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グァタパラ新聞2022年2月

マスク着用と手洗いを徹底し細心の注意を払って暮らしていたのですが、とうとうコロナに感染してしまいました。幸い入院することなく自宅療養で陰性になるまで回復することが出来たので、今日は久しぶりに友人とランチを食べました。ただ風邪のような症状が続きずっと寝込んでいたので、なんだかフワフワと心許なく、完全に生活のリズムを取り戻すのにはまだしばらく時間がかかりそうです、、。林良雄さんからのお便りを紹介いたします。

ドラゴンフルーツ(ピタイヤ)


同窓の回想録・(第1回)


 序文


 初めての船旅は未知の世界の連続であり、子供の私たちには本当に数々の楽しい思い出をつくった船旅のその航海を終えサントス港で下船しました。そしてグァタパラ移住地入植後、ブラジル学校が開校されると、それまで日本で義務教育を受けた高学年生ほど、その簡単な1+1=2の算数等の再開には絶望された。多くの学生は、ただ語学が理解できないだけであり、高学年の同窓生ほど勉学にいそしむ思いがうすらぐ。しかし中には、少しでも早くポ語習得を求める子弟は、数年後に定期バスが運行し始めましたので、移住地近郊のリベロン・プレット、ボンフィン・パウリスタ、アララクワラ等外部の学校へ通学し始める。その数も少しずつですが年々増加されてゆく。このため、資料編中に移住地子弟でありますが、記載されていない学生も多く居ります。


 日本就労が長期化し、その内に移住地出身者の人々にも定住する方も現れています。しかし、子弟の教育事情が気になるものです。きっと私たちと同じように数学、理科系では高得点が取れるが、日本の国語、社会科等の文科系が伸びていないと案ずる思いです。


 飲料水が極めて劣化であった校内の薄赤い水道水を、共に飲んでいた同窓生たちを50年後に回想しています。私の人生に関係する一挙一動の思い出の断片を、懐かしむ気持ちになって振り返ります。十年一日の如く移住地には変化が乏しいので回帰願望までは求めませんが、せめて赤い水を思い出して下さい。各々方のプライバシー(個人情報保護)内に踏み込むことを避け、現状記載も住所、職業、子供等に留まります。今では外見も大きく変貌し額が抜け上がるなどを遂げ、またメタボ体系形も多くみられる初老の人々でしょう。ですが、その望郷に僅かでも回帰の思いを馳せていただければ幸いです。自然体で常日頃使っている呼び方で記載したことをご了承下さい。                  

2013年8月



現在の小学校(2021年12月撮)


 移住と言う各家族の動機で、1961年11月下旬、横浜移住斡旋所に入所してから始まった同窓、出身県によって異なった言葉のアクセントには、戸惑いを感じながらもサントス港に着く頃には殆ど違和感も解合して入植する。そして、グァタパラ移住地内での開校時には、年上も年下もそれこそ同窓と言う下にまとめられ、新学期を28名と5名の幼児を含めて1962年2月21日から始まった。全員日本人という雰囲気であったが、現地の子供2名が加わり、少し変な感じでしたが、それにも馴れていった。その記念すべく開校式写真には、なんと豚公君も参加され写真に納まってしまう。


 1962年のこの年は雨降りが多く、ぬかるみでよく足元をドロだらけにして通学しました。私たちはポ語こそ話せぬが、その授業内容は初歩であり、始めの一ヶ月位は神妙に受けていました。しかし、この授業の単調さに段々退屈し始める。日本で上級生であった生徒ほど同じような行動が表れ始め、この頃から親達が学校での子弟の品行が心配されだした。


