グァタパラ新聞2023年5月
- 2023年5月28日
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更新日:2023年11月3日
今月のグァタパラ新聞には、小山徳さんの訃報が記されています。小山さんは私にとっても思い出深い方で、2016年の訪伯時にとても良くしてくださいました。近藤四郎さんと一緒に空港まで迎えに来てくださった小山さんと一緒に牛丼を食べたことが思い出されます。その後も私が決してひとりでは出歩かないようにと、必ず宿泊先まで送り迎えをしてくださいました。若々しくて、屈託のない笑顔がよく似合う方でした。心よりご冥福をお祈りいたします。

ユーフカレビア・ダイヤモンド・トウダイグサ
文協第二回定例役員会 2023.4.1
協議事項
一、出手上 貢氏を準会員に承認される。
一、雫田 政彦氏を正会員に承認される。
一、渡辺 洋和・チャーゴ、洋市・ラファエル氏両兄弟を準会員に承認される。
一、青年部に4.000.00レアイスの助成金を承認される。
一、カラオケ愛好会へ2.000.00レアイスの助成金を承認される。
一、移住地内の農業者と話し合いが必要で、道路と農地境の確認をしなけれならない。道路沿いに水道管が埋設されてあり、そこを農機具での破損が繰返され、維持管理に支障をきたしておる。
一、太陽光パネルの設置は、充分に時間を掛け調査する。
一、次期役員会で61周年祭々典委員会を発足予定。
2023年度婦人会役員
昨年より、役員は、各区の当番に決った人で、長、副、会計を決めることになりました。(敬称略)
会長 荒川 照
副会長・日語 高木 みよ子
〃 ポ語 清水 ルイザ
会計 樋口 裕子
監事 井上 美紀子 高木 敏江
第一回自由市場開催
去る4月16日、イベント会場で午前10時から始まり、12店が参加され全店移住地内からの参加であった。今後毎月自由市場を開き、1、2回目までは様子見で場所の経費も無料とし、三回目から各出店に対して50.00レアイスの場所使用料を徴収する。
正午の時点での来場者は非日系60%、日系40%の200人前後の人々で部分的ではあるが、すでに1回目の人々が入れ替わる。販売品はランの鉢、多肉植物の鉢、赤飯、蒸し饅頭・数ヶ所、しめじ、生姜ずけの瓶詰、キムチ漬、ゴーヤの佃煮、味噌、甘納豆、マンジョカのシュッピス、カリントウ、クッキー、手編みジュウタン、手編みカバン、民芸品、鶏卵・数ヶ所、タケノコの瓶詰・数ヶ所、ピタイア、たい焼き、かき氷、タコ焼き、ホットロール、コッシニャ、寿司、焼きソバ、弁当、ミリョ・ベルデ、おはぎ、おかき、潰しニンニク、黒ニンニク、その他に数多くの食品が陳列されていた。また、キャッシュレス決済は一店だけであった。
焼きソバには購入希望者で列が出来ていたし、完売した店もあった。会場外の客の車両プレートを見ると、この頃ブラジルと成っているプレートが多く、それでもクラビーニョス、リベロン・プレット、バリニャ、地元のグァタパラ車両が最も多かった。初めての開催で、この人出は盛挙と言える。
訃報
去る4月8日、産業開発青年隊8期生(1962年5月あるぜんちな丸で渡伯)の小山徳(のぼる)(長野県出身)氏1939年生(享年83歳)が逝去されました。グァタパラ移住地の造成工事に参加され、その後移住地内でケージ造りや修理工等を手掛け、全拓連農場でも機械修理などに携わる。マイクロウェーブ送信の中継施設建設をNEC(ブラジル日本電気)がブラジル政府から受注で、これに携わる。
