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グァタパラ新聞2024年12月号

林さんから送られてきた今月の写真はショッピング内で目にしたクリスマスツリーの一部ということなのですが、ベンチにはTシャツ姿で電話している女性が、、。

日本だと寒波がやってくる時期と重なるため、「ホワイトクリスマス」のイメージが強いXmasも、南半球では「グリーンクリスマス」と言って、自然を感じながら楽しむ夏の行事として定着しているとか。

地球は丸いんだなぁ、ということを感じる一枚となりましたー。

ショッピング内でのクリスマスツリーの一部


文協第八回定例役員会 2024.11.6

 

経過報告


一、10月2日ーアニジオ氏が会館内天井改修工事見積に訪れる。

一、10月9日ーカマール砂取り業者1,270,00レアイス入金される。

一、10月11日ーシークレジ銀行に新口座を開設。

一、10月12,13日ー野球部子供の日を祝う。

一、10月16日ーロンジ弁護士とブランビラの件について会議。

一、10月18日ー高木会長と斎藤会計で伯銀、サンタンデール両銀行を訪れた。

一、10月20日ー自由市場催す。

一、10月23日ーサンタンデール銀行の定期預金をシークレジ銀行に移す。

一、10月31日ーモジアナ・ミネイロ砂取り業者9月分4.927,00レアイス入金される。


協議事項


*在伯長野県人会創立65周年記念に祝儀。

 


子供の日を祝う

 

 野球部では10月12,13日の両日に子供の日を祝う。

 


お盆の供養

 

 来たる11月2日午前9時より教会に於いて、神父様にお盆の先亡者への供養をして戴きますので、皆様の参加をお願い致します。


 また、故人名をミサに入れることを希望される方は、事前にカトリック信徒会にお知らせ下さい。

 11月2日午後7時より会館に於いて、誠グループ主催の盆踊り大会が行われ、売店に焼ソバ、焼トリ、海苔巻き、ポテトフライ、パステル等が即売される。

 


彫刻家の訪問

 

 お盆の当日、パラナ州マリンガ市在住で木彫り、彫刻家の礒崎なりよし氏が来訪され仏像彫刻、動物、お寺等の作品を何点か持参され、会館内で展示された。

 


特殊詐欺

 

 「日本であなたの名前を使用した詐欺が行われ、あなたに逮捕状が出てる」と不安感を煽り、LINEの連絡先や口座情報などを聞き出し、金銭を要求してくるととのこと。


 在サンパウロ総領事館では「日本の公的機関(大使館、総領事館、警察など)が在留邦人の方々に逮捕を示唆して、金銭を求めることはありません」と述べ、警戒を呼び掛けています。


 また、在サンパウロ総領事館は、在ブラジル日本国大使館職員を 騙(かた)る詐欺電話の被害が複数寄せられたとして、注意を呼び掛けています。


 詐欺電話に関する報告は11月1日以降に相次いで寄せられ、その範囲はゴイアス、セアラ、サンパウロ、パラナ各州など伯国全域に広がっているようです。

 


自由市場(11月17日)

 

 前日に多量の降雨があり、その天候が続くかと思ったが、雲多い空模様であったが晴間から日射しが明るくみちわたって来た。出店は10店で17名の参加者である。10時半過ぎても客足はあまり多からずであったが、ブラジル生れの人がうり漬けを求めるのには目を見張る。そして、野菜を求める客が毎回少しづつだが増加して来て、今回は特に生トウモロコシを求める客が多勢であった。


 準備するテーブル、イスは常例になった数が揃えられていた。


 今回も各店の品々を重複しながら記す。

 生トウモロコシ、クラール、茄子、バナナ、生ニンニク、潰しニンニク、黒ニンニク(うま味)、オクラ、

ウリ、バージン、アボブリンニア、茄子、メロン、トウガラシ、おこわ、クッキー、シュークリーム、ウリの粕漬け、タクワン漬け、手提げ、信玄袋、カリントウ、摘み饅頭、紋形饅頭、ワッフル、鯛焼き、蒸し饅頭、焼饅頭、輪切り寿司、ゴーヤ、福神漬け、花ウメ(ローゼリー)、苺入り大福、テンプラ、ギョウザ、白卵、