 近藤安雄氏のグァタパラ通信の中にも教育関係が多々ふれてあり、それらを転載しながら同窓を編纂します。特に、グァタパラ小学校第1回卒業生を重点的に纏めます。


 学校は、取り敢えず管理人住宅付属の一室を使う予定で、コチア(コチア産業組合中央会)のグァタパラ責任者谷垣販売部長がリベロン市(当時はリベロン・プレット郡に所属)の教育局に当った結果、最近できた規程で、臨時応急処置として極めて小規模な学校を設立する方法。それはエスコーラ・エメルゼンシア(応急学校)。その条件とは教室が5米平方以上であること、光線が左側から充分入る大きな窓があること。学童は25名以上いること。これに願い出ると視学者が現地の事情を調べ、そしてそれが受理されると、州政府から教師が派遣され、給与は州政府負担で支出されます。海協連支部を通じての日本政府の本年度学校建設補助金により、取り敢えずこの条件に合うように作って、できるだけ早く正式に許可を取って出発したいと望む。ブラジル学校は今、夏休み中で、小学校は2月中旬から、中学は3月から始まります。


 2月20日に学校の開校式を行う。本部から一キロ以上行った所に、元からこの農場の管理人で、今自動車運転手として工事々務所で働いているオーランドの家がポッンと一軒あり、元のコロノ住宅でお粗末なものだが、半分家族が住み、半分空いており、その一室を臨時校舎にして壁を塗り、屋根を修繕し、窓を直し、家の周囲の煉瓦の崩れたのを積み直して4,45m×5,95mの学校の教室が出来上る。その隣に1室を作り先生の住宅として先生を迎える。先生はドーナ・フッチと言い4〜5年の経験がある栗毛色の女の先生。


 開校式で先生の挨拶は「日本人は頭がいいと聞いています。これから皆さんと一緒にここで勉強することを喜んでいます」と言うことで、コチアの売店にいる二世の中野文子さんが通訳してくれました。


 机はリベロン・プレット市の学校から古いが正規のものを借りる。先生も委託ではなく政府派遣で校舎はお粗末でも、レッキとした正式の学校であり正規の課程で勉強が開始。だが、両方とも言葉が通ぜず、自分の名前をローマ字で書けない子供も7〜8人おるため先生も大変。生徒の名簿を作って先生に渡したが同姓の鈴木が三戸、黒沢が二戸あったり名前も殆ど同じようで、先生が出席をとるのに大変。それでまず、先生が名簿で名前を呼び生徒は立って「プレゼンテ」(出席)と言うことから始める。ところが小さい子供程元気がよく、中には名前を呼ばれて姓を言わない先に、大きな声でプレゼンテと今習ったばかりの返事をする子もあって大笑い。


 授業中に便所に行きたくなった時は、手を上げ「ポッソ・サイール」と言って許可を受けてから外へ出ること。これが第二の注意でした。勉強は8時から12時まで、途中10時から30分間休みがあるのでパンや果物を持って来て食べてよしであった。


 この日(1962年2月21日)は父兄も


 1962年1月12日グァタパラ移住地到着の夜、田中一家、相馬親子、黒沢栄子。母親も総出で参列。校舎前に国旗掲揚の柱を立てて、先生持参のブラジル国旗を上げ、外で一同先生の希望で父兄も入って記念撮影。生徒にはサンドイッチやガラナ、バナナ、オレンジが配給され父兄も祝杯を野外であげる。


 それから毎日子供達は喜び勇んで朝早くから学校に行き、余り速く行くので先生が7時〜11時にしようかと言われたが、そうしたら6時には行くだろうし、そうなると母親が大変であるのでそのままの8時にしている。


 中学生も小学1年生も皆一緒ですが、仲良く言葉専門に勉強を始める。この中から中学、高校、大学へ行く子供も出るだろうと思いますと先生の努力が一層有難いです。


 生徒は24名の予定でしたが、今年4月入学予定の子供が、こちらは今が新学期なので入れたり、現地人の子供が入って来たりして、3日目には31名に成り、2陣が入れば超満員になるので今から困っておる。


 入植初年度は驟雨(スコール)が多く、入道雲が晴天の青空に浮かぶと、たちまち大きく発達し先方、特にグァタパラ駅の西方に真っ白な雨柱が立つとかならずといいぐらいこちらに向って来てそこそこにスコールに見舞われ、住宅作りをしていた大人たちは作業の手を止め物陰に逃げ込む。にわか雨が降ると外温が下がり凌ぎ易くなりますが、衣服ごと濡れると爽快にはなれない。