膵臓ガンを患いその病状が悪化、独り身の為知人にも連絡が取れず、直原咲子さんが氏に頼まれてた入用で訪ねたところ、瀕死状態の小山氏を見付けた。聖市サンルイス・イタイン病院に入院。退院後、直原夏子さんの夫が医師でありそこで加療を受け、一時回復した様子であったものが病症が急変し集中治療室に入ったが、8日に死亡された。直原咲子さんの夫が葬儀関係の仕事をしており、その方の手配でソロカバナ市にある火葬場で火葬に付す。
故人のご逝去を悼み、謹んでお知らせ致しご冥福をお祈ります。
人物紹介
井手上(いでがみ)貢(みつぎ)・みどり夫妻。
氏は鹿児島県出身で1958年生れの5人兄弟の長男。夫人のみどり(旧姓・西村)さんは、1960年アンドラジーナ生れ(父・広島県、母・静岡県出身)、みどりさんは1990~2011年まで静岡県で就労され、ここで井手上氏と職場結婚。両親はアンドラジーナ(ミランドポリス、グァラサイを通過しパラナ川方面のサンパウロ州境付近)から、パラナ州ウマラマでは原生林を拓き、陸稲、綿等を栽培する。
1960年代のウマラマでは産業開発青年をよく見掛け、酒好きな金子成男(高知県出身7期生、1961年5月あるぜんちな丸で渡伯)や後年イラセマ農場主の渡辺益男(千葉県出身9期生、1963年8月さんとす丸で渡伯)氏等を両親、姉等から話を聞いておる。みどり夫人は日本語の会話は充分話すが、読み書きはひらがなまでである。
井手上氏は大阪で育ち就職。松下電器の下請会社でプラスチック部品の職場で働き、静岡県でもトヨタ、パナソニック系の下請会社やはりプラスチック系の職場で働き、40数年この仕事に従事した。10数年前に希望退職し、みどり夫人の親姉弟の在住するリベロン市へ夫妻で移転帰国。3人の子供たちが日本に在住して居る。
ブラジルへ来てから10数年経過するが、井手上氏のポ語は挨拶程度。クモンで1年程ポ語を学んだが、殆ど習得出来なかった。リベロン市の住んでいた所は夫人の親が亡くなり、遺産相続で財産整理となり、日本語の通じるグァタパラ移住地をサンチクレール農業技師から紹介され、移転の切っ掛けとなった。在住約2ヶ月で日は浅いが、大変ブラジル、移住地が気に入り、電動アシスト三輪自転車で水路へ出掛け、趣味の魚釣り三昧の毎日である。よく日焼けして居り、釣りの出立ちがぞうり履きなので毒蛇を注意する。アマガエルとヤモリの多いのには驚いている。
準会員と成り、今後宜しくお願い致します。
埋草・続・同窓の回想録
悲しい出来事
馬の項より同窓の回想録が主なので、こちらへ記載します。
乗馬に慣れると、今度は馬背で鳥や獣を射留める、猟銃の趣味と実益を兼ねて楽しみたかったが、猟銃の散弾を撃つと発射音と同時に肩にズシンと圧力がかかりこの前後、馬が爆発音に驚き疾走するので大変危険であったので、養蚕飼育について集まっていた大人達に訊いたら、そこに居た有賀康久氏が満州で馬に乗って狩を始めたが、やはり馬が驚いて思うようにならなかったので、それを馬の横手で猟銃を撃ち爆発音に馴らすと、馬背で撃ってもあまり驚かなくなったと言われたので、私(編集者)も試したが我が馬は幾度ためしても、最後まで馴れてくれなかった。
ふっと、私達世代で悲劇の代表と思えたのが、有賀氏の子息栄ちゃんを回想します。小学校はポ語習得のため、早くからリベロン市の宮坂写真店へ勤めたと聞いたが?多くの交流は私が現地入植で独立し営農しはじめた頃からであり、父親の康久氏に我が住宅を建築して頂いてからの70年代でした。この頃、移住地は養蚕飼育が盛んであり、栄ちゃんはミナス製糸から原料買い付けの指導を受け、繭買い付けと蚕種催青を受け持っていた。
人柄は健全でよく、ただ少し軽率なところが、新しい事ある頃に現れプチドジを枚挙にいとまが無くしでかしたので、「またやったな!」といった感じ。気心が通じ合っていたため、とっくり拝見させて親密さを醸成させて頂く。しかし、へまをしでかすが弁解などは一切しなかったのも彼だけでした。有賀氏にも同種要素があるのか、それをよく熟知して居り時々口に出して言っていたのが、「私は小さな自動車は駄目で、エンジンが前に搭載されてないと安心して運転出来ない」と、ことある都度に言っていました。
