バレット市で2万4095人中で4,2%。戦前にチエテ移住地と呼ばれた二つ目のブラ拓移住地。


・6位はパラナ州ノヴァ・アメリカ・ダ・コリーナ市で3280人中で3,8%。


・7位はサンパウロ州モジ・ダス・クルーゼス市で45万1505人中で3,7%。45万の大都市に日系だけで1万6650人も集まる。戦前にノロエステ、パウリスタ、モジアナ、奥ソロなど聖州奥地に入った移民には、農業の重労働に耐える中で栄養失調や感染症で健康を害した人が多く、地方巡回診療をしていた医療法人「在ブラジル日本人同仁会」医師らが、そちらへの移転を進めて回ったからだ。標高が高く、風土病が少ない健康地へ移転し、聖市という大市場向けに野菜などの近郊農家になったら どうか。儲けは少ないが健康には良く、子供たちの教育の機会も増えると説得する中で、戦後に急速に聖市近郊に日系農家が増えたという流れがある。  

  

・8位はサンパウロ州ミランドポリス市で2万7983人中で3,7%。戦前にブラジル力行会が創立したアリアンサ移住地がある町。NHKスペシャルでも扱われた有名な農業共同体・弓場農場がそこにある。


・9位サンパウロ州ビリチーバミリン市で2万9683人中で3,6%。モジ市のすぐ奥に立地しており、モジからより安い農地を求めて移った人なども多かった地域と推測される。


・10位はサンパウロ州グァタパラ市で7320人中で3,5%。2022年に六十周年を迎えた、ブラジルでは数少ない戦後移住で、現在も80家族300人ほどが住んでおり、同文協に属する日系人家族は主に養鶏を営んでいる。低湿地の広がる地域のためハスやレンコンの栽培でも有名。


 今度の国勢調査で、自分のことを東洋系と認識している国民は85万人しかないことが分かった。今までブラジルの日系人口を200万人としてきたが、今回のIBGE調査を受けてどうするか、日系社会の共通見解を固める必要があるだろう。


 この85万人は日系だけでなく、韓国系、中国系などアジア系全体を含んだ数字であり、日系だけを見たら65万人とか70万人の可能性もある。仮に70万人だとしても、在日ブラジル人21万人を加えても91万にしかならない。


 

川崎レナ

 

 2005年大阪府生まれ。関西大学院大阪インターナショナルスクール12年生。世界には政治的事情で教育を受けれない子供たちがいると知ったことがきっかけで、教育や人権についての活動を開始。2020年、14歳で国際的NGOの日本支部「アース・ガーディアンズ・ジャパン」を立ち上げる。同年10月から22年6月まで、環境問題に取り組むバイオベンチャー企業ユーグレナの二代目「CFO(最高未来責任者)」を務めた。22年11月、オランダに本拠を置く児童権利擁護団体「キッズライツ財団」が、世界46カ国175人以上の候補の中から、「国際子ども平和賞」受賞者に選出。


 川崎レナさんの受賞スピーチ


 私がこの活動を始めたきっかけは悔しさでした。変わりそうにない日本、自分の生まれた国、日本に誇りを持てないことについて、とてつもない悔しさを感じました。私たち日本の若者は政治離れの世代だといわれます。日本の若者は政治に興味がないのではなく、政治を信頼する理由が今はまだ見つからないことが多いのです。差別発言、議会中の居眠りなどを繰り返す様子が日々放送されていす。このようなことをする政治家の皆さんばかではないのは分かっています。市民の声を最初から聞いてくれないように見える日本の政治に、誰が協力しようとするのでしょうか。放送されているような政治家の皆さんばかりだと日本は変わることはないでしょう。


 けれども、39歳の市長が居眠りする議員に向かい「恥を知れ」と叫んだ時、日本まだ変われる。私はそう思うことができました。政治家として議会で寝ないのは普通のことのはずです。政党や思想関係なく、その普通を取り戻そうとしてくれている大人たちがいる限り、日本は私が誇れる国になれるはずです。


 政治家の皆さん、私の発言は実現性がないでしょうか。理想的すぎるでしょうか。私たち若者は見るはずではなかったつらい、悔しい日本の現実を見てきています。それでも理想や希望をまだ持っています。政治家になる前にかっこいい大人になってください。私たちに子どもらしく夢を持たせてください。私たち日本の子どもは皆が理想とする、かっこいい日本になってくれるのをずっと待っています。私たちはいつまで待てばいいでしょうか。


