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グァタパラ新聞2022年9月

9月10日は中秋の名月。関西でも雲の合間に大きなまん丸のお月さんを見ることが出来ました。異常な暑さは9月に入ってからも続いており、今日もも33度の暑さです。

そんな中、林良雄さんからグァタパラ新聞9月号が送られてきました。今月の写真はパウ・ブラジル。ブラジルの木という意味の植物の写真だそうです。近似種の日本名は蘇芳(すおう)で、ネットで調べたらどちらも赤色の染料として使用されるみたいです。黄色小さな花を咲かし、大変硬い木質で強風にはよく枝を折られるとのことです。

パウ・ブラジル



文協の主な経過報告


・6月29日ーモンブカ湖畔公園内記念プラッカ周辺の清掃をロッサデイラ、背負いの草刈機で行う。

 40年記念植樹地。

・7月1日ー財務とヒカルド弁護士との会合。

・7月4日ージョゼ氏、エウビオ氏、モジアナ砂取り業者、カマール砂取り業者、鈴木清彦氏等と賃地.契約の

 更新をする。

・7月9日ーブラジル移民114周年、グァタパラ移住地入植60周年並びに収穫祭記念式典・演芸会。

・7月10日ー近隣都市を招待し、60周年記念演芸会。

・7月16日ーサンパウロ・フェスチバル・ド・ジャパンへ斉藤会計等十四名が車両バンで参加。

 10万人の人出の予想を18万人と人出が多かった。

・7月19日ー寺内勝彦氏宅、盗難にあう。

・7月23日ーグァタパラ60周年記念・第57回運動会開催する。

・7月29日ー財務とヒカルド弁護士との会合。


第6回定例役員会・祭典委員会

         2022年8月6日

【協議事項】


・60周年祭・運動会の総経費は10万レアイスを少し上回り、詳細は次回役員会で報告。祭の予算からして

 15万レアイス前後が残るので、運動場のアランブラード設置工事を開始予定。


・市役所がグレーダーを数日借用としたが、1ヶ月以上も使用、1度返して頂き、幾つかの条件を付けた上で

 貸契約書を取り交わす予定。


・ウニメジ加入希望者があり、それに対して規定が殆どない為、今後規定を作る予定。


・憩いの家売却時に、中島先生への感謝を含め(胸像等)3万レアイスを予算化。先生の扁平胸像と台を含め

 1万2千レアイス。今度、中島先生の墓の改造に1万6千2百レアイスを承認する。


・今後祭りなどのカード決済機の使用時には、別なWIFIを使用とする。


・祭典委員会は今日付けで解散する。


訂正


8月号での水道委員会経過報告中、清水勇氏の水道メーターを約50センチ横に移動と訂正します。



慰労会


 8月6日、第6回役員会後、入植祭、運動会の慰労会を開催する。参加者も多勢でよさこい、誠太鼓のアトラクションもあり、披露後に60周年演芸出演を労いに子供たちに記念品の写真たてを贈った。焼きソバ、カレーライスの提供後、ビンゴでその後を賑わう。



電気会社のユニホームの盗難


 去る8月9日、スマレ地方の電気会社のユニホームが盗難され、これによる二次被害防止の知らせがあった。

 電気会社のユニホームを着ているが、会社員はけして住居には入らないので、入居を求めた場合には充分注意するようにして下さい。



お知らせ


 先の8月6日時の役員会で決めた、中島先生に関連する30.000.00レアイスの内訳を知らせます。2019年に9.200.00レアイス支払う。2021年に12.276.00レアイス支払う。計21.476.00レアイス、2022年8月17日に30.000.00ー21.476.00=残り8.524.00レアイスを信徒会長に渡される。



文協中間監査


 去る8月24日に、今年度の中間監査が行われた。

 今年度は60周年祭の年でもあり、監査量も多いと思われる。ご苦労様です。



お知らせ


 来る9月3日、野球部ではOB野球大会と夜盆おどりを催し、うどん15,00レアイス、焼きトリ10,00レアイス等の売店を開店しますので、一時の今宵を楽しんで下さいます様お知らせします。



日語卒業生の躍進


 BC区の大津敏一・みどりご夫妻の次女みずえさんが今年になってから、文部科学省の研究留学生として名古屋芸術大学でスペースデザインを勉学中です。一昨年、富山大学で日本文化を学び、さらに今度も日本において勤しむ大津みずえさんです。


 もう一人、A区の山口勝人・香織ご夫妻の長女のえみさんはミナス国立大(UFMG)デザイン学科に在学中ですが、今度文部科学省(MEXT)からの奨学金留学で、京都教育大学において日本文化について学びます。日本語習得後、日語教師を務めた後大学に入学、目覚しい躍進する二人に多大なエールを送りたいです。



同窓の回想録・(第6回)・敬称略


同窓と共の戯れ(1)

