top of page

グァタパラ新聞2024年11月号

ブラジルの林良雄さんから、グァタパラ新聞11月号が届きましたー。

今月の写真は、電柱のトランスで2千ボルトに接触し、感電死したオオハシくん。

いかにも南国の鳥という感じですね。

感電死して両足が炭素化した保護鳥のオオハシ・ポ語でトゥッカーノ


文協第七回定例役員会 2024.10.5

 

協議事項


一、太陽光発電設置場に警報機の取り付けを承認する。

一、水道管理経費を15.00レアイスに改定、㎥の水道料を会員に1.10レアイス、会員外に1.80レアイス。



自由市場(10月20日)

 

 去る10月20日、早朝に降雨があり曇空の朝だった。出店は10店で15名の参加者である。出足は来場者が少ないと感じたが、10時半を過ぎると続々と訪れ始め、リベロン市の野村エルザさん、十数年振りの中野キミエさん、バリニャの前村英子さんなどから挨拶される。準備するテーブル、イスは常例になった数が揃えられていた。


 今回も各店の品々を重複しながら記す。

 紫蘇葉、レモン、バナナ、摘み饅頭、揚げ饅頭、ウリ漬け、タクワン漬け、春巻き、パン(ウインナー入り)、弁当、シュークリーム、肉マン、天プラ、苺大福、ギョウザ、納豆、鶏卵、手提げ、紋形饅頭、摘み饅頭、カリントウ、アンボール、クッキー、焼饅頭、蒸し饅頭、鯛焼き、ワッフル、輪切り寿司、花ウメ(ローゼリー)、福神漬け、カリントウ、花ウメ、味付シメジ、生シメジ、卵焼き、カレーライス、おにぎり、シメジのバター炒め、マンジョッカ・シュッピス、酢レンコン、甘ナットウ、ススピーロ(抹茶、レモン、コーヒー味)、パリャ・イタリアーナ、手巻き、詰合せ、刺身、ホット・ロール、焼そば、焼き鳥、冷やし中華、焼饅頭、蒸し饅頭、福神漬け、鉢置き台、ポテトチップ(フランゴ、チーズ、ベーコン味)おにぎり(マグロ、ウメ味)、ブルー茶(レシア、マンゴ、苺味)、ミニ弁当、おにぎらず、パステール(肉・チーズ、フランゴ・カテピリ味)、アイスクリーム(苺入りモチ)、寿司、うどん、コロッケ、オカキ、ドラ焼き、弁当、レシア・ジュース、レシア、ドリンク(ボージカ味)、ハスパジーニョ、ポウパ・デ・ピタイア、クレープ(チーズ、ハム、チョコレート味)、ピタイアの苗木三品種(白、黄、赤)、水、炭酸飲料水、ビール、焼き鳥、カキ氷、スッコ。

 来客者が多勢で、降雨があったので心配したが、午後2時過ぎには完売店が出始め、午後4時前には殆ど完売された。その後、多量の降雨があった。

 


法要

 

 先般10月5日、落合淑子さんの一周忌法要に参加する。

 墓参から移住地村民を一同に会するほどである。

 袈裟(左肩から右腋下にかけて衣の上をおおう長方形の布を意味するようになった)を使用するので女性僧侶(尼僧、 比丘尼(びくにとも)である。


 約一時間の法要が執り行われ、近年にない仏式法要であった。


 お 斎(とき)(法事時の食事)の終了後、中島尼僧に5年前バリニャ市の前村氏一周忌法要には夫の方だったので住職を伺うと、赤血球の病を患い数年前に他界されたと言われた。前村氏の法要では私達(編集者)だけが日語会話をしており、他は皆無の場所であったので僧侶から私達の方へ歩み寄られ、ブラジル生まれの中島氏の日語への努力と簡単な僧侶になられた経緯を説明して頂く。