 2022年11月に発表された(国際子ども平和賞)を日本初で大阪の17歳・川崎レナさんが受賞した興味深いスピーチの内容を表現した「かっこいい大人」が何であるかを考えされる内容でした。


         寄稿者 新田 考二


 

信じてしまった脅迫電話

            脇山 すみ代


 明け方3時、トイレに起きたと同時に家の電話が鳴った。午前中に出かける予定をしていたので、時間の打合せかと思い受話器を取った。


 「ママイ、私」と娘とそっくりの声、「どうした?」ときくと、ケガをしている、いたい、今どろぼう、ごうとうが私の部屋に入って来て、体中をなぐっり、けったりしてけがをしている。今ここに居る。少し声がゆ

っくりで変だと思ったが、こわいのでそんな声に聞こえ、でも本人と思ってしまった。いきなり、2万ヘアイス、3万ヘアイス、ドルを出せ、金属を出せ、警察に知らせたら娘を殺す、首を切る、腕を切るとおどし続ける。そんな大金持っていない、今そこにある金、全部出せ、家に現金はない、銀行にあるだろう、銀行はどこだ、おどし続ける、体のふるえが止まらない、娘と話をさせてというと、ママイと話せと娘が出る。信じてしまった。あまりの恐怖にたえられず、物音がしない様に主人を起こす。男のどなる声が聞こえたのか、主人が窓辺に行き、娘のケイタイにかける。


 娘が出て、ケガはしていない、ごうとうも入っていない。


 それは全部ウソ、にせ電話よ、主人が早く電話を切れと大声、娘が大丈夫とわかって体のガクガク、涙があふれ止まらない。こんなひどい、おどしをするごうとう達、信じない、ひっかからないすぐ止める、要注意でした。


 娘の声と信じて、首を切られたら、腕を切られたら、心臓をさされたら、殺されたらどうしよう。

 自分達はにげる時は、娘をつないでむすんで殺してにげる。本当だったらと信じてしまった脅迫電話。


 とにかくガチャと止める事。コジゴは021リオデジャネイロからかけていた様です。

 知り合いの方からカデイア(刑務所)からでもかけてくるそうだと教えていただきました。


 とにかくデズリーガ(通話を切ること)、話す時は日本語で話すが一番。移住地内にもあちこち脅迫電話は、かかっているそうです。


 文化会長高木ウイルソン君にも知ってもらいました。各自で十分注意して下さいとの事でした。

 


ヒロポンと特攻

 

 2023年12月19日付けの、ブラジル日報記事に「ヒロポンと特攻」が掲載される。

その著者・相可(おおか)文代さんが二年半かけて今度出版された。


 私(編集者)がヒロポンと言う物を知ったのは、日本在住で小学校低学年時であり、鉾田陸軍飛行学校(ニッケイ新聞2018年1月23日掲載)付けの元軍人。この飛行学校跡地へ入植。そこへは戦後、多くの長野県出身の満州引揚者が入植した土地約1200町歩であり、私の両親一家、叔父母家族、上村考平氏妹さん等家族が入植した。


 近所で元軍人は酪農を手掛け、牛の出産時にヒロポンを点滴に使用していた。


 グーグルでヒロポンを検索すると、ヒロポン(Philopon)ギリシャ語で「仕事を好む」と言う意味(Philopons)に由来するとされるが疲労が「ポンと飛ぶ」から命名されたという俗説がある。


 日本では、メタンフェタミンが主成分で乱用され、ヒロポンの別名で知られる。「エス」「スピード」「シャブ」などとも呼ばれ、注射、経口、吸煙により乱用された。戦後ヒロポンは覚醒剤取締法の対象。中区神経興奮作用を持ち大量に与えると錯乱、幻覚、痙攣を起す。連用すると精神分裂病様症を来す。しかし、1940年にメタンフェタミン(ヒロポン)の市販開始、普通に薬局での市販薬であり合法であった。1950年に薬事法で劇薬に指定。その翌年に覚醒剤取締法が施行。覚醒剤取締法施行のこの頃、ヒロポンの値段は注射薬10本入りで81円50銭、闇市でも百円以上で買えた。日本酒の並等酒は一升で645円であったため、嗜好品としての入手し易さは際立っていたと言える。