『エスカルゴ』


 有休地が開墾されると、隣の黒沢儀次エ門さんの農地に面した所に二本大きな立木があった。その木の下に巨大なカタツムリの抜け殻が有った。雨期時期にサツマイモの蔓がその木の下までは伸びきれず、空地に成っていた。そこに巨大なカタツムリが数個蠢いていた。黒沢(儀)が間を置かずにすかさず世故に通じてるかのような口調で言い放し、「これはカタツムリではなくエスカロゴだ」フランス料理に出てくる食用カタツムリ。それならフランス料理を食べた気分で食下しようとなり、で「どうして食べるんだ」、日本の田んぼに生息していたタニシ、ツボ、特にタニシを食べたことがある私(編集者)は焼く方法で4〜5コ料理、ブクブク泡を出したら食塩を振り掛け熱い内に釘で上蓋ごと取り出して食べた。その香ばしく美味しいこと、ただ何となく次のエスカルゴを食べる気になれず、それから10年後高校の生物授業でジェストマの中間媒介虫であることが解り感染しなくてよかったと、胸をなぜおろす。


 20年前ペルイーベの海水浴へ行った時、宿泊場所から海岸までの路傍にこのエスカルゴが多く生息していた。宿主から子供達には絶対これに触れないように注意された。海水浴を楽しみに来て、目の前に見えるすばらしい海ときれいな砂浜、その潮の香に魅せられ、こんな路傍に腹這うエスカルゴなど気を注ぐ人はいないように思えるが、それがどうして時々問題が起きると言う。ブラジル人本来の好奇心、いやむしろ野次馬といった方がこの場合は的確と思えた。潮の香で浜に引き寄せられる方が強いはずだが、そんな場合でもこの路傍のエスカルゴに触れる子供がいるようでした。


 注:吸虫類(一種の風土病とも言われる)。体は一般に小さく扁平で、普通1cm以下、通例、腹面に吸盤を具え、宿主に注着する。脊椎動物の消化器官に最も多く、その他、肺、肝臓、血管内など。肝蛭かんてつ、肺吸虫、肝吸虫、住血吸虫など種類が多い。


 内部奇生するものはジェストマとよばれ、吸盤を二つ持っていて両性生殖と幼生生殖の世代の交代をする。カンテツはヒツジや牛に奇生する。人体に奇生するものにカンゾウジストマ、ハイゾウジストマ。カンゾウジストマの第一中間宿主(待機宿主)はマメタニシ。ただし、70℃の高温で1分以上加熱処理すれば死滅。


 また、こんな事もあった。私(編集者)の家で鰹の食べ方は味の佳良な刺身、たたきであり、他においては知らなかった。黒沢の母親が鰹を求めそれをさばき三枚におろし、皮、黒身などを取り除き、それを適度な大きさに切ってからゆで、乾燥。黴付かびづけを施したかは不明。そして薪を使うかまどの上にその幾つかの切り身を糸にからめ、特に煙の立つ少し高い位置に吊るした。それは鰹節を作るためと言われた。それから忘れるくらい日数が経過してもその状態が続き、ある時手打ち(手動の機械打ち)うどんを作り、その汁のだし取りに数ヶ月も手間暇掛けて作った、その吊るしてある鰹節を外して取り、かんなで削って作ったが殆ど日本の鰹節と代わらない味であった。他の出来上がった切り身を打ち付けあうと、拍子木を打ったような乾いた音に近かった。初めて目にした鰹節作りに、私は細部について飽きなく探求心を持って世界一硬い食べ物作りを見守った。経済的な庶民の味を、鰹節からのダシ取りは日本食文化の原点とも言われる。黒沢の母親の生誕地が那珂湊なかみなと(現在のひたちなか市、水産加工が盛ん)で水産加工を手掛けていたようです。



同窓と共の戯れ(2)

