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グァタパラ新聞2021年9月

緊急事態宣言も解除されたので気軽に外出するようになり、先週は大阪市西成区にある国の登録有形文化財に指定されている建物(工場など多数)の見学に行きました。近くの紡績工場跡も巡り10キロくらい歩いたのでかなり疲れましたが、木津川水門を横目に自転車に乗った地元の人たちとぎゅうぎゅう詰めの渡し船に乗った時には、「ああ、日常を取り戻しつつあるな〜。」と実感した一日でした。


林良雄さんの方は、ようやくインターネット環境が回復したようで、本日グァタパラ新聞の9月号が送られてきました。


丘ガメジャボチ



ブラジル南部の霜害


 グァタパラ耕地凋落の一要因でもあった降霜害、降霜は無いと言われ、グァタパラ移住地初期の冬作に与えた降霜被害は甚大であった。資料の少ない中、これを記してみたい。

 

 手中資料にパラナ州の降霜年度の記録があり、1918年大霜害(6月24、25、26日サンパウロ州特にモジアナ地方コーヒー樹の50%強が被害にあう)、1923年霜害、1927年霜害、1933年大霜害(モジアナ地方のコーヒー樹30%が被害)、1940年代の資料が無く、1953年霜害、1955年霜害、1963年大霜害(グァタパラ移住地でも霜害で冬作の蔬菜が大打撃)、1967年霜害、1969年霜害、1972年霜害、1975年パラナ州のコーヒー全滅、サンパウロも被害大、この様に頻繁に霜の被害を受けるため、コーヒー栽培者は高原のミナス・ジェライス州方面へ代替わりしながらも挑戦している。

 

 1975年7月18、19日白魔が南部州に猛威をふるう、大寒波の襲来で大霜害、サンパウロ州のコーヒー樹2億本、パラナ州で9億本、南ミナスを含め栽培本数の約70%前後の損害、そして数十万の労働者の去就がでる。


 パラナ州の大霜は10年に一度から、早い時は5年に一度の被害を受ける。1955年頃、アサイ地方は霜害後の営農対策として、養鶏を副業に取り入れることを提唱される。このコーヒー樹再生に鶏糞が投与され、一羽の鶏で年間30キロの鶏糞を排泄するので、一本のコーヒー樹に3キロが投与でき、鶏一羽で10本のコーヒー樹を育てることになり、この肥沃地帯にでも、コーヒーの霜害対策に導入した養鶏飼育だったが、そこから出る副産物の鶏糞を投与することで収量も増産され、採卵養鶏団地になった。副業養鶏というよりも2万〜3万羽飼育の養鶏産業は総合農業の一部に変貌する。



続・変り行くモジアナ地方の日系農業

(加筆印始*終*)


 1955年頃、モジアナ地方の道路交通は殆どドロ道で、主要交通機関は文字通りモジアナ鉄道が全てであった。パウリスタ線の方は前述のように軌間が広軌(1,435M)で使用する蒸気機関も大型であり、私達(編集者・林良雄さん)が渡伯した1962年には既にディーゼルエンジンを使用していた。それに比べ、モ

ジアナ線は狭軌(1,067M)であり、知る範囲では殆ど薪を使用していたマリア・フマッサの蒸気機関であったが、1952年一部でディーゼル化している。線路沿いに切り出した薪を積み上げて置くと、当時率のよい臨時収入であった。煤煙に火の粉が混ざり、開放した車窓から飛び込んで、衣服を焦がす記述が多くある。モジアナ・モンテイロ線(グァタパラ〜リベロン・プレット間)でも2時間、パウリスタ本線でグァタパラ〜サンパウロ間でも8時間強を費やしたが、夜行には寝台、食堂車が連結されており、当時にしては快適であった。


 モジアナ支線は1970年代初頭に延べ2,000キロあったものが殆ど廃線となり、線路用地は農業隣接者に格安で分譲、また道路に変ったりする。その他、多く存在した駅舎は不法侵入で居座るものが殆どである。パウリスタ鉄道会社ではパウリスタ線グァラニー駅(グァタパラ駅の次)付近に燃料の薪確保のため約1.000haにユーカリが植林されていたが、1990年代に土地なし農民に不法侵入され、農地を開放された。そして鉄道が衰退し廃線になった今、幾つかの大きな駅は容姿をかえ資料館(サン・シモン)、軍隊支部駐屯施設(セルトンジニョ)に使用されている。


