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グァタパラ新聞2023年2月

最近は三寒四温の言葉通り、冷え込み激しく北風がビュービュー吹き荒れたかと思うと、次の日には汗ばむような暖かさになったり、体調管理が難しい日が続いています。しかし、日照時間は確実に延びているので、ちらほら梅の花が咲きはじめ、春がもうすぐそこまでやってきていることを実感できます。

さて、今月も林良雄さんからグァタパラ新聞2月号が届きましたので、ブログを更新いたします。

食文化の継承で石臼での餅つき


文協の主な経過報告


・12月10日ー日語の修了式。

・12月10、11日ー野球部、イビウナ大会に参加する。

・12月13日ー斉藤会計、インクラ(ジャボチカバール)に出向く。

・ 同 ー日語(誠グループ)リベロンの招待で出演。

・12月14日ー茂木会長とヒカルド弁護士で裁判所へ出向く。2月23日へ日延べとなる(釣場の件)。

・12月17日ー野球部の忘年会、三役も参加される。

・12月19日ー舞台の幕の修理。また、アレモン氏にプールの修理をさせる。

・12月21日ーリカルド弁護士を交えて財務委員会。

・12月23日ー第46回紅白歌合戦(カラオケと野球部主催)。

・12月27日ーリベロン市の第一登記所へ1号深井戸の登記に行く。一度入れるが不備の為、それを修正後

 再度入れる。 第2、4、5号深井戸は、地主が遺産相続中であり、第2号は夫が日本人なので、これにも委

 任状が必要である。

・12月31日ー野球部年越しを祝う。

・1月1日ー文協の新年会並びに成人式。午後2時より新年野球大会。

・1月6日ーヒカルド弁護士を交えて財務委員会。今回は警察官と2名の弁護士も参加。

・1月13日ーヒカルド弁護士とデドネ氏を交えて財務委員会。デドネ氏の貸地代金の調整。6月までは

 4,000,00レアイス、7月から5,000,00レアイスに貸地契約書を改正させる。

・12月30日ーデドネ氏より貸地料6,400,00レアイス入金される。

・12月20日ーカマール砂取り業者、958,00レアイス入金される。

・12月30日ーモジアナ・ミネイロ砂取り業者4,708,30レアイス入金される。

*歳末助け合い運動に協力して頂いた品物は、地元のCRAS福祉課に届ける。12月21日付けで市の福祉

 課より礼状が届く。

*文協の掛け時計を3ヶ所取り替える。

第11回定例役員会 2023.1.14


【協議事項】


1. アパレシード・アゼヴェド氏の貸地の件は最後の詰めをしている。

2. RSV26号地の未整理分を手掛け出す。他の文協資産地も含む。

   他・次年度の各区総務委員、選挙管理委員名を近日中に提出する様に求める。

【訂正】


・1月号で掲載した日語生徒の作品コンクール入賞者中のイラスト銅賞入賞者名の山田ゆみ・メリッサを

 吉岡ゆり・メリッサと訂正しお詫び致します。


幹線道路の補修工事

 降雨の多い日々の中、昨年末から幹線道路の補修工事が行われている。1月27日現在、モンブカ湖の水落ち付近まで補修される。また、以前路肩に設置されていた側溝の土砂削除も行われており、時間によっては片側通行なども行っておる。部分的に側溝設置も行っているが、毎日と言う程降雨する為洗われる所も出てる。一番雨の多い時季に道路工事かと倦む。そして、市街地内も所々舗装工事が行われている(墓地前、山口通り、飼料配合所等)。


低地の冠水

 入植61年中、低地がこの様に冠水したのは初めての事と思う。旧8区の高台から遠方すると、多くの耕作地まで冠水したその場の光景が目に入って来た。年頭の1月5日に送られて来た、ワッツアップ動画の水量には驚愕し、EPTVの映像を見た知人達が心配して、問い合わせが幾つかあった。リベロン市内の駐車場でも心配の声を掛けられるが、中には不謹慎の族も居り、水が引いた後に多量の魚が獲れると言うものも居た。

低地で生活をたててる営農者には、本当にお気の毒な結果になってしまったことに慰め致します。

 

びっくり仰天

              脇山 すみ代

 11月末日の昼過ぎ、ポツポツと雨が降りはじめた。そのうちにじゃあじゃあといきおいよく降りはじめ、カンコンカンコンなんだこの音は、そのうちガンガンガンガン、みれば雹がすごいいきおいで降っている。スレートの屋根に穴があき、外のしばふは一面雹だらけ。野菜畑にあててあるテーラにバケツでかきあつめたような雹がつもっていた。ピンポン玉のふたまわり、卵のエストラの大きさくらい、直径6~7センチもあった。