 移住地中央の本部に、住宅が出来るまで仮住まいしていた為、子供たちは建前中のところへ出掛けたがたっが、遠い道程とスコールが頻繁にあるのでと言われあまり遊びに行けなかった。コチア倉庫(農協)には2台のトラックがあり、その頃建築資材を朝の内によく運んでいたので、午後はほんの時々でした。年上の級友が思い付き、トラックに乗せてくれるよう話しをしましたが、4〜5度に一度ほどの割合で、刑部ルイス(静岡県出身)さんは快諾しよく乗せて頂けたが、若い独身のジュリオ(サンパウロ近郊出身)は殆ど駄目でしたが、それでも女性に対してはやさしく優遇された。数度目に誰かがそれを見付け、運転席側のドワにしがみつき訴えると、親に頼まれて乗せて行くと言うが、助手席の下側にさらに2〜3人の女の子がうずくまって乗っ

て居り、口さがない悪童たちで「ジュリオは助平、々」とはやしたてましたが、本人は日本語をよく理解せず、ハトが豆鉄砲をくったように驚いた顔付きだけでトラックを出してしまう。それから住宅が出来上がり入居するまで、何度か友達を誘い合わせ出掛けましたが、時々このスコールに出会いズブ濡れになったりして、時には木の下で雨宿りして雨をしのぎましたが、高い立木は僅かの場所で、元の古田宅付近から中央道路に沿って有るだけでした。


 渡伯後数ヶ月過ぎると各住宅が建築され、宅地から通学が始まった。携行品として自転車を持って来た家族もありましたが、殆どの学童は徒歩で通学、皆同じ方角の住宅であったので通学路もお互い気の合った友と通いました。当時、移住地の新しい土道は自動車の往来が少なく、乾いた所を自動車が走ると、赤い砂埃を巻き上げて走っていた。道路が新しいからと思ったが日本の火山灰度埃と違い、粒子の細かいブラジルの土は埃がたちやすく、世界三大肥沃土の一つ、テーラ・ロッシャでは更に土埃をもうもうと巻き上げ、後続車の車窓からでは前方が見えないとまで言われた。



グァタパラ耕地のパン屋


 入植初期を想起すると、一年間位と思うが、本部で共同購入していた牛乳と1kg もしくは500g のフランス風棍棒パンを毎日の下校帰路中下げ歩き、下校が昼飯の近い時期、既に腹も減りパンの柔らかい中味の部分をくり貫き兄妹で食べ、家に届ける頃には1/3も食べてしまう時もあった。このパン、一番太いところは15センチを越え、チョッピリ塩味がきいたところのかすかな塩味が、絶妙な塩気の味わいを楽しめるパンである。


 また、牛乳が小さな学生には大変負担の重い品物でした。1〜2Lの量であったが長い道中ブラブラ下げ歩き、時には転んで道にブチ撒け、大地に牛乳を飲ませて上げたり、道すがらあぶら草を摘んで花束にしたり、6月頃のヨハネかずらが一面に咲き乱れると、その花蜜をミツバチ、蝶のようにすすったし、道草をあきることなくしていて、しばしば牛乳を醗酵させてしまった。級友たちと同じように年上が重い牛乳を下げ、私たち兄妹も牛乳は自分が下げ、妹が1kg パンを持ち帰る毎日でしたが、前述のようにまともな形でのパンは週1度位で、あとは何時も中味の減ったパンを持ち帰りました。そして現在のロータリー先の郡道入口周辺は当時、このあたりを語るに足りる情景は、原始林と思えるほどの大木に太い蔦が絡み付き、新しく開かれた土道はその緑陰を落とし、色とりどりの野鳥やサルまでよく見掛けました。また、エマブラジル駝鳥)の足跡も新しく出来た土道で時々見掛ける。アルマジェロなどは日常茶飯事なほどよく見掛けて捕まえました。隣りのお姉さんがこのアルマジェロを捕まえたが巣穴に逃げ込みだし、体半分ほど穴に侵入したのを手伝うがどうしても捕獲できなかった思い出があります。この人も早くして逝去されてしまった。