肉マン、リストバンド(pulseira)、カリントウ、花ウメ、味付シメジ、ミソ、生シメジ、ビーフン、輪切り寿司、酢の物、シメジのバター炒め、卵焼カレーライス、おにぎり、パリャ・イタリアーナ、ススピーロ(末茶、マラクジャ、レモン、コーヒー味)、茄子漬け、ヤマクラゲ、焼ソバ、手巻き寿司、詰合せ、刺身、ホット・ロール、ギョウザ、弁当、饅頭、冷やし中華、ショウガ、焼ソバ、ポテトフライ(フランゴ、チーズ、

ベーコン味)、ブルー茶、パステル、おにぎり(マグロ、ウメ味)、おにぎらず、アイスクリーム(苺入りモチ)、鉢置き台、輪切り寿司、おかき(しょう油、塩味)、摘みラッカ、カリントウ、肉マン、ギョウザ、草モチ・キナコ掛け、焼饅頭、蒸し饅頭、アゲ、モチ、酢レンコン、福神漬け、ラキョウ漬け、梅干し、レシア・ジュース、ドリンク(ヴォージカ味)、ハスパジィーニョ、クレープ(チーズ、チョコレート味)、ピタイアの苗木三品種(白、黄、赤)、水、炭酸飲料水、ビール、焼トリ、カキ氷、スッコ。


 来客者は前回よりやや少な目であったが、よく売れた。外部からの来客は、SMSなどで知って来てる人が数多かった。

 


高齢者ゲートボール競技大会

 

 去る、10月27日・日曜日恒例の第39回東北高齢者ゲートボール大会がグァタパラ競技場で行われた。


 開催前の3日間降雨で大会が危ぶまれたが、日曜日は幸い曇で絶好の大会日和でした。参加地域はアララクワラ2チーム、リベロン3チーム、グァタパラ2チーム、グァイラ2チーム、イツヴェラーバ1チーム、モンテアルト1チームで合計11チームで、予選は抽選で各チーム4試合を争い、勝ち回数と総合点数を足し7チームが予選に残り、総合点一位は直接準決勝に組まれて、残り6チームが準々決勝で戦い、勝った3チームが準決勝に上るという仕組み。


 グァタパラBチームは一勝三敗の成績で予選落ち、グァタパラAチームが総合点数6位で予選通過したが準々決勝でイツヴェラーバに惜しくも同点内容負けで敗れた。


 今年の優勝チームはモンテアルト、二位にリベロンA,、三位にリベロンC、同じく三位にイツヴェラーバが入賞した。


 今年も昨年同様、昼食の準備を野球部員の皆さんが気持ち良く引き受けて下さり、近藤雄大君と佐伯博幸君に進行を手伝っていただきました。応援をしていただいた皆様を含め、無事終了出来ましたことをゲートボール愛好会一同感謝申し上げます。有難うございました。        

ゲートボール愛好会

 


2024年度全伯日本語学校生徒作品コンクール金賞


日本語が私に与えてくれたもの

               佐伯 真依


 私は物心がついた時から日本語を話しています。今では、生活に欠かせない言葉です。


 子供の頃から日本語の歌を聴いたり、NHKの「おかあさんといっしょ」や「ピタゴラ・スイッチ」などを見ながら育ちました。幼稚園に入ったら、周りがポルトガル語だったので慣れるまですごく苦労しました。


 5才になった時、日本語学校に入って今も続けています。日本語学校に通っている間、途中でやめて行く友達もいました。それを見て私は「なぜ日本語を勉強してるんだろうか」と悩むこともありました。そしてポルトガル語だけで生活していればポルトガル語の学校で苦労することも少ないと思いました。