 被害は、A区周辺と低地だけの様であった。鈴木清彦君の廻りのカンナ畑のカンナは先がチリチリと頭にパーマをかけた様な状態に。移住地に住んで60年近くになるが、この様な出来事ははじめてである。

 

 毎年何らかの被害はあるが一面大霜、2023年年明けそうそう大雨洪水、低地の作物レンコン、米、ミーリョ等は、すべて水をかぶる被害に。


 雨の降り方も、夕方から朝までジャアジャアといきおいよく降る日が多い。

 雨の音で夜中、明け方目がさめてこわくて眠れない日もあった。

 昔、サンカーロス方面へ行く橋が流される被害もあったが、これほど毎日降り続けただろうか。

 ヘリコプターが航空写真を写していたが、一面水でどのあたりか見当がつかない。

 ビーラ・グァタパラ.では、つりぼりから5Kg以上もある魚が家に入って来てうれしいやら大さわぎになったとか。TVリベロンでも、たびたびグァタパラの洪水がニュースになった。


ウクライナのニュースを見て

             脇山 すみ代

 毎週日曜日の真夜中、のどじまんとBS日本の歌を楽しみにしています。眠いのに目をこすりこすり、無理して起き上がる時もある。


 その週は、のどじまんも日本の歌もなく、世界的に有名なバレー団のバレーリーナ達の練習風景が紹介されていた。このバレー団はウクライナのバレー団との事。


 公演2日前にロシアの軍事侵攻が始まり、ウクライナでの公演は中止となり、バレーリーナ達は、各国の知り合いの所へ避難することになった。公演を開こうと集合し、日本の各地で20ヶ所を公演した。バレーリーナ達が、感動と喜びの言葉を語っていた。


 主役のダンサーがウクライナのバレー団は、白鳥の湖を踊ることが禁止されたと悲しげに語った。ロシア民謡だからという。バレーリーナ達にとって白鳥の湖は代表的なとてもたいせつな曲。


 主役の男ダンサーは、お父さんが兵隊に招集され、現地へ行っている。ケイタイで「お父さん無事か」と呼び掛けると、お父さんから「無事だ、お前は自分の事をしっかりやれ、お父さんは明日死ぬかも知れない、さようなら」と別れをつげた。ダンサーは涙も言葉も出ない。記者は、「この後どうするか聞いた」。80名のダンサー達は、ウクライナへ戻り公演すると答えた。ミサイルが飛んで来る。「だいじょうぶか」と聞くと、警報のサイレンが鳴る舞台の下は、防空壕になっているからと緊張した顔で答えていた。


 ぐうぜん見たニュース、胸にささって言葉も涙も出ない。

 何のための戦争なのか、早く平和な日々が戻る事を祈るばかり。


ふれあいセミナーに参加して

              佐伯 真依

 私は今年の1月10日から13日までサンパウロで行われた日本語ふれあいセミナーに参加しました。


 私は母と一緒に夜中の一時のバスに乗って、朝六時にサンパウロに着きました。バス・ターミナルから地下鉄でふれあいセミナーが行われる霊友会に向いました。地下鉄に乗るのは初めてだったのでわくわくしました。霊友会に着いた時はモニターのみなさんが大きな声で挨拶をして迎えてくれたのでおどろきました。


 最初に開会式があって、そのあとじゃんけん列車と名札探しがありました。じゃんけん列車は負けましたが、楽しかったです。名札探しでは自分の名札を探すのに苦戦しました。いろんな人にあたってみたあと、なんとか見つけることが出来ました。そのあとはグループで集まって、グループ名とリーダーと副リーダーを決めました。そしてオリジナル・ポーズもみんなで考えました。最初にみんなで集まった時はみんな静かすぎて、どうしたらいいのか不安でいっぱいでした。私達は最初にグループ名を決めました。グループ名はみんなが投票して決めました。一番票が集まったのは「にら」でした。私もグループ名を「にら」に投票しました。理由は面白い名前で、グループ2だからです。それからリーダーと副リーダーを決めました。リーダーはピラル・ド・スールのさゆみさんで、副リーダーは私になりました。ポーズは私が考えたポーズでみんなで何回か練習したあと写真を撮ってもらいました。次のプログラムは全員の自己紹介でした。私はきんちょうしていましたが、なんとか上手く言えたので良かったです。