縁あって遠方地の婚約者を、栄ちゃんの婚礼の1週間前に有賀親子で迎えに出掛け、グァタパラ帰路中ジャウ市手前で有賀親子、婚約者と親戚の人でワーゲン系フスカで大惨事の自動車事故に遭遇され4人とも即死される。
今年の1月、手術後の治療で薬を求めて、ノーヴェ・デ・ジュリョの薬局へ、レジの人から「グァタパラの人かと訪ねられ、有賀栄を知っているか聞かれた。」クラヴィーニョス市の人で、栄ちゃんの一部始終を知って居り、婚姻届の立会人を頼めれていたと言われた。先日、薬が必要となりその薬局を訪ねたら、1ヶ月前に薬局を閉めたようであった。
あまりにも痛ましさに、40数年前の出来事をただ々ご冥福を祈ります。
通学バスと学生会
大水でモジグァス川架橋の崩壊(1974.1.14)で定期バスの運行が、リベロン始発の折り返し便では朝の授業に間に合わず、これに憂慮した学生会は、当時APPを担当されていました設楽昭五氏と対応し、アララクワラのエンプレーザバス会社と交渉の末、朝と夜のバス運行を再開させました。バス会社側の条件として運転手の宿泊場所と朝のコーヒー、パンの提供、そして回数パスでなく1ヶ月制のパスとなり、その責任を学生会が取り纏めることになった。
学生でバス利用者中、以前は余った回数パスは再利用できたのに、今度の定期パスはそれが出来なくなった。この理由で、学生利用人数で纏め買いをしていた1ヶ月制のパス代金の未納が出来てしまう。当時学生会の責任者であった私(編集者)は、会計を担当していた丸山たまえ女に相談すると、それを聞いていた父親の丸山茂氏から「責任上二人で立て替えるか?」と質問され、「それが出来ないなら支払いを拒否する学生に再請求するべきで、それも一度ぐらい拒否されたからと言って困ることはない」と叱責され、「たまえ、お前も責任上良雄について請求に行け」と二人とも強く背を押されました。未だに自動車の無い私は、デキスターのトラクターに二人で乗り合わせ移住地内を回りましたが、彼女に「いやな気がしない!」と聞くと「良雄君が話、請求するのだから」と屈託無く言って、2度もこの請求回りを手伝って頂いた。この時、本名の茂子から俗名のたまえの由来を尋ねると、幼い時にある人から短命と言われ親がたまえと改名したと言っていました。ブラジルへ来てから教室では本名を呼ばれるようになったが、最初は自分の名前でありながら他の人の名前に感じたが、この頃ではその違和感も無くなったようですが、私達は成人するまで本名は知らず「たまえちゃん」で呼び続けていましたし、それからもやはりたまえちゃんでした。そういえば彼女、グァタパラ小学校卒業生でなく西川卓慶・農業技師(東山農場農業研修生)夫人ネウザ歯科院でアシスタントを務めながら学校へ通ったことを思い出す。インダイアツーバの福本氏へ嫁ぎ、その後日本へ出掛けたと聞いていました。最近両親を日本へ迎えたようですが、日本へ帰って間もなく丸山茂氏は逝去されました。
資料協力者
多感な青春期だった農学校寄宿舎生活時代の勉学の悩み、友人達の近況などで便りを交わしたペン・バルは相手が迷惑しそうなのでその名は付せますが、その便りを手に受け取った瞬間、そこには新たな内容の先触れが秘められ小踊りするような早る思いでした。
耳目(見聞・特に知見)を重点モードにしている私(編集者)ですが、行動範囲外のブラジル日本移民資料収集から、東京植民地出身者馬場謙介夫人實子さんへの紹介と同行、實子夫人からの紹介された宮村愛味さんへの対応とインタビューを引き受け、さらにブラジル日本移民100周年史の資料、戦後の養蚕移民名簿の参照などと、何時も私の行動圏外をカバー協力して頂いてる操子さん。