 戦中に、眠気解消剤として夜間作業に関わる兵士用、特に夜間に飛行するパイロットに使用されていたという指摘もあり、「パイロットの塩」などと呼ばれる程、塩なみのパイロットの必儒品として使用していたドイツ空軍にならって、日本軍においても航空機パイロットに対しても支給されていた。戦闘機パイロットには、ナチス・ドイツよりの情報を元にして生産された「ヒロポン入りチョコレート」が疲労回復目的で支給されている。


 ヒロポンの注射薬は、ナチス・ドイツからの輸入された「暗視ホルモン」と呼ばれ、夜間戦闘機「月光」搭乗員として、六機ものB29を撃墜した大日本帝国海軍のエースパイロットである少尉・黒鳥四朗(偵察員・銃手)と飛行兵曹長・倉本十三(操縦士)のペアが、夜間視力が向上するとの事で、ヒロポンを注射されたと主張しているが、戦後にGHDに接収された海軍航空技術廠の資料によれば、「暗視ホルモン」の成分は、牛や豚の脳下垂体から抽出されたメラノフォーレンホルモンとされ、ナチス・ドイツからの輸入品ではなく日本国内で製造された、台湾沖航空戦で既に使用されており、ヒロポンとは全く関係のないものである。


 ヒロポンは「本土決戦兵器」の一つとして量産され、終戦時には大量に備蓄されていた。戦後GHDの命令より、日本軍の貯蔵医薬品の開放指令で、他の医療品とともにヒロポンも大量に市場に流出した。


 陸軍はチョコレートに覚醒剤を入れたなんてことを言っていたけど、海軍はもっぱら注射だけだった(元軍医の証言)。チョコバーには菊の御紋が押されていた。


 チョコレートの原料であるカカオ豆は、1940年十二月から十年間日本への輸入が出来なくなりカカオ豆の生産地域であるマレーシャやインドネシアを植民地としていた。そのため、チョコレートの製造は続けられてたが、カカオ豆は軍により統制され、軍のための医薬品やチョコレートの材料製造として、一部の業者にだけ配られる。


 カカオバターは、解熱剤や座薬の材料としても使われる。


 特攻という無謀な作戦により、6371人の尊い命が奪われ犠牲となった。日本側の戦死者(公財)特攻隊戦没慰霊顕彰会による。そして、鉾田陸軍飛行学校からも万朶(ばんだ)隊を始めとし鉄心隊、勤皇、皇魂、振武、神鷲外4隊計24隊が編成された。その内11隊計67名(89人とも)が命を散す。その裏にある不都合な真実も語り継いでいく必要があるのではなかろうか!


 かっての鉾田航空学校を思わせるものは何もなく、叔父の裏松林堺と上村考平氏妹さんの裏松林堺付近近傍に、特攻隊戦没慰霊顕彰碑が建立されてある。


 このチョコレート配布について、ある戦記で読んだことがあったが、ヒロポン入りもあることは知らなかった。米軍捕虜になった、当移住地内に在住であった方から、米軍からチョコレートを貰ったと言われたが、普通のチョコレートであった。


 

埋草・同窓の回想録・記録編

 

第4回グァタパラ小学校卒業生(1969年度)

 