5マイナール・プラネット(5つ小惑星)号


 モンブカ湖にボートを浮かべ数人による漕ぎ方の練習をしようと声掛けしてくれたのが、開発青年隊8期生の田布尾隆雄・鹿児島県出身(1962.5.11あるぜんちな丸)氏は子供たちを可愛がり、よく私たちに言葉を掛けて下さった。悪童たちが何を言われると嫌い、よろこぶかを心得ており、人心を融和させることに長ける人で俗にいう円満型でした。印象に残るのが、当時この人サイフを使わず信玄袋の底の厚紙を外したものをベルトの間に挟んでいたのを思い出しますし、言葉の端に方言と思えるアクセントを発していたのが耳朶にとらえています。その田布尾氏の協力で小舟を悪童5人で作る(藤山、守屋、私、あと2人は思い出せず)。コチア組合にはふんだんに板材があったのでそれを田布尾氏が買い求め、簡粗な設計図を作りそれにそいながら1ヶ月以上かかって作り上げた。板との隙間にはアスファルトを溶かして目地詰めを施す。出来上がった舟にペンキを塗るに刷毛が必要、そこで田布尾さん本人が、井上の馬の尾毛か、長谷川の馬の尾毛かを切り取り刷毛にしてペンキを塗布名前入り(5人の頭文字、私の場合H,藤山の場合F,このように5人分を書き入れる)の小舟が進水。その時、田布尾氏から少年の馬の毛を切ってしまったので仲間に入れて乗せてくれるように依頼され共に小舟を漕ぐ。櫂が移動しないように、櫂受けを取り付けたりもした。舳へさき(舟先)で一人が調子を取りそれに合わせて漕ぎ手が、前かがみになってから腹筋を力一杯伸ばし大きく漕ぐことを指導された。そうするといままでお互いちぐはくに漕いでいたオールさばきが大きく改善され、その内に呼吸がピッタリと揃い、湖面を真直ぐ速度を増してボートが突き進むと、全身がシビレるような爽快感を覚えました。またボート漕ぎはイタズラばかりしている私たちのエネルギー団結心を養う事と、当時まだ泳ぎが出来なかったが水に馴染み溺れても、櫂、舟は木で出来ているので舟底を上にしてひっくり返ったボートでも落ち着けば浮いてくるので、それに掴まれば良いとのことで浮き輪の救命具は入れなかった。5人で喜び勇んで漕ぐ頃、吉田と思うが筏を浮かべていた。



同窓と共の戯れ(3)

乗馬


 現在有る小学校が新築され、入植者が増えると学生が多くなり、更に増築されたのが3年生に成った頃です。この頃、私たち男子内に裸馬で登校する友が1〜2名おり、私(編集者)も健次兄が古戸さんから結婚祝に馬(クラビーニョ、移住地生れの去勢訓化された2歳馬)を頂き、その馬で学校通いを始め出すそんな頃、他の数人の同級生も参加(井上、三浦、吉田、藤山、直原、私)他に石崎、上田、時折田中(金)等が加わり、駆足で道路一杯になって走り回る。それこそ「そこのけ、そこのけお馬のお通りだ」こんな感じですから女子生徒、他の学友には大変迷惑そのものだったと思います。が、その頃の私たちに他の人々に気を使える程に成長しておらず、迷惑するかもしれないというような散文的な考えはどこへやらでして、他人を省みるいとまもなかった。それを成人してから当時の話を聞かされる都度、赤面の至りの年齢時代だったと思います。走りを勝負の肝にする馬ではなく、荷物を積んで運ぶ馬が殆どであった。しかし、今その当時を偲べば大変楽しい思い出です。馬背を跨またぎ揺られる乗馬学童でした。乗馬中で殆ど疾駆でしたが、歩度は人、馬の進行中の速度、途歩みなあし、常歩なみあし、速歩はやあし、駈歩かけあし等に分けられると言われる。それ以外で覚えた馬術が、鈴木重延氏宅横手の土取り場を使って10数メートル前後ある急斜面の崖下りでした。馬が3度に2度は頭部を左右に向けて動かし嫌がるので、手綱を強く引き締め馬の脇腹を両足で引き締めながら強く蹴ると、諦め往生し馬は前足を突っ張ったりして下りだした。これを手掛けたのが藤山、吉田、私等の3人でした。ただ、落馬は毎度の事で、その内に落ち方を覚え殆ど痛みを感じずに落ちたものです。随一買い求めた物は轡くつわでしたが、それも時々使わず乗馬すると、馬が言うこときかず落馬につながりました。


 裸馬の為、乗り始めの頃常歩と駈歩を駆使、この常歩に馴れる頃、馬の背に当る部分の尻の皮膚が擦れて大変痛い思いをしますが、全員それに耐えてやっと思うように馬を乗りこなす。ふっとした刹那せつなから駈歩にタイミングを合わせるようになって、そうすると子供たちの乗り物としてもおおいに利用された馬ですが、現在では見る影もありません。元気の有る女子もいまして、乗馬したことが話題に成る。むろん当時鞍での乗馬は誰一人として所有しませんから、当然裸馬ですので、男同士でお互い目配せを交し合い顔を見合わせて「きっと尻痛ていで」。 



第一回グァタパラ移住地小学校卒業生(19名)


男子:直原通夫、五十嵐直吉、吉田寛、佐々木悦郎、井上和憲、藤山昭、林良雄、黒沢儀人、上田健一、

   三浦知

女子:三浦春美、鈴木幸子、田中玲子、見尾美子、真名子笑子、相馬祐美子、井出敏子、鈴木純子、

   三浦敏江

1965年12月11日卒業式


*直原道夫 第3陣 岡山県久米郡中央町 渡伯1962.4.10ブラジル丸 

 生年月日1949.12.15(妻・ふじこ)二女あり サンパウロ市タマンダレ街 


*五十嵐直吉 第1陣 山形県酒田市坂野辺新田 渡伯1962.1.10あるぜんちな丸 

 生年月日1949.8.23(妻・さえ子) 