グァタパラ小学校時代にてらいの言葉を投げ掛けられ悲憤の苦い思いがあるので、今回の同窓生に関しては語尾を少し上げ眉根をよせ、物憂いに断られた。しかし、それでも面倒見がいい人で1~2名同窓の近況を知らせて頂く。長い間日本語普及センターで勤め、日本語学校に関しては何時も協力的でした。現在サンパウロ文協職員で、コロニア書籍、出版物に関して司書的業務を担当される。図書室に勤めるため、困難な資料を探す時に、やはり彼女に頼んでしまうし、しかも返信が迅速確実で何時も感謝です。
もう一人随分歳が離れていますが、会うたびに一声ヨイショしてくれる人、同船ですが1ヶ月未満の赤ん坊で渡航しており、二世としても登録されています。私の年がいもなく遅くまで勉学に励む姿を根心において学んだと言われ、何時もリップサービスされててんこ盛りに盛り上がって出来過ぎていると思うが、現在もボツカツ市ウネスピ(サンパウロ州立大)で化学の教鞭を執っている佐伯珠理ちゃん。私は昔から世間話が苦手で会話がすぐ途絶えてしまうのですが、何によらず人の話を聞くのが好きです。だから相手の話に興味を持って耳を傾けています。それでも11歳も年齢の隔たりがあるにもかかわらず力を頂いて居ります。高学歴ですがなぜか独身と聞きます。しかし、彼女もグァタパラ小学校卒業生でない。そして女性が外で仕事に頑張るのはおおいにいいことです。
整髪
出張サービスで、頭髪カットをして頂いているアンジェラ。SOHO美容院で技術習得し、長い間腕を振るっていましたが、近年リベロンからアララクワラ市へ移転。週末は両親元のグァタパラへ戻っている。
事故後、髪が必要以上に伸びすぎてとりとめなく耳にかかってくると、その頭髪カットは手に職を付け身を立ててるアンジェラの出張サービスで頭を涼しくさせて頂く。移住地近郊に職場を求め両親、祖母をサポートされる。今、小学校時代アララクワラ市に通学していた時の同級生の妹とアパートを一緒し、そして美容院で働く。
兄が中学をアララクワラに通学するようになると、アララクワラ市は交通費であるバス代の全面補助の恩恵があり、アンジェラも小学3年生からあんちゃん(アンジェラが使う呼称を尊重し、そのまま兄あんちゃん・寿吉・Lucas)と一緒にアララクワラへ通学するが、9歳の早朝5時起きは大変であり、バス停近くまで自転車で通い帰宅はいつも午後2時過ぎで、小学3年生当時の自分にはことのほかきつかった。
年に数回散髪に来て頂いており、アンジェラと同世代共々の近況を聞かせて頂いて居ります。私達還暦の寅年会で2回り若い寅年、彼女も同窓生であるが卒業生でなかった。
私と野球少年たち
同窓ですが、師弟の立場で1976~1980年代移住地生れの少年たちの練習指導することに恵まれる。1976年生れの子供たちは既に中途以上の体力に成長しており、私の肩より強肩になっていた。が、未だ連係プレーに手を加えるものが残っていたので、これを指導し上の指導者に渡し、私は1977~1979年生
れの少年たちを指導しました。私は元々殆どがサウスポーピチャーで時々外野を守備する程度でした。特にピチャーとして素質のありそうな少年にその指導を加えました。それでもすでに幼年部で野球というものを指導されて居りましたので、比較的その少年にあった指導を強く押し出すことが出来ました。