 こうして飽きることなく学童たちと悪戯を繰返して居たこの年、ある学友にガタガタ騒ぐが未だ半ズボンで、時にはメソメソ泣いたりしてまるでガキでないかと言われたのを切っ掛けに、半ズボンの使用と泣くことを止めた。この日を持って、以後涙が涸れたかのように涙を流すことも無くなった。この半ズボン使用とは、私たちの年代で下着はブリーフではなく裾の隙間のあるパンツであり、半ズボンを使用してかがむとその隙間から小芋をのぞかせることが時々あり、これが恥ずかしいのでことの分別が出来ると嫌うようになった。 

 


グァタパラ移住地初期誕生者先10名

   

   名前      生年月日  父親名    続柄

1 黒沢洋二   1962/7/27 黒沢典    次男 

2 黒沢円    1962/12/1 黒沢儀次エ門 次女  

3 松本永文   1963/2/3  松本重雄

4 相馬明彦   1963/2/17 相馬国男   三男 

5 佐伯真理   1963/3/7  佐伯邦夫   次女 

6 下原ベリ   1963/5/11 下原朗男   次女 

7 入田千鶴子  1963/7/10 入田孝雄   次女 

8 古戸優子   1963/7/14 古戸彰    長女 

9 宇谷クラリッサ 1963/9/2  宇谷正夫   長女 

10 高橋栄子  1963/9/18 橋 武


 多くの出産児はボンフィン・パウリスタ在住の佐々木助産婦に取上げられる。

グァタパラ移住者の着伯年月日(サントス港)


第1陣  1962年1月10日

第2陣  1962年3月21日

第3陣  1962年4月10日

第4陣  1962年5月13日

第5陣  1962年6月23日

第6陣  1962年7月19日

第7陣  1962年8月23日

第8陣  1962年9月11日

第9陣  1962年11月22日

第10陣 1963年1月17日

第11陣 1963年2月12日

第12陣 1963年4月18日

第13陣 1963年5月15日

第14陣 1963年6月13日

第15陣 1963年7月18日

第16陣 1963年8月17日

第17陣 1963年9月10日

第18陣 1963年11月10日

第19陣 1964年1月06日

第20陣 1964年2月07日

第21陣 1964年3月12日

第22陣 1964年4月16日

第23陣 1964年5月20日

第24陣 1964年6月07日

第25陣 1964年8月20日

第26陣 1964年9月20日

第27陣 1964年11月6日

第28陣 1964年12月13日

第29陣 1965年2月11日

第30陣 1965年3月12日

第31陣 1965年5月18日

第32陣 1965年6月08日

第33陣 1966年6月15日


・眞名子笑子・敏行姉弟、藤山昭・容子兄妹、井上和憲等。

 マリオ視学官の授業参観。



俳句 グァタパラ俳句会


嵐舞う如くとぶ落葉あり    高木みよ子


瓜漬けは米こうじ漬け母の味   脇山クララ


青嵐雨と雹も伴なって      林 みどり


祖母漬けし鉄砲漬けてふ瓜ありし 富岡 絹子


競争で虫と獣と.瓜を採る     菅原 治美


青嵐吹けば淋しき村はずれ    近藤佐代子


足りる程採れて新鮮胡瓜かな   田中 独行


果てしなき麦の海原青嵐     脇山千寿子


〔次回兼題〕初鏡、雑煮、お年玉、正月一切



【編集後記】


 ブラジル日報を手に取った。ニッケイ新聞より僅かに活字が大きくなって、老いに差し掛かった目には読み易い。紙面も一面増え、記載内容は以前と殆ど変わらない。


 大相撲初場所、三度目の優勝で大関昇進が確実となっている、御嶽海がやっと大関昇進。相撲にムラがあることから、中々大関に昇進出来なかった。

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