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グァタパラ新聞2022年10月

つい最近までTシャツ一枚で過ごしていたのが、ここ数日は夕方にはフリースを羽織らないと外出できないほどの寒さになりました。例年だと寝苦しい暑さから解放され、爽やかな季節がしばらく続くはずなのですが、今年は秋を飛ばして一気に冬になりそうな勢いです。


ブラジルの林良雄さんからグァタパラ新聞10月号が届きましたのでブログを更新します。今月の写真は、桜色のイッペイで色々のイッペイ中で今年最後の開花するという春霞にかすむイッペーロッザと9月の降雨で早く芽を出した茗荷の写真です。毎月、日本に居ながらブラジルの季節を感じさせてもらっています。


春霞にかすむイッペーロッザ


文協の主な経過報告

・8月5日ーデドネ氏から6,400,00レアイス入金される。

・8月8日ー財務委員、中尾会計事務所へ相談に出掛ける。

・8月10日ー財務委員会。

・8月12日ー吉永水道・機械委員長市役所へグレーダーの件で話し合い。

・8月15日ー三役と清水監事長との話し合い(信徒会に中島先生の胸像の件)残金を支払う事に決める。

・8月17日ー信徒会に支払う(佐々木信徒長が受け取りに来る8,524,00レアイス)。

・同ー財務委員会。

・8月19日ーカマール砂取り業者958,00レアイス入金される。

・8月20日ー財務委員会。

・8月24日ー中間監査。

・8月26日ー財務委員会(ヒカルド弁護士、デドネ氏出席)。

・同ー白水氏、樋口氏宅周辺より出火のため消火作業。

・8月30日ーモジアナ・ミネイロ砂取り業者6,088,11レアイス入金される。

・同ー落合氏宅側の郡道沿いの文協土地に野火が入る。

・同ー監事(清水、竹中、藤山三氏)と三役、財務による話し合い。水道・機械委員会8月の経過報告

・5号深井戸に補助水取ち口の設置、電線盗難防止のドワを設置する。

・清水氏〜レオ氏間の漏水修理。

・9月より会員外水道料金の調整。一立方に対し1,50から1,60レアイスに調整。

・弁護士立会いで、市役所とグレーダーの状況につぃて話し合いをする。

・佐伯氏の漏水修理する。

・6号深井戸関連で佐伯氏のメーター立ち上げを交換する。

・佐伯ジウソン氏宅が断水の為、周辺を掘り起こし配管を探す。十字路より新な配管を設置する。また掘り起こした周辺を地均し、いじった有刺鉄線の修理する。

・白水氏、樋口氏周辺より出火のため消火作業をする。

訂正

9月号での定例役員会協議事項中、中島先生のお墓改造に1万6,200レアイスを1万6,400レアイスに訂正します。


婦人会・敬老会の案内

 コロナ禍で婦人会活動も自粛を余儀無くされ、2年間休会されていたが、今年は敬老会を開催される。婦人会員が少数と成っている昨今、中央公民館で来る10月9日午後2時より開催され、婦人会は敬老者の皆様にぜひ、ご観覧、ご来席をご案内しております。


サ日校との交流

 去る9月24、5日の両日、サンパウロ日本人学校5年生12人(男子4人、女子8人)の生徒とグァタパラ日語学校生徒が交流する。


 初日の24日の午後2時過ぎにマイクロバスで、植草校長引率による五年生の担任金古教諭、生徒12人、警備員2名、看護師、運転手等が来訪される。


 当方でよさこい、誠太鼓を発表後、よさこいの踊り方を2グループに分けて指導、その後各グループが発表し、最後は全員で踊る。今年はホームステイーではなく、グァタパラのホテルに宿泊された。


 2日目は、祭ダンス後、4グループに分かれドッチボール、サッカー、縄跳び、鬼ごっこ等を30分活動する。10時になってから折紙、あやとり、こまの作り方を習う。


 昼食後、最後にお別れの式を行って交流を終了する。大変喜び感謝された。

 現在のカンポ・リンポ日本人学校小、中学在校生は110人と言われる。


同窓の回想録・(第7回)・敬称略

ジャボチカバール農学校予備学級

 1966年パイネイラの花咲く頃、宿舎の改造を待つこと2ヶ月、渡辺季三氏(当時コチア・グァタパラ組合支配人)に送られ直原通夫、五十嵐直吉、吉田寛、黒沢儀人、上田健一、林良雄(編集者)、藤山昭、藤山はすでにリベロン市内のブラジル校に通学中であったが、渡辺季三氏の強い推薦で七人組に加わる。