・菊池昭雄、山形県最上市、1963.5.15 第13陣  死亡。

・Denicio Modesto。

・伊藤弘幸、山口県佐波郡徳地、1964.12.13 第28陣 日本在住・静岡県。

・金箱恒夫、長野県北佐久浅科、1965.6.8 第32陣、グァタパラ在、養鶏業、二男一女あり。

・岡田一郎、長野県上水内信濃、1964.5.20 第23陣、グァタパラ在、農業、一難二女あり。

 近年日本へ就労。

・岡田次郎 右同 インダイアツーバ市在 会社員。

・上村健一、長野県下水内飯山、1963.6.13 第14陣、グァタパラ在住、養鶏業、五男あり。

・藤山政志、岡山県倉敷市玉島、1962.3.21 第2陣、パラナ州クリチーバ市在、会社員、二男あり。

・相馬雅彦、茨城県猿島郡岩井、1962.1.10 第1陣、イツー市在 農業技師。

・Milton Kiyoshi Isuda。

・鈴木俊一、茨城県北茨城市、1964.8.20 第25陣、日本在・福島県 親子で就労。

・海老沢孝治、茨城県筑波矢田部、1964.6.7  第24陣、バストス市在 液卵業、二男一女あり。

・岸田猛、茨城県那珂郡大宮、1963.6.13 第14陣、カンポ・グランデ市在、商業、二女あり。

・大津敏一、茨城県西茨城友部、1963.9.10 第17陣、グァタパラ在 日本就労・三重県、

 一男三女あり。

・志茂知彦、岡山県久米郡中央、1964.11.6 第27陣、リベロン・プレット市在、家電修理業、

 三男あり。

・菅野義春、山形県長井市、1964.5.20 第23陣(妻・シルデッチ)ブラジリア在、商業、

 三男あり、ただし一男死亡。

・倉持明美、長野県飯山市、1963.6.13 第14陣、(現姓・斎藤)、グァタパラ在、

 グァタパラ文協職員、三女あり。

・落合千春、島根県飯石郡掛合、1963.6.13 第14陣、(現姓・真名子)グァタパラ在、

 三男一女あり。

・Elnice Modestro。

・妹尾郁子、岡山県岡山市、1963.11.10 第18陣、(現姓・坂田)日本就労。

・設楽香苗、茨城県西茨城友部、1963.9.10 第17陣、(現姓・諸泉)サンパウロ市在、

 二男一女あり。

・高橋和江、山形県酒田市、1963.1.18 第10陣、日本帰国・山形県 一男二女あり。

・入田佳子、長野県上伊那郡中川、1963.6.13 第14陣、(現姓・寺内)グァタパラ在・

 夫妻で日本就労・栃木県 一男二女あり。近年帰伯。

・佐藤真理子、山形県最上郡戸沢 1966.6.15 第23陣、(現姓・相馬)日本帰国、一男二女あり。

・川上恵、茨城県水戸市酒門、1964.1.6 第19陣(現姓・原)日本帰国。群馬県在。

・白石宗子、山形県東置賜高畠、1963.5.15 第13陣、(現姓・佐藤)グァタパラ在、三女あり。

 近年日本へ帰国・群馬県邑楽郡。

・石井八千代、山口県都濃郡鹿野 1963.8.17 第16陣、

 リベロン市ショピング内スーパーカエフール店員後不明。

 


会葬御礼

 

 母、吉永キヌヨ(享年97歳)儀は、去る12月28日リベロン市サンパウロ病院で永眠致しました。

 葬儀は同日午後四時半より、聖家族教会で執り行い後、移住地内墓地に埋葬しました。

 生前、長い間懇意を賜りました村民の皆様には御多忙中にも係らず御会葬頂き、その上過分なる御香典、御供花、御弔辞を賜り、哀心より厚く御礼申し上げます。


        2024年1月

           喪主 吉永 利行

           他 親族 一同


 尚、本来ならば個別に参上の上、御礼申し上げるところですが、勝手ながら香典返しの儀は略させて頂き、寸志をグァタパラ文協、聖家族教会、長寿会に寄付させて頂きました。



俳句 グァタパラ俳句会

 

めぐりくる刻の早さよ十二月  脇山千寿子


昼顔の道に隣の遠きこと    富岡 絹子


昼顔や茹だる暑さも物とせず  菅原 治美


浜昼顔絆という名の花言葉   林 みどり


羽蟻とぶ灯下に群れて家の中  高木みよ子


昼顔や独り散歩の畑の道    近藤佐代子


十二月老し我にもスケジュール  田中 独行


十二月コロナも終り取るマスク  脇山クララ


〔次回兼題〕新年、扇(うちわ)、水草の花、当季雑詠


 

【編集後記】

 

 新年の賀状を頂くが、能登半島震災が触れてあり、大学時代の友のふるさと能登町、僅かの被災だが、多くの人達には甚大な被害と言う。

 移住地の子弟が被災地で就労し、暮に帰伯したが、そのアパートに兄弟が入居し被災にあったと言われた。

亡き夫が石川県出身で、被災状況を案じて居り、少しでも軽いことを願っていた。文協でも被災地の石川県に、1万レアイスの義援金を送る。厳冬中で降雪も多く、復興には時間が掛かると思いますが、どうか頑張って下さい。

 

bottom of page