 2020年にコロナのパンデミックが始まって家の中にひきこもらなくはいけない時代になりました。確かにこの出来事は全人類にとってものすごくつらいことでした。でも私にとって、それが日本についてより深く知ることが出来た時期になりました。パンデミックの中、父が紹介してくれた「先輩のテーブル」、「世界と私」、「日本語で話そう会」などのオンライン交流会全てに参加しました。一番印象に残ったのはJICAのオンライン交流会でした。各自オンラインで説明を聞きながら日本の料理を作ったり、移住学習や日本文化について勉強しました。そしてパラグァイ、ボリビア、アルゼンチン、ブラジルなどの国から参加していた素晴らしい仲間と出会うことが出来ました。毎回、勉強会のあと、自由にお話が出来る時間があったので、みんなふだんどういう生活をしているかどういう考えを持っているか好きな歌やアニメなど、自分と同じ年代の友達と日本語で自由に話すことが出来たのでそれがすごく楽しかったです。それがきっかけで私も日本のアニメ、音楽、ユーチューブ動画などを見るようになりました。このように日本語のおかげで笑顔、勇気、希望を沢山もらって、パンデミックで悲しい思いをしていた私を救ってくれました。


 今はおかげでコロナが落ち着いたので元の生活にもどりました。日本語能力試験も二級に合格することが出来ました。昨年と今年、日本語ふれあいセミナーに参加しました。そこではブラジルで日本語を勉強している友達と交流しました。それもあきらめないで日本語を勉強していたおかげです。


 日本語がきっかけでいろんなことを知り、いろんな人と出会い、そしてそれが私の人生の支えになって、今まで見えなかった世界がどんどん広がっていきました。もし日本語と出会わなくて、日本語の勉強を続けていなければこんな経験は出来なかったと思います。私はまだ日本語の素晴らしさを全ては知らないので、いつか日本へ行って、日本をこの目で見て、確かめてみたいです。そしてこれからも日本語を使って生活をして、いつか将来の仕事にも役に立てたいです。


 

埋草・南長野について

 

 はじめに海に面しない北南に長い長野県の南に位置する南信、天竜川沿いに伊那谷があり、戦国時代には伊那谷に忍びの術をまもり育て来て忍者を輩出されたと言われ、その天竜川沿いに飯田線が走り、以前伊那市(2006年3月、高遠町と長谷村が合併)に藤山純基・幸子夫妻の長女広美さんの上田夫妻が住んだ所、現在6駅先の駒ケ根に住み、下伊那郡松川町(人口12,024人2024.9.1現在)伊那大島駅の先が父富男、長兄健次、次兄勝治の生誕地であり、手前の隣接自治体が上伊那郡中川村、入田孝雄氏の出身地。数駅下って飯田市は母の生誕地で、市内に慶塚恵美子さんが長い間働いた所であり、藤山広美さんの夫上田教諭が勤めた所でもあった。飯田線の辰野駅で今年(2024年)7月、私の長男はメキシコのレオンで勤めながら、日本免許証の有効期間が切れるので日本へ出掛け、幼友達広美さんと辰野市内で再会している。


 この開拓史は、私(編集者)の林家に多分にふれており、私事的な面は了承して頂きたい。



開 拓

序文


 一通の戸籍謄本


 渡伯を目前として一通の戸籍謄本が必要であった。そこには私達一家の戸籍が記されていた。近年の戸籍謄本とは異なり、日本在住の仁造叔父の戸籍も記されており、45年前の戸籍謄本のコーピーであった。


 読み進む内に一ヶ所解読できない所、それが叔父の満州開拓所在地であった。


 波乱万丈、父富男の開拓史の道程を少しでも記録できたらと思い、ブラジルの地に於いて検索を始めだすが、両親の死亡、また叔父の高齢で殆ど質問調査が不可能であり、子供の頃母の語らいで長野、満州の地は纏め特に満州については、数多の文献で補足、また叔父と同じ満州開拓地に少年時代に入植された上村孝之氏の追憶を追ったものです。