 渡辺季三氏との出会いは、1963年父(富男)に夏休み中、進級祝いにサントス港へ第十陣を出迎えに、コチアの谷垣氏とその時近日中にグァタパラ・コチア倉庫に主任として着任される渡辺氏が同様に、第十陣の皆さんの出迎えに見えられていた。以後移住地内では毎日のように、そしてトマト栽培の経験があり、健次兄がトマト栽培を始めると日に一度は渡辺氏の姿を見かけない日はなかったと思う。父親同様位の近親的、子供なりに接 しました。

 その長い出会いの歳月の中、特に思い出深い出来事は、グァタパラ小学校を卒業、翌年66年ジャボチカバール中学予備学級に卒業生7名が入校。寄宿舎改造中で入校が遅れに遅れてパイネイラの満開頃に始まりその時、寄宿舎まで送って下さったのが渡辺氏、学友7人共々親元を初めて離れたもので、渡辺氏が「それでは私(ヨ)は帰るから、元気でガンバレヨ」と言われ立ち去られた後、さみしいやら不安に7人一同気落ちする。特に黒沢は虚脱感か郷愁で1ヶ月以上オセンチしていた。そんな頃、父親の黒沢氏が毛筆で認めた候文の手紙で激励される。その手紙を拝読させて頂いたが、達筆で私等が読解し易い内容の文書、行末を揃える脚韻(きゃくいん)(ライス)を踏んでました。そして候という字がなんとなく日本古来の武士道を表しているように感じがしてならなかった。私の父親からの手紙など、何時も乱筆乱文でした。私達7人中の親で、吉田の父親が大学中退と聞く。この年代の農業者にしては高学歴の父親でした。黒沢の顔からすっかり明るい色がひいて居り、どうして萎えたのだろうかと思った頃、家の跡継ぎ問題で悩んでいた様子。間違っていたら黒沢の叔父貴式に「乞御容赦」といきます。7人とも「かな釘流」の乱筆のうえ、字は硬く角張って筆圧が強いので筆致流麗(ひっちりゅうれい)の黒沢氏の毛筆書文には驚かされました。



ジャボチカバール農学校の略歴


 1920年サンパウロ州出身シンシナート・ブラース・ダ・シルバ・ブラーガ連邦議員 が国会に農学校創設予算申請する。

 1921年8月4日、ジャボチカバール市近郊地域でカルネイロ・レオン一族の農地200アルケーレス(約484ha)を接収する。


 農学校支援団体「ジョゼ・ボニファシオ」を創設し、連邦農業学科の始まりであった。支援団体はエピタシオ・ペソア大統領令を受けて、1921年12月1日に青少年法違反者及び、1918年当時大流行したスペイン風邪の被害で孤児になった子供達の、受入れ施設等とした含みのある教育機関であった。


 ジェツリオ・ヴァルガス大統領になった、1934年には連邦教育機関所轄であったものがサンパウロ州教育機関へと移行。そして州執政官アデマール・ペレイラ・デ・バロースの手により実践を加えたジョゼ・ボニファシオ実践農学校に変わる。北米の農場学校をモデルにしたものであったが、北米の場合青少年違反者は受入なかった。


 その後、幾度も校名は変更され、1993年2月3日現在の学校名はコレジオ・テキニッコ・アグリコラ・ジョゼ・ボニファシオに落ち着く。毎年六十名の生徒を受入、今日(1993・2・3)までに約5,000名の農高卒業生を送り出した。