スタンスが広く、投球がうわずりたえず高目が多かったHugo。地方大会に参加するが、夜中に宿泊先の室内をさまよい、ユニホームを着服するがストッキンクが履けなかったJuca。ショートノックを受けるがチームメイトの捕球するころ、グランド奥で寝転ぶHidekiには立腹のあまりノックバットをグランドに叩きつけ叱咤すると、部員から注意するからと反対に指導され、模倣(もほう)かたなき協調行動が見てとれた。未だ遠投の力が不足し2度ほど腕を振ってから投球したEmilio。試合で緊張のあまり逆走りをしてしまったMarcio、初出場で全然バットが振れなかったSeiji。この少年たちに試合中に注意するとますます緊張し、コーチボックスからのサインが全然見えなくなっていました。この少年たちも今では多数が家庭を持ち、1~2子の父親になっています。
グァタパラ市役所で開催された、種々スポーツ姿の夜のパレードに空手部員も参加し、その後部員たちで慰労のピッサを皆で食べていると、すでに髭の濃くなった青年が仲間に入って来たので「知らない君だが誰かな?」と問い質すと「俺は監督時代のセニオールをよく知っている」と言われ、目に思いっきり力を込めて刮目(かつもく)すると、そこには久しく日本で就労した成人姿のJucaとの再会でした。それも今では十数年前の想い出になってしまった。
時計
同窓とは直接的には繋がりはありませんが、学生時代時間には何時も気にしました。その時を刻む色々な時計を紹介します。
日本では長い間、日時計、水時計、砂時計、線香時計その他火縄時計や匂い時計という変わった抹香を用いてその匂いの変化で時を計るというものもあり、リンネという植物学者は花時計を発表している。
これはそれぞれの花の開く時刻によって時計代りになると言う。実際に龍舌蘭の或るものは必ず午後3時55分に咲き出す。蓮は午前4時、朝顔は5時、リンドウは6時、サフランは10時、松葉牡丹はオンゼ・オーラと言うから11時、すみれ12時、撫子午後1時、おにあざみ3時、露草4時、おしろい花はホァークロックスと言うから4時?、月見草は5時、夕顔は6時といわれる。タンポポは牧場の時計と言われ、それが咲いたら羊を野原に出し、閉じたら追い込むと言う。ギリシャ神話に子供ずきな豊作の神様が子供に追われて花の中に隠れたが丁度花が閉じて了い翌日開いたら、その時黄色い着物が花芯について居たと言うのがあり、日本でもひつじ草と言うから、ひつじの刻すなわち午後2時。
線香時計?花柳界芸者の事を1本、半人前を半玉と言う。1本の線香の燃え尽きる時間を標準としたのである。
つくばね 第四号 1964.6
俳句 グァタパラ俳句会
雨季くれば伸び放題の庭の草 高木 みよ子
自然とは非情であると雨季に泣く 菅原 治美
我が故郷栗の銘菓で町おこし 林 みどり
柿の実の重たく垂れて雨季長し 田中 独行
老移民なべてしぶとく吊し柿 富岡 絹子
遠吠えを聞いてスヤスヤ良夜かな 脇山 クララ
村ひとつ飲み込むごとし雨季の雲 近藤 佐代子
草とカビ我物顔の長き雨季 脇山 千寿子
〔次回兼題〕秋の雲、小鳥、クァレズマ、 当季雑詠。
【編集後記】
私のHP責任者から、文協のHPアドレスへメールを入れたTBSテレビの早坂氏が打診のメールを送信したが返信がなかったと。
今、日本では鶏インフルエンザの被害で鶏卵が不足し、今度ブラジル産の鶏卵を輸入する為、ブラジルでは多くの日系養鶏家が居り、この養鶏家中に今度の日本輸入に携わる方が居れば?、これらの過程の特集企画を4月26日に放映予定していたもの。私がそれを知ったのが25日の夜、間に合わないと思うが、取り合えず早坂氏にメールを入れたが返信がなかった。
先の自由市場で、久し振りにシロップ掛けの甘いかき氷を付いてきた割り箸で、三度程挟み口に運び堪能した。今まで数度かき氷を買い求めたが、割り箸付きは初めての経験である。
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