 その足で今度は、落合秀史氏に伯父の横木春由氏来訪も心待ちにしていたがと伺うと、昨年12月に逝去されたと言われる。


 横木氏が私(編集者)の事故前に、地域の出来事を調べている事を聞き付け、横木氏がグァタパラ在住時で部落会の会議を記した、日本製横書きノート三冊を頂き、これを書面で返礼はしたが、その後事故に遭遇し殆どサンパウロ市へ出掛けられず、改まったお礼をしていないので、今回会ってお礼をしたいと思っていたが 

黄泉(よみ)入りされていた。1928年5月25日生で、辰年生れと言われるから95歳であった。春江夫人(1927年3月13日生)を一昨年に亡くされ、一人でアパート生活をされていたが、付近に孫家族が住んで居り頻繁に訪れたと聞かされた。


 ご逝去されました方々に謹んで哀悼の意を表します。


 

第9回南米選手権芽室ゲートボール大会に出場


 去る9月21、22日パラナ州ロアンダ市で第9回南米選手権大会にグァタパラから1チーム参加してきました。この大会はゲートボール発祥の地北海道芽室町にて毎年開かれる全国大会で、ブラジルも招待を受け参加するようになり、これが縁でブラジル連合会が主催で南米芽室ゲートボール大会が開かれるようになり、今年で9年目を迎え、毎年場所は候補地が申し込み順に選ばれ、今年はロアリンダ市に決まったそうです。


 リベロンから5チーム参加するので合同でバスを一台貸し切り、途中休憩をはさんで12時間かかりました。まさにゲートボール気違いです。サンタカタリーナ、リオグランデ・ド・スール、パラグァイ、ゴイアニア、マットグロッソ、リオ、90チーム(450人)が集まり、75歳以上の(20組)、65~75歳(30組)、65歳以下(40組)に分け、一日目が総当り戦で、得点で約半分が二日目にリーグ戦で入賞が決まる。グァタパラチームは30中22番で予選通過出来ませんでした。リベロンが(30中10番)と(40中21番)で2チームが予選通過しましたが、リーグ戦で負け入賞にはならなかった。


 私は初めてこの大会に出場しました。12時間も駆けて奥地に行く感じだったのですが、立派な3コート屋根付き、3コート屋根なし、他に新たにグランドを市役所の協力で、一年がかりで真っ平に整地し6コートが出来ていた。


 佐藤アウロさんが会長で会員28家族だと言われびっくりしました。この人数で500人近い食事を作るのは大変なご苦労だと思われた。毎月焼きそば会をして会館運営費を捻出するのだと言っていた。


 ゲートボール愛好会の会長が佐藤さんの息子さんで開会の辞で感動され涙を流して挨拶された。難関をやり遂げた苦労が伝わって来ました。グランドだけでなくトイレを新しく建て、男子用の便器の下に隙間の空いた所に敷板が置いてあり、漏れた尿をじかに踏まないように気使いがしてあった。気使いはそれだけでなく、20日の夕食招待にはマリンガから芦原ジャーネ歌手を招き、歓迎のコンサートショーで楽しませてくれた。


 各チームの競技が終わると、即大きな3台のモニターに結果発表が映し出されるシステムは、大会に参加して初めて見ました。奥地だと思っていたが少人数でもこれほどの大会が出来、最新式のシステムに感動した。又、リベロンのシッセロ・ヒロト君がホテルや夕食を安く上がるように世話をしてくれたお陰で、旅の疲れも吹っ飛んで感謝でいっぱいです。

           文責 新田 孝二


 

婦人会一泊旅行(10月10~11日)

 

 年一度の楽しみにしている旅行。前の日に雨降ってうだるような暑さがうそのように涼しくなった朝6時出発。皆さんもう乗っても良いですよと言うことでバスの中へ、ミニバスでも二人がけの所に一人ゆったりと、話しながら行きたい人は二人座って、では出発しますと役員さんの声で一路ポッソ・デ・カウダスへ。会長さんの朝の挨拶を、この二日間の旅行が楽しい旅行でありますようにとのことです。


 向うポッソ・デ・カウダスは皆さんも知っておられると思いますが観光地で有名、新婚旅行や家族づれで観光する人達でにぎわっていると言うことです。キリスト像がある(山の上)所や温泉もあり、温泉は美肌に良いと言うことです。