 校舎は大きな長方形の窓を備え、四角のドーナツ型で大型のレンガ作りに砂、石灰、セメントを混ぜた上塗りがかけられた古風な建物で、版築(はんちく)工法で建てられ、空気の入れ替えのために中庭があり、それに面した窓を開ければ、外側の窓は閉じたままにすることが出来た。45年以上経過していたが、亀裂の一部すら見掛けなかった。柔らかな色合いの壁に囲まれた通風のいい教室、そして石畳の中庭、二階が宿舎になっていたが、だだ広く大きな仕切りをなされていたが、この仕切りを今度(1965〜1966年はじめ)取り付けたので3月の始業が5月中旬まで遅れてしまった。宿舎は二階で内側に面した所に廊下が通してあった。


 教室の天井がたいへん高く、その上窓も高い位置に付いてるので、爽やかな風が校内のさまざまな音とともに優しく込んで来てるのだろうが、それは頭の上あたりであり、天井が高いので午後の授業でもさほど暑さを感じることがなかった。


 学校の寮というより、刑務所みたいと憂鬱(ゆううつ)に私たちは言っていた。施錠こそなかったが時間に縛られ、外部へ出るにも許可を取り付ける。寮内にバルバ・デ・ボーデ(やぎひげ草)の乾草入り布製マットレスは独身用スプリングベッドに載せて、枕、シーツ、毛布に実習用作業服が学校側から支給され、枕頭に各自が持参したカバンの置けるスペースが各学生の就寝場所。そのベッドが中高生入り乱れ合わせ250〜280台ところ狭しとズラっと並んで起居を共にした。


 シャワー室にドアは無く、恥ずかしい姿でトイレのドアは下側が大きく開かれ、体がらくに出入れでき、上の方もやはり広く開かれ、立った位置からは覗けないお情け程度のドアでしたので、個人のプライバーシは無いのかとさんざん不平を鳴らしていました。とても落ち着いて長尻できるものでなく、学生数に対しトイレの数が極端に少なかったので、これでもよかったのかもしれない。


 小学校を卒業したはものの、予備学級に入って最初の3ヶ月間7人で金魚のうんちごとき、何事につけても7人一緒。そんな中でも直原、藤山が皆よりポ語には先駆け、直原は宅地内にパラナ出身の大工西川親子が長い間住居していたのでポ語を学び、また藤山は少し早めにリベロン市の中学へ行っていたこともあるが、どちらかと言えば語学には長けてるものを持ち合せていた。そんな中、ことあるごとに直原、藤山に問い掛けながらポ語の聴解力を高める。ともかく7人で同行動を取るので「早く言葉を覚えんぞ」とよく指摘されるにも拘らず、予備学級中は徒党を組んでの行動が殆どでした。日本文の述語が最後にくるのに馴染んでいる私は、ポ語の作文には未だ苦手でした。


 学校への交通路は、移住地からリベロン行、そしてジャボチカバール、バウル、リオ・プレット、バレトッス行など各方面の定期バスが通過しており、交通には事欠く心配はなかった。ただ入学した頃は全員未成年で校長許可の下で行動、許可がなければバスに乗車することも出来ない法令には悩まされる。また、バリニャ市からパウリスタ鉄道で、マルチーニョ・プラード、グァラニー、グァタパラ駅へ着くことが出来たが、グァタパラ駅から移住地までの便が著しく無く、在学中二度程利用したのみでした。当時ジャボチカバール〜リンコン駅までのパウリスタ支線も運行していたが一度も利用せずでした。その他に農場(学校敷地)内にモジアナ支線がジャボチカバール、ルジタニア、ピタンゲイラへ通じる鉄道線路が敷設されていたが、一年生(1967年)頃1〜2両の無天蓋貨車を牽引しながら、鉄道レールの長さ程進み一本々剥がしながら廃線して行きました。どの路線も今でしたら乗車してみたいものですが、その頃は学科だけでも大変であり、とてもそんな気持のゆとりも無く遠い過去の記憶でしかないです。


 1966年頃、すでにリベロン〜ジャボチカバール沿線には砂糖キビ栽培が多く、コーヒー栽培は僅かであり、学校内でもコーヒー栽培は校内消費程度栽培される。樹齢も古く欠株に補植。この補植方法が苗を植付、日除けに薪割った木を積重ねて日陰を作るが、あまりにもこの原始的な方法には驚く。また苗作りは苗用の床土を作り(牛糞、腐植土を混ぜ木枠か、竹の節のない部分に入れ固め播種)。この頃、まだ苗用ナイロン袋は普及してない時代の苗作りでした。