 山間部の僅かな平坦地内に十数家族が田んぼを耕作、その面積も多い農家で6〜7反歩のため小作することも出来ず、東京、名古屋方面に丁稚奉公も多く、農家の家督はそれもできず僅かの田んぼと山間の傾斜地に桑を植えて蚕を飼育、冬は炭焼き、これらで生計をたてるが大変厳しい生計であった。


 この地方は満州開拓の道が開けると、村落ごと渡満する地域も出る程であった。


 渡伯後グァタパラ移住地初期の営農、出来事は近藤康雄氏のグァタパラ小史を転載したものです。東北山形県から九州佐賀県の人々7県で入植し、方言から県民性で多くの問題が多発、その初期をまとめた父の責任は幾許の問題を抱えるものでした。


 二部の養蚕についてはグァタパラ移住地の主産営農の米作が価格の低迷、その他諸々の問題で他の作物を模索、それが養蚕であり、また私の青春時代を重ね、営農の独立へ進み一戸の家族を作るに至りもした。それを合わせてブラジルの養蚕史を加え、グァタパラ移住地で27年営んだ蚕の記録を含めたものです。最後の所に1963年〜1998年迄のグァタパラ移住地で収穫された主な農作物の記録です。   

グァタパラ移住地2007年7月



第一章


 林家について


 ブラジルで養蚕を営む者となると、まずは日系農業者に結び付くことになるが、手先の細かい仕事を得手とする民族であり、もっとも適してる業かもしれない。日本での養蚕専門家の家長がブラジルの地まで移住したうえ、尚且つ、移住後に個々に独立した子供までが、全て養蚕を営んだ家族となると極めて少ないと考えられる。


 私の祖先が長野県の山間部地域で農業を営み、その地形を最大に活用するものが養蚕であった。その祖先については、今日ではおよそ三代前までを遡るのがやっとである。


*祖父母 直太朗・とめのについて記述。

祖父直太朗は曾祖父母、林文吉、きしの夫妻の長男として、明治3(1871)年1月15日、長野県下伊那郡生田村2820番地で出生(現在・下伊那郡松川町生田、地元では部奈(べな))、また祖母・とめのは、下伊那郡河野村出身、父親・宮下長三郎の三女、母親については、戸籍謄本中に母の氏名をしること、不能に付き、其の記載省略と記される。ただ我が家に残されている、家系譜に於いては、かね子とされている。出生・明治13(1881)年2月22日と記されいる。生地は天竜川沿岸を南下した、白壁に囲まれた大きな屋敷だった。


 祖父・直太朗には、この地域特有の屋号(家名) 登(のぼり )、この時代は氏名より屋号が普通であり、当家もこれに漏れず、登と言う、屋号であった。数十軒の部落で、数多くの林家があり、氏名では、目的とする家には、何処どこの林と説明を加えなければ辿り着けず、屋号なら一度で、ことが足りるものであり、まだまだ屋号こそが大切であった。また家紋として 三鱗(みつうろこ)となっておりこれを検索することで、祖先の遡及(ルーツ探し)になるとかと言われる。


 検索してみると、「三鱗・紋所の名。3個の三角形を(品)の字形に並べたもの北条氏の紋所。」北条家の定紋で定まっている正式の紋章。


 北条は姓氏の一つ、本姓は平氏、平貞盛の後裔時方が伊豆介となり、子孫が伊豆北条に住して苗字とした。時政、義時以来、鎌倉幕府最高の実力者となり、歴代執権となる。また後北条氏はもと伊勢だったが、北条氏をついで関東の主となるというねらいから、氏綱の代に北条姓を称した。


 この「部奈」に在住する林正(本家長男)の墓内に祖母・とめの、叔父・和一、長兄純幸が埋葬されて居ると正兄に言われ、1972年4月私は墓参する。ただし仁造叔父によれば、後年茨城の叔父が所有する墓に、祖母・とめの、和一、長男純幸、そして満州から持ち帰った孝子姉の遺骨、茨城の地で亡くなった吉美兄が叔父の墓に祭られ、1971年11月墓参する。