 グァタパラから車で2時間、バスですと2時間半~3時間とわりと近く、でも婦人会の人達は途中ポストでひと休みしてカフェーをするのも楽しみのひとつです。ポストに入るとまわりは山になっています。そのポストからはもうすぐですよと、ポストを出ると山道になり登坂でまがりくねっています。ポッソ・デ・カウダスが近いようで町に入る前に「花嫁のベール」と言う滝に行きます。行くと、滝はずっと雨がなかったので滝も水不足です。でも、水がある時にはさぞみごとな滝なんだろうと想像できました。休日でないのでゆったりした気分で歩けました。今度はこのままキリスト像がある所に行きます。向かいましたが、途中からだんだんと目の前が見えなくなりまわりも何も見えずモトリスタも思案顔、通りかかった人に急いでおりて聞くとだいじょうぶとのこと、ソロソロと登りますが霧がますますこゆく、20メートル先が見えません。でも戻る道なし!行くしかない!!って行くとなんとかたどり着くもおりて見ると、とにかく霧で何も見えず風も強く、キリスト像の下がカフェーテリアだったので皆で座ってあついカフェーを飲みながら少し休んでいたけど、まわりは何も見えずもうホテルに行きましょうと、ホテルに向かい1時頃にホテルに着き、荷物をおかしてもらい昼食は自由に食べて下さいと言うので行くと、なんと皆が集ってしまいました。小さなレストランなのでなんとおそいこと、腹ペコなのでおそい!!と待つこと40分、おなかがすいていたので何を食べてもお味しいこと・・腹ペコの時には何を食べてもお味しいねえと笑いあいました。


 ホテルのチェックインが4時と言うことで、それぞれに町の中をブラブラ、ホテルにもガレリアがあり小さい店がならんでしました。リベロン・プレットより安いねえと皆さん買うこと・・いよいよチェックイン、ホテルも大きな風格ある豪華な年代物でステキなホテル、有名人がいつも泊るホテルとか?聞きました。


 プールも大きくて広くて、20分以上は気を付けて下さいとはり紙がありました。夕食までには時間があるのでプールに入る人、部屋でゆっくりする人、プールに何回も行った人は肌がスベスベとさぞきれいになったことでしょう。夕食も豪華なもので、何もしないでご馳走食べるのは本当に良いものです。


 次の日のカフェーもすごい、食べきれません、いろんな物がいっぱい、そして昼食を食べるとチェックアウトなのでそれまでは自由。それぞれに町に行く人、散歩に行く人、ぞんぶんに楽しみ昼食。2時にはホテルを出るということでバスに来てもらい、もう少しいたいねえ!と、言いながらバスに乗ると帰えりがけにメルカードに行きます。とのことメルカードではミナスのケイジョを買ったりお土産物を買ったり、さあ帰りましょう帰路につきました。遊ぶ時間はなんと早いことか!・・グァタパラには6時半~7時頃着く予定。グァタパラ近くなると雨が降り出しモンブカの入口に来ると本降り、ポルトン(会館)をあける頃にはドシャ降りです。何事も思ってもない時におこるものですね。風も出て嵐のよう、とにかくバスも屋根の下に入ってもらい、迎えの人もたいへん雨がふきこんでいます。帰るのも急ぎ足、挨拶もそこそこに帰って行きます。最後に私のカバンになりこれで終りね!と思いきやもう一つカバン(トランク)がおいていかれました。ハプニングと言うのはいつも何の気なしにやって来ます。持ち主がいません、あまりの雨で急ぎすぎ忘れてしまったようです。雨もまだ降っています。


 役員さんもあれこれと電話で持ち主さがしをしていますので、私は帰らせて頂きました。こんな大雨は旅行始まって以来初めてのことです。楽しい旅行でした。役員さんご苦労様でした。皆さんもおつかれ様でした。

           文責 高木 みよ子

 


携帯電話詐欺

 