 200アルケールの農場は緩慢な起伏波状丘陵地帯で、延々と地平線の彼方までとは言わないがそれでも拡大な牧場に牛が放牧されており、牧草は在来種のジャラグァで乾燥期の気候に弱く一アルケールに一頭の収養力でした。ただ、陸稲、トウモロコシ栽培地より土壌の肥沃度が著しく落ちているための農地利用(粗放的繁殖育成牧場)でした。


 農業実習で大変興味を示したのがファリニャ・デ・マンジョカ(ファロファ)作り、これは直径1m円周3.14mの円盤をモーターで廻し下から薪で火を焚き、粉砕した生のマンジョカを円盤の上に伸ばし広げ焼き上げる。これが大変香ばしく熱い内は尚更美味しい物でした。また、砂糖キビのグァラッパ搾り(ピンガ酒作り)、直原の父親一(はじめ)さんが試飲した評価は、市販では求められない程の良質と言うことでした。当然皆未成年者ですから飲むことは出来ませんが、そのアランビケを使用して上級生が下級生に、当時校内敷地

にはやたらと桑樹があり、たわわに熟す桑の実を採らせ桑酒作りを始め出すが、学生だけのアルコール酒作りはご法度のため、桑酒ならず桑ジュース作りになってしまう。これ程桑樹があるなら以前養蚕飼育の経緯を伺うが、その技術は無く農場管理人の方は、以前この地方でイタリアから蚕種を取り寄せ、黄繭の蚕を飼育した話を聞いたことがあると言われる。私(編集者)の友人が蚕の飼育を是非見たいと達の願いで、4齢蚕か5齢蚕を20匹程飼育営繭させたら、校長まで見に来る程の感心事でした。後年ジャボチカバールUNESP(サンパウロ州立大)の大学生がグァタパラの養蚕視察によくみえる様に成りました。


 反対に最も気乗りのしない実習は、乳牛飼料の一部であるサイレージ扱い、これは衣服にサイレージの匂いが残り、授業中にその異臭が漂い、嫌な思いを散々しました。だが大事なサイレージ作りは手掛けさせず、これは生徒の質をよく心得ており、サイレージ出しだけでした。どの実習でも、その指導にあたる人は殆どテキニコと言われる農高卒の指導者でした。その他、鶏の集卵、餌くれ、学術的には実家の農業より大変レベルが低いもので、体のいいカマラーダ(労働者)。


 学問を学び、食事を頂けるものですから文句も言わず、食べる方は伸び盛りで、帰宅ごとに背が伸びた々と義姉が目を見張る程(1年で12センチ伸びる)でした。本当に腹一杯食べた、食堂の給仕係がこれでもかと言う位飯(インデッカ米にラードを入れて炊く「ラードライス」)とフェイジョンを給仕してくれた。成長期だったせいか胃を満たしてくれる食べ物ならなんでも良く、味噌汁、日本米と言った和食にそれほど郷愁を感じることもなく、特に経済力のない学生時代は出された食べ物をガツガツ食べました。料理の食郷愁は、和食を懐かしむようになった40年代からであり、発酵文化ナンバーワンの味噌汁が恋しく感じるようになったが、それ以前は肉中心料理の方が好きでした。飽食し食傷気味などの時に和食を求めたりうまい、まずいと好き勝手を言うものであり、それしか食べる物が無い時など.は、そんなことも言って居れず、出された食べ物を文句も忘れて食べたものです。



簡単に一日のメニューと食事時間表


 朝食 6時〜7時 カフェー・ダ・マニャンコーヒー、牛乳、パン、バター。

 昼食 11時半〜12時半 米飯、フェイジョン、肉、目玉焼き、サラダ、食後コーヒー、一食一品のサラ

    ダはレタス、シュシュ(はやと瓜)の茹でた物、キャベツの炒め物、コウベ・マンテイガ(ケルー)