 後年健次兄が日本就労中、時折ブラジルに帰った際にこの墓土を持ち帰り、移住地内に建立された林家の墓内に納める。


蚕業試験場飯田支場(父が養蚕技術得)


 曾祖父林文吉は分家で、あまり農地を所有せず、祖父直太朗の代になって部落一、二位の農地を所有する者となった。水田面積は、6〜7反歩であった。そんな祖父が手掛けたのが、蚕種屋。其の頃は誰でも、技術があれば作ってもよく、其の蚕種屋を大正7(1918)年〜昭和10(1935)年まで続けたが、蚕種代金の集金が、全くだめであった。自分が買い求め広げた地所を、部分的手放しながらの事業に将来などあるはずがなく、父(富男)の弟(仁造・三歳年下)が製材所で働き、その労賃の一部で父は、飯田蚕業試験場で、養蚕指導員技術を修得(昭和3・1928年)し指導員として昭和4〜18年(14年間)勤める。


 天龍社管轄地域で養蚕飼育指導、当時学校教員の給与が40円前後の頃、養蚕指導員の給与は2〜3倍程であった。*検索すると当時の男子の先生初任給平均48円79銭、中学卒業・現在の高等学校卒業初任給平均35円56銭、巡査47円49銭とある。


 この養蚕指導員時代、同僚として松川町大島出身の新井さんがいた。現在伯長野県人会々会長(2006年)新井均氏の厳父が私の父親と同僚とかと伺う。私の母・千歳との見合い話も、母の生地を巡回指導していた同僚から紹介されたと聞かされていたが、今では真相を知ることはできない。


 天竜川の氾濫で水害見舞いに行った1961年、飯田線伊那大島駅で下車した折、中年の婦人が共に下りたので父が話掛けると、親戚がブラジルへ移住して居ると言われ、父が随分親しく話してたのを思い出す。そして、新井均氏がグァタパラを訪問された際、初対面の新井氏から「林先生の息子さんですか?」と問われた事があった。次回に続く。

 


訃報

 

 サンカーロス市在住の設楽フタミ(享年97歳)さん、1963年9月10日着伯、第17陣、茨城県西茨城郡友部町出身。只し山形県西村山郡西川町睦合、生地の設楽十五氏と婚姻入籍。


 10月29日午前5時半前後に永眠されました。


 葬儀は10月29日午後一時よりサンカーロス市営安置場内で執り行われ、午後五時過ぎに同墓地内に埋葬されました。


 ご逝去を哀心よりお悔やみ申し上げます。


 

俳句 グァタパラ俳句会

 

下萌ゆる生命力は偉大なり      林 みどり


蒔き物を覆い隠して草青む      田中 独行


風光る枝置きて行く試歩の道     富岡 絹子


下萌をひねもす漁る牛の群れ     脇山千寿子


春眠のここちの良さの眠息かな    脇山クララ


下萌や響く球児の大声援       菅原 治美


春眠や着信音をマーチに(行進曲)す 近藤佐代子


知らぬ間に本はとじられ春眠し    小林 敏子


鍬だこは我れの勲章風光る      高木美代子


〔次回兼題〕 薄暑、草笛、トマト、当季雑詠

 


【編集後記】


 17年前に3年間かけて上梓した「開拓」に、満州開拓が記されていると、小島りかさんが是非読みたいと言われ、更にCDにコーピーして、中にある写真の使用を問われ自由に使うことを話す。以前も記したように、満州引揚の際、写真はご法度でそれを所持してる事が発覚すれば、引揚げ船の乗船が遅れるとも。これをきっかけに再度読み直してみた。現在の体力ではとても纏めきれないと思った。また、その前に纏めた「我がグァタパラ耕地」にしても膨大な書籍を読破したものである。


 今でも戴いた数百冊の書籍を、毎日耽読しているが、小説的なので楽しく読める。

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