 旧モジアナ線リベロン・プレット駅は、現在のバス・ターミナルの場所に存在し、その付近の市営市場は下町の中心地であり大変賑わう。数件の日系ペンソン(木賃宿)やホテルが営業されていた。



ブラジル農業拓殖協同組合中央会の歩み

 (略称・農拓協)


 日本の建設省が主体と成って送り出す、産業開発青年隊移住事業の受け入れ団体の設立であるなら、日系コロニア全体の事業として協力するべきであり、大きな産業組合を中核に全伯の農業関係者に参加を求めた。


 この産業開発青年隊が、日本で誕生したのは1951年の年である。先ず山形県から発足し、宮崎、北海道、秋田、埼玉、長野、静岡、富山、島根、福岡、佐賀と大きく広がり、1953年には全国で22隊になった。


 各都道府県、農林省の農村建設青年隊につづいて建設省(現在の国土交通省)が、省の事業として正式に予算化し、直接関与するようになった。産業開発青年隊が日本各地で組織化されるようになった背景には、敗戦による国土と人心の荒廃、それに農家の二、三男対策という問題の深刻な事情があった。この建設省の産業開発青年隊、農林省の農村建設青年隊の隊員を海外移住の候補地として目に付けたのがブラジルであり、この事業を提げたのが長沢亮太建設省事務官である。


 サンパウロ、パラナ両州の日系組合関係者が、設立日の1957年10月27日までに399名が組合に加入、その内の198名が集まって農拓協設立総会が開催され「サンパウロ州農業拓殖協同組合中央会」と名称され、略称「農拓協」とされた。初代理事長安瀬盛次、*(最初の配耕就労先はグァタパラ耕地)*専務理事久万浩の各氏が就任する。ただし、ブラジル側の組合創立に奔走していた、下元健吉氏の急死を特記しなければならない。この組合に大平清実、相川政男両理事が引き受け、最初の事務所をサンパウロ市ピネイロス区コチア産業組合内に設置される。


 南米産業開発青年隊の受け入れ機関として発足するが、農拓協創立前に産業開発青年隊1次17名、2次10名がコチア青年枠で渡伯し、第1期開発青年隊16名から11期の1967年までに298名を取り扱っており、実際の産業開発青年隊員は325名である。


 和田周一郎氏に、青年隊基地になるイヴァイー川の畔(ドラウージーナ市)の原始林を提供して頂くが、和田氏からは構想そのものに反対された。それは和田氏自身が1930年代に日本研修生を受け入れて、大変苦労され苦い経験をしたことがあり、研修制度がどれほどのものかをよく理解していた。この産業開発青年隊の基地となる、パラナ訓練所の開所式が1958年4月に行われた。また、1959年10月に独立した新事務所をリベルダデ区リベルダデ大通り47番7階へ移転する。


 創立当初はともかく、以後たえず資金難にあえぐ農拓協、豪華な組合員メンバーであるが、名前だけ参加している組合員であり、組合加入出資金約130ドル相当だけで、あとは日本政府の助成金をもって活動、その他の経費に充てる内容であった。当然、農林省、外務省との3省の協調を前提とした事業であるにもかかわらず、建設省だけ、それも長沢事務官一人だけが積極的であった。収入源となるものはなく、それをコチア産業組合の資金梃入れでなんとか継続している関係上、1960年9月、コチアの大平清実氏が2代目理事長に就任する。日本政府の年度予算が計上されるが不足そのものであった。それから約1年後の1961年、パラナ訓練所用地を提供された和田周一郎氏が3代目理事長に就任され、細々ながら1961年度日本政府の助成金も入金される。


 苦しい資金での運営のため、1962年には農拓協再建案が纏り、建設技術センター案を打ち出すと共に、ブラジル政府へ申請していた農業移住者導入計画5千家族受入枠を三分の一の1,777家族に縮小、それが認可される。