 去る10月24日、夕立前に伯銀のロゴマーク入りの自身の電話番号で電話が掛かって来た。普段記録のない電話番号には出ない様にしているが、今回は自分の電話番号の上、伯銀のロゴマーク入りなので受けた。


 開口一番に、マナウス在住の女性にピックスで5.000レアイスを送金したのか?さらに年金を担保で10.000レアイスの融資手続きをしているかの問合せであった。いずれもしていないと答えると、近日インターネットを使用しているかと問われたので、1日から2日おきに使用していると答えると、そこからハッカーが入って詐欺行為をしているので、銀行に対してそのもののキャンセル作業が必要であるのでその担当に代るので、代った人から会話音がまわりでも聞こえる通話スピーカ(ハンブフリ通話とも)に変えることを求められ、やり方が分からないと言うと指示してくれ、それが出来る様になった。だが相手の声が段々と低くなり聞きづらく、問い返しが多くなる頃雷と強風に混ざって夕立が強烈に降り出しインターネットも電気も切れたので、これでは話が出来ないので明日銀行へ出掛けると言うと、一刻を争う事態で経過すると、詐欺行為が進み止めれなくなるので、15分~20分後に雨がおさまった頃再度通話することで取り敢えず中止した。妻から組合へ出掛け職員に指示を仰いだらと言われ、雨の中 泥濘(でいねい)する道を動き出したら、妻が次女に通話したら詐欺行為と言われ電話に出るなとも言われた。それでも雨の中を組合へ出掛け職員に聞くと、次女と同じ様に言われ、私の口座番号を持ってすぐに伯銀の担当職員に問合せたら、全然問題無しと言われたので、携帯で口座内にアプリで入るが異常がなかった。組合の職員から雷で通話が途切れなければ、次は顔写真を求められ顔認証に使われ、肉声はAI(人口知能)で作り替え口座から預金を引き出されただろうと言われた。組合職員と会話中に電話番号を替えながら4~5回続けて掛けて来た電話番号を次々とブロックすると掛けるのが止まった。

 

 普段から注意していたものが、銀行のロゴマーク入りと自分の携帯番号であったので隙間をつかれた。雷と雨が怪我の功名となった。


 この様な手口があることを知らせておきます。

 


問合せ

 

 さる10月8日、日本の小島りかさんからメールが入り、サンパウロ人文研の坂口律子さんと言う方の問合せを小島りかさんを介して、何度も私(編集者)のメールアドレスに入るがエラーで戻ると言われ、りかさんを通して私のメールアドレスを2つ知らせる。数時間後に坂口律子さんのメールが入って来た。


 その内容は、来年2月に大正小学開校110周年を機に、JICAサンパウロではブラジルにおける日本語教育史展を開催する予定。そのための史料検証に人文研が協力しておる。


 さらに問合せは、2009年ニッケイ新聞4月4日付け記事、ブラジルの古田川夫妻宛てで一枚の写真。小井出桂子さんが母の伊勢子さんが所持していた、グァタパラ耕地の日本語学校の写真である。


 また記事内容は、小井出一家は1913年雲海丸(第5回移民船の第二雲海丸)で、7歳の小井出伊勢子さんが家族5人で渡伯し、最初モジアナのコロニア・サン・マルチーニョ耕地で就労、1914年11月に隣のグァタパラ耕地に「日本人学校があるから」との理由で移って来た。その写真には「巴罹(パラ)小学校」の上に「グァタ」の音を当てた漢字があったはずと新田副会長が指摘した。


 小井出一家は、1923年11月「若狭丸」でサントスを出港し、日本へ帰国、その原因となったのが同年9月に発生した関東大震災だった。32年に故郷の広島市で現在の「広島ファションビジネス専門学校」の前身となる洋裁学校を設立。現在では広島駅前に程近い中心地に9階建てのビルを所有。