*吉田寛 第4陣 佐賀県杵島郡江北町 渡伯1962.5.13あるぜんちな丸 

 生年月日1949年(妻・笑子)三男あり 首都ブラジリア在 


*佐々木悦郎 第6陣・島根県那賀郡三隅町 渡伯1962.7.19あめりか丸 

 生年月日1950.1.14(妻・麻喜子)一男一女あり リベロン・プレット市在 


*藤山昭 第2陣 岡山県倉敷市玉島八島 渡伯1962.3.21さんとす丸 

 生年月日1950.8.26(妻・京子)二男あり 。夫妻共々逝去 


*井上和憲 第2陣・山形県山形市 渡伯1962.3.21さんとす丸 

 生年月日1950年 帰国・日本在 


*林良雄 第1陣 茨城県鹿島郡大洋村 渡伯1962.1.10あるぜんちな丸 

 生年月日1950.11.11(妻・緑)二男二女あり グァタパラ移住地在 


*黒沢儀人 第1陣 茨城県勝田市勝倉 渡伯1962.1.10あるぜんちな丸 

 生年月日1951.2.27(妻・清美)一男あり サンパウロ市タマンダレ街在 


*上田健一 第6陣 島根県邑智郡石見町 渡伯1962.7.19あめりか丸 

 生年月日1951.12.20一女あり 直原、黒沢と同住所 


*三浦知 第5陣 島根県鹿足郡日原 渡伯1962.6.23あふりか丸 

 生年月日 妻・みよ子 逝去 


*三浦春美 第5陣 島根県鹿足郡日原 渡伯1962.6.23あふりか丸 

 生年月日1948.10.19(現姓・上田) グァタパラ移住地在(夫・正明)二男一女あり 


*鈴木幸子 第1陣 茨城県土浦市真鍋 渡伯1962.1.10あるぜんちな丸 

 生年月日1949.7.3(現姓・香川) グァタパラ移住地在(夫・清二)二男あり 逝去 


*田中玲子 第1陣 長野県木曽郡山口村 渡伯1962.1.10あるぜんちな丸 

 生年月日1949.12.5 逝去 


*見尾美子 第4陣 岡山県上房郡賀陽町 渡伯1962.5.13あるぜんちな丸 

 生年月日1950.2.20(現姓・和田) グァタパラ移住地在(夫・周亜)三男あり 


*真名子笑子 第2陣 岡山県南町 渡伯1962.3.21さんとす丸 

 生年月日1950.9.24(現姓・吉田)ブラジリア在(夫・寛)三男あり 逝去 


*相馬祐美子 第1陣 茨城県猿島郡岩井町 渡伯1962.1.10あるぜんちな丸 

 生年月日1952.3.26(現姓・上田) グァタパラ移住地在(夫・公平)一男あり 


*井出敏子 第4陣 長野県佐久市内山 渡伯1962.5.13あるぜんちな丸 

 生年月日 (現姓・布施)タイウバ在 二男一女あり 


*鈴木純子 第1陣 山形県西村山郡大江町 渡伯1962.1.10あるぜんちな丸 

 生年月日1953.9.15(現姓・高橋)帰国日本在 静岡県(夫・英次)四女あり 


*三浦敏江 第5陣 島根県鹿足郡日原 渡伯1962.6.23あふりか丸 

 生年月日 (現姓・岡本)ブラジリア在四女あり。



俳句 グァタパラ俳句会


風情ある狭庭に一輪冬の薔薇      富岡 絹子


鉢古りて軒動かざる冬薔薇       田中 独行


手抜き料理(メシ)主婦の才覚日は短し 近藤佐代子


不穏な世可憐に咲く冬薔薇       林 みどり


カマみがく畑仕事に日は短か      脇山クララ


おでん食ぶ店にただよう昭和の香    高木美代子


凜として生きよと冬の薔薇開く     脇山千寿子


〔次回兼題〕春の宵、蜂鳥、つつじ、当期雑詠



【編集後記】


 50年振りに、全国高校野球選手権大会をNHKテレビで観戦した。準決勝の仙台育英×福島聖光学院であったが、余りにも得点の大差で開き過ぎた。


 ふと、1968年の全伯準青年大会の移住地初出場試合を思いだした。試合前日の練習日に、左投げの私はグローブを失くし、試合では僅かの使用で、グローブ内側の積め綿を調整してなく、全く馴染まない新しいグローブでバントボールを補球すると、グローブから球がバウンド、更に次は左手で掴もうとすると、バントで回転している打球は手中でホップ、バンド処理の練習不足が露呈し、以後動揺が募り散々の試合結果だった。

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