 その後も資金不足は続き、1963年には青年隊パラナ訓練所を建設省に返上すべく通達をする。


 移住者の減少が著しく、1964年には伯国移民促進に関する要望書を作成し、賛同団体として7農協、都道府県人会の代表が署名し、全拓連、家の光協会、全中など日本側関係機関へ送付する。


 農拓協に移民促進協議会を1965年に設置、在日代理人として平川守全拓連副会長を指名する。


 移民促進を含み1967年8月には役員改選が行われ、豪華な理事メンバーは今までのコチア関係を払拭するほどの人々が選出される。この新役員の4代目理事長に平田ジョアン進(連邦下院議員)が就任し、専務理事・渡辺至剛(グァタパラ農牧株式会社専務理事)、書記理事・鈴木猶吉(海外移住事業団サンパウロ支部代表)、同・唐沢正徳(スール・ブラジル農協中央会拓殖部長)、理事・平間茂(コチア産業組合専務理事)、中尾熊喜(ブラジル都道府県人会連合会々長)、原田実(バンデイランテ産業組合専務理事)、細江静男(日本移民援護協会理事)、正監事・大谷参雄(コチア産業組合GP理事)、宮尾厚(力行会役員)、杉谷茂一(日本移民援護協会保健衛生部長)、補充監事・武藤一郎(南米銀行人事部長)、石井延兼(スール・ブラジル農協中央会企画部長)、上野米蔵(在伯福岡県人会々長)、事務局長・山中弘(全拓連)。だが、この年も資金面はスムーズに捻出できず、この1967年にウムアラーマの訓練所閉鎖。閉鎖の折、農拓協も解散するという意見が出たが平川守氏が存続を主張し、またコチア産業組合が維持に肩入れ、活動を継続することになった。


 1968年4月18日、政府法令�癸僑魁�269をもって組合法改正のため、加入組合員全員が一度脱退し、翌日19日以降に再加入するが、その組合員数は僅かであった。この年をもって大半が除籍したが、1980年代までに354名までの組合員数に回復する。


 1971年には、サンパウロ州立農業高等学校移住青年入学制度がスタート。当時、州農務局学務長だった溝口茂雄氏と平田理事長の尽力で実現し、この制度により、合計159名が農業高校へ入学できた。


 連邦議員再選の地方選挙運動中の、1974年11月平田理事長が交通事故で急死したため、近藤安雄全拓連ブラジル代表が後任を勤め5代目理事長となる。その後、1976年から野村丈吾連邦下院議員が6代目として就任する。1980年には、先の農業高校入学制度に尽力された溝口茂雄氏が7代目理事長に就任するが資金もなく、殆ど休業状態のまま継続する。


 長い間休業状態だった農拓協はJAMICとJEMISの解散期限が1982年までとされ、その業務の一部を代行することになる。そうした中で、1984年には井上ジェルヴァジオ・忠コチア産業組合中央会々長が8代目理事長として就任する。この新体制の1985年2月、名称を「サンパウロ農業拓殖協同組合中央会」から「ブラジル農業拓殖協同組合中央会」へ改め、事業対象領域をブラジル全土に拡大する。ここで特記するのは「農拓協プロジェクト」、JICAの委託事業である営農団地造成であった。スール・ブラジル農業協同組合中央会と共同で南バイア(ムクリー管内)に営農団地を造成する。さらに1987年に前回と同じ方式でテイシェイラ・フレイタへ第二営農団地造成を手掛ける。1998年まで井上理事長体制で継続するが、井上理事長の病気悪化により、溝口茂雄氏が9代目理事長として交替する。


 今まで続けられてきたJICAの定着援助助成金が、2002年には打ち切られ、農拓協の資金繰り等があやぶまれ急速に再建が必要となり定款を改正し、今までの理事長を改め、会長にする。この新体制に原林平氏が10代目会長として就任する。そしてJICAが手掛けていた日系農協活性化セミナー開催への協力、ブラジル全国に散在する日系農協及び日系農業者への相互連絡等を手掛ける。


 この日系農協活性化セミナーは11代目会長になった近藤四郎氏へも引き継がれ、その他日系農協の実態調査、農協婦人セミナーも継続し現在に至っている。2007年には関係機関の諸氏も参加して、