 この新聞記事内容に不足を感じ、それを補う部分にグァタパラ新聞2021年6月号の一部を充ててメールで坂口さんに送信した。


 その他、新聞の写真で平野運平氏に付いてふれているが、奥の中央に座る人!平野氏の写真は少なく、平野25周年史、鈴木南樹著「埋もれ行く拓人の足跡」、明治37(1904)年静岡県掛川中学校の第一回卒業生である、平野運平氏の卒業生記念写真を故・麗澤大学名誉教授の丸山康則氏がメールで参照に送って来たものなどで判断する。


 この様な学校前の写真、その所在を確かめる問合せであった。


ブラジル最初のグァタパラ耕地内の日本語学校


 その後、坂口さんが調べたら、2010年の段階で、グァタパラが最古の日本語学校とも言われている記述が、日本移民百年史3巻で裏付けが取れてないのがこの記事にある、写真の所在が確認できてなかったと残念がる坂口さんである。


 末筆に、グァタパラ移住地50年史がサンパウロ人文研にないと言われたので、私が文協から戴いた三冊の内、一冊が手付かずであったので郵送して上げた。


 坂口さん依頼のその写真の件を、この記事当時の担当者にその写真の確認を確かめると、文協事務所の写真箱に保管されてると言うので、その箱にある62年分の膨大な保管写真全部を調べ、職員に引出し、書類戸棚からこれでもかと思う程に写真が出て来たが、肝心の必要とする写真は見当たらず、最後の日は協力者を頼んで調べるが見付けられず。


 「宏深の夢」、小井出伊勢子著(著者のブラジル在住11年間の物語)も戸棚の奥の箱の中から見付け、この本の中に入っているかと聞いて調べるが、グァタパラ耕地に廃館となってたたずむ映画館の前写真が入っていただけであった。


 次はCDに入れたかもしれないと言われ、それも2008,2009,2010年が該当するCDが20枚程検索。私のコンピューターはCD読み取り機能が壊れ、ノートパソコンに入れるが、読みに入って半ばすぎるとCDを押し出してしまうので、文協職員に聞くとハードであるので出してしまう様子である。


 写真に四日、CDに二日かけて検索するが見付けられず、ニッケイ新聞に掲載された写真を転載する。

 

訂正

 10月号で掲載しました、さくら丸同船者氏名中長谷川やえ子さんの夫、長谷川俊二氏とまた長谷川等氏を俊二氏に訂正します。



俳句  グァタパラ俳句会

 

早春のウオーキングに歩数増え  脇山クララ


畑打つや両手に老の力込め    高木美代子


久し雨夜明けとともに止みにけり 小林 敏子


早春の花競い咲く庭楽し     田中 独行


早春やバラの苗買う金賞日    菅原 治美


春寒し寝床陣取る猫の居て    富岡 絹子


泥運びつがいで鳥の巣作りおり  林 みどり


鳥の巣や子を持つ母の猛々し   近藤佐代子


身の丈の菜園楽園畑を打つ    脇山千寿子


〔次回兼題〕 焼野、摘草、春惜しむ、当季雑詠


 

【編集後記】


 先般ブラジル生れの方から、本人の頂いた案内状を元道りにし手渡されその上で問われた。その案内状の上書きに封筒を縦使用され、封口が左側になってしまい、中にある書面が表に出て四つ折りだった。


 表書きされた完成封筒を使用する場合には問題ないが、ブラジル製の一般的封筒を使用する場合、表書きが長いと封筒を縦使用し、上から下へ書きしるし封口が右側へ、中に入れる書面を三つ折りにして内側に折り込む。ブラジル生れの方からこの指摘を頂き、日本文化をよく心得ている事に感心させられた。


 サンパウロ市中央パライゾ区のアパート8階に住む長女から、嘆きの電話があった。

10月11日、時速107,6キロという暴風を伴う雨に見舞われ、3日間の停電が続き一日上下600段の階段を上げ下りしたと言う。それが3日間も続き、別の地域では一週間以上も停電が続いているとも言う。ヌーネス・サンパウロ市長は怒りを心頭する。一時は200万世帯以上、3日たっても100万世帯を超える人々が電気のない生活を強いられた。

 

留言


bottom of page