    等のどれか一品。

 お茶 14時半〜15時 マテ茶、果物。

 夕食 17時半〜18時半 米飯、フェイジョン、ジャガイモ、玉ネギ、ニンジンと肉の煮付け、サラダ、

    食後コーヒー。オレンジの季節には、これにオレンジが付く。


 この繰返しで、金曜日は肉を絶ち、マカホナーダ、バカリャウ(塩タラ)とジャガイモの煮付け。


 日曜日は昼食だけ、桃缶詰、南瓜のジャム、ゴイアバーダ(グアバ・ジャム)等のデザートが付く。夕方ミンガウ(コンスタンチーナと牛乳)これが一週間の献立であり、伸び盛りの学生には、日曜日は腹を空かすものだから、場内の果物を無断で失敬するため、時折厳しい処罰が下されこともあった。食事の中で時々カルネ・セッカ(干し肉)これが大変厄介な食べ物で、あの独特の臭いは食下した食べ物が込上げる程に悩まされた。肉は大体学校内の牛を屠殺、米も大体農場内で収穫したもので賄う。ただ籾の保存が悪いと蒸れた味の飯を食べることがあったが、これも大変な業でした。蒸米には発癌物質が含むと言われ、肝臓障害などを引き起こすアフラトキシン。近年飼料作り時に、トウモロコシのアフラトキシン障害がよく問題に成っている。

・ジャボチカバール農学校

問い合わせ

 開拓を執筆した際、満州移民引揚者の書籍を数十冊読破したが、戦争中の写真の記録が引揚者中に殆ど見うけられない。着の身着の儘で引揚げた人々が殆どである。著者の手元にあった写真は、叔父が戦争前に渡満し、その現況を両親に写真で知らせたものの他は全然であり、両親の引揚げにおいては皆無である。その疑問を長い間引きずってきた。


 数日前に読んだ書籍中に、こんな件の記載があった。

 わたしが生きた「昭和」 澤地 久枝。 満州引揚げ時。


 風景のうつっている写真、軍人のいる写真を持って帰ってはならないという指示があった。どの程度に強制力のある指示かは今もわかっていない。しかし、もし各団にまとまる引揚げグループから、印刷物、日記や手紙など手書きの文書はもとより、、禁止の写真が一枚でも見つかったら、その団の引揚げはあとまわしになると伝えられた。


 これを知ったが、両親からこの様な話は一度も聞いたことがない。戦争体験者が少なくなっている今、何方かこの様な話を聞いたことがありましたら、編集者に一報下さい。


訃報

 BC区在住の中島寿雄(享年81歳)儀、1962年9月11日着伯8陣、長野県南安曇郡穂高町出身。去る9月16日に永眠されました。

 お別れの儀は家族、友人、親族で相営みました。

 翌、9月17日午前10時、移住地内モンブカ墓地埋葬時のお別れの儀を、ロドリゴ神父様による細やかなお別れのミサを会葬者の皆さんと執り行なわれてから埋葬されました。

 ご逝去に心より哀悼の意を表し、謹んでご冥福をお祈り致します。


御礼

 亡夫中島寿雄(享年81歳)儀は、去る9月16日病院において永眠いたしました。お別れの儀は家族、友人、親族で相営みました。翌日、移住地内モンブカ墓地の埋葬時には、村の皆様の参列ご会葬に厚く御礼申し上げます。

 生前長い間懇意に賜りました村民の皆様より、お悔やみと過分なるご香典ご供花を賜りましたことを哀切より感謝致し厚く御礼申し上げます。


                2022年9月

                喪主 中島 美枝子

                親族 一同


 尚、勝手ながら香典返しの儀は略させていただき、寸志をグァタパラ文協、長寿会、教会、長野県人会、茨城県人会に寄付させていただきました。


【編集後記】


 例年になく、今年の9月は降雨に恵まれた。毎年植え付ける里芋は親指ほどの芋にしかならず、生姜もあまり育たない。そこで根菜作りの上手な田中氏に伺うと、生姜は10月頃、午後の日差しが遮る場所へ植えると言われ納得。その様な場所を択んで9月下旬に生姜、里芋を植付、薩摩芋は日差しの強い所に植え た。

茗荷の芽

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