 その後昼食をいただきました。みんな一緒に大きな声で「いただきます。」を言った時はみんなが一つになったような気がしました。昼食中には私はなるべく、みんなと話をするようにしました。とくにボリビアのサン・ファン移住地から来ていた恋実(れみ)ちゃんは日本語が上手だったので、ポルトガル語が苦手な私にとってはとても話しやすかったです。午後のワークショップではせいじさんの体験談を聞いて、そのあと一緒にぎょうざを作りました。せいじさんの体験談は日本語学校の生徒のみんなに聞いてほしかったくらい良かったです。せいじさんは小さい頃から日本語学校に通っていました。でも学校では友達と遊んでばかりで、そのうち勉強がいやになって学校をやめてしまいました。それから大人になって日本へ出稼ぎに行きました。日本では言葉が分からなくて大変苦労されたそうです。それから再び日本語の勉強を始めて日本語能力試験の二級に合格することが出来ました。せいじさんは料理人で今はユーチーブで「ごはんゴー」と言うチャンネルをやっています。そこではいろんな料理の作り方を紹介していて大人気です。せいじさんは「日本語を勉強する目的を見つけたら、それが勉強するモチベーションになる。」と言うことを伝えてくれました。グループのみんなで作ったぎょうざは大きすぎたり小さすぎたり、形がおかしすぎてみんなで笑っちゃいました。それからフォーク・ダンスをしました。グァタパラで踊っているフォーク・ダンスのふりつけとは全く違っていて、覚えるのに苦戦しました。そのあとはシャワーを浴びました。1人5分で入らないといけなかったので「絶対無理だ」と思っていましたが、いざ入ってみると4分以内で入ることが出来たので、自分でもびっくりしました。


 夕食の時は食べる前にみんなでボリビアから来た4人の友達にサプライズをしました。それは入って来た瞬間にみんなで「ようこそ」とさけぶことでした。ボリビアの仲間4人はびっくりして喜んでいました。夕食のあと階段の掃除をしてグループ寸劇のストーリーをみんなで考えました。タイトルは、「カブス姫の物語」にしました。内容はかぐや姫の反対で、かぐや姫が生れる竹のとなりに生えていたもう一本の輝く竹をあるおじいさんが切って生れて来たのがカブス姫。彼女はお見合いをしますが、顔がブスすぎて、沢山のお見合い相手にふられて、そのうちお見合いがいやになり、月に帰るお話です。台本は私と恋実ちゃんが担当して、いしょうや小物はさゆみさんが担当することになりました。


 次の日の朝、馬場体操をしました。とても特徴的な体操でした。朝食をすませてから霊友会を出発してブラジル日本移民史料館へ行きました。資料館には移住者が使っていた物が沢山あって、中には見たことがある物もありました。移民の歴史について詳しく知ることが出来てとても勉強になりました。それからリベルダーデに行っていろんな店を見て回りました。お昼はグループのみんなで日本食の店に行きました。私はとんこつラーメンを注文しました。それから二手に分かれてプレゼント交換のものを買いに行きました。私はたまごっちを買いました。霊友会に戻ったあと、シャワーを浴びてタレント・ショーがありました。私はトップ・バッターで、グァタパラの紅白歌合戦で歌った「世界に一つだけの花」を歌いました。本番には家で練習して来た振り付けもしました。振り付けは少しミスをしてしまいましたが、みんな大きな声でさけんでくれたり、応援してくれたので嬉しかったです。その他にルービック・キューブやダンス、まんざいなど色々なジャンルがあって楽しかったです。そのあとは劇の台本の続きを書いて完成させました。みんなの役も決めて、私とさゆみさんはナレーションをすることになりました。


 3日目には若い本田先生が日本の神様の話を一人劇で教えてくれました。とても分りやすくて面白かったです。それからグループで対抗のクイズ・バトルがありました。質問が全部ポルトガル語だったので私とボリビアの恋実ちゃんは一問も答えることが出来ませんでした。でも他のメンバーのみなさんが頑張ったので優勝することが出来ました。そのあとみんなで手巻きを作ってそれを昼食に食べました。とてもおいしかったです。それから劇の練習をして本番を迎えました。ミスもありましたが観客がみんな笑ってくれていたのでほっとしました。そのあと表彰式があって、私達のカブス姫の物語はコメディ賞に選ばれました。それは誰も思ってもいなかったのでみんなで喜び合いました。夜はキャンドル・サービスがありました。キャンドル・サービスではふれあいの想いを一人ひとり語りました。私はうまく言えたけど、終わったあともっと言えば良かったと思いました。中には「みんな大好きだ。」とさけんだ人や泣きながら一生懸命話していた人もいました。みんなの想いを聞いているうちに私も感動しました。そのあと私達のグループはプレゼント交換をしました。私はユリ君から全種類の「コアラのマーチ」をもらってびっくりしました。私のプレゼントもモニカちゃんが気に入ってくれたみたいで良かったです。


 次の日朝食ではどのグループよりも大きな声で「いただきます。」を言いました。そのあとアンケートを答えてレポートを書きました。アンケートに時間をかけすぎて、レポートを書く時間があまりなかったので、おくれてレポートを提出しました。グループでまとめた体験を私が代表で発表することになりました。少しきんちょうしましたが上手く発表出来たので良かったです。最後に閉会式が行われました。来年はもう会えないメンバーもいてさびしかったです。でもまたきっと何かの機会でまた会えることを信じています。


 このふれあいセミナーのことを他の生徒にも知ってもらって、参加してほしいです。そして来年のふれあいセミナーにも参加したいです。新しい友達が出来て、いろんなことも体験出来ました。私にとっては、思い出に残る三泊四日でした。


28年を迎えた阪神淡路大震災

 28年前の1995年1月17日の兵庫県南部地震による災害。死者6,300人負傷者4万3千人全半壊20万9千戸。


 我がグァタパラ耕地のH.Pの責任者の若林あかね氏は阪神淡路大震災、当日は芦屋市の春日町というところに住んでいて罹災いたしました。幸いマンションは被害がなかったのですが、ライフラインが全滅でした。

ちょうど、前年に会社を設立したばかりだったので、大阪のホテルに泊まり込んで仕事をしたことを思い出します。


 ホテル住まいは1ヶ月ほどでしたが、電車が通り、家から通えるようになってからもガスの普及が遅かったので、(なぜか山手から普及されました)。大阪の銭湯でお風呂に入って帰宅し、よく風邪をひきました。水をもらいに家中の入れ物を持って行列に並んだことや、震災直後にもらったおにぎりの味は忘れられない思い出となっています。


 若林あかね氏に当時の罹災を伺い、そのメール記事を転載。現在、グァタパラ新聞をこのホーム・ページに毎月掲載して頂いてます。


埋草(うめくさ)

 先般、車の部品が次々と壊れ続けて修理をしている。アブソバー、ブレーキを修理して帰宅すると、今度はエンジンが掛からない。グァタパラの電気系の修理屋へ車を持ってゆくと、今熱いコーヒーがあるのでと勧められ奥へ進むと、修理工の助手からイントネーションの正しい日本語で「お早うございます。」と挨拶声を掛けられた。容姿は浅黒い肌のモレノ。話を伺うと四世と言う。曽祖父そうそふは森こういちと言われ、父親がメスチッソ(混血)で日本姓は無くなっていた。就学前の年齢で両親の出稼ぎに伴って訪日している。そして滋賀県高島市立新旭北小学校の卒業証書を受け取っている。

縦書きのそれを記すと:

               卒業証書

             ウィリー・アントニオ・デ・ソウザ

             平成7年7月1日生(1995,7,1)

             右は小学校の全課程を修了したことを証する。

             平成20年3月31日(2008,3,31)

             滋賀県高島市立新旭北小学校長 八田賢次㊞

             第4045号


また、翻訳された出生証明書では、

ブラジル連邦共和国サンパウロ州リベイロン プレト司法区役場。

戸籍史:ニルザ・コバヤシ

氏名:ウィリー・アントニオ・デ・ソウザ    

性別:男性

生年月日:1995年7月1日14時30分同右記州リベイロン プレト市サンパウロ病院にて出生。

翻訳書:寺本 美紀

父親名、母親名、母親方の祖父母名、父親方の祖父母名、出生届名等の記載もあったが略す。


 訪日当初、全然会話の出来ないそうした中、クラスでの差別やいじめを伺うと、日系の容姿が現れていない為、多くの級友生が何かと語り掛けたり、手伝ってくれて入学6ヶ月を過ぎる頃には打ち解けれたと言う。大変小学校時代を懐かしんでいた。ひらがな、カタカナ、小学で習う簡単な漢字は今でも読めると言う。帰国後ホークリフトの修理工をしていたが、近日このグァタパラで仕事に就いた。幾人かの日系人がここを訪れたので、この卒業証書と出生証明を見せて、読解を求めたが、日本語の会話も出来ない人、会話は出来ても読むことが出来なかった、今度やっと読解出来る人に出会った。曽祖父のルーツに興味があるので調べれるかと問われ、父親が三世としてビザを取得したのなら、戸籍謄本に類似するものがあるはず、渡伯船などの船名などでも手掛かりがつかめるも知れないと説明したので、調べると言っていた。


【編集後記】


 国際郵便がやっと正常化し、今年の日本からの最初の一報は年賀状。十数年前、寺内ユキエさんから紹介されたゴン岸山カメラマンからの賀状。コロナ禍前のニッケイ新聞に再訪伯記事が掲載されていた。斬新なカメラアングルが際立ち、それでいて我々素人でも理解出来る被写体。その写真を毎年年賀状一杯に載せて送って戴く。


 今年の雨の降り方は、私達一陣が入植した年とよく似ている。日が差していたかと思うとその内に驟雨・スコールが降り出し、殆ど毎日の様に俄雨が有った。そして今年も我道路もこれまた、以前に増して水溜りの出没。モトクロースごとく水溜りを左右に迂回している。昨年始めに最初に直すと言われた市政責任者の、明日は直すのリップサービスに己ながら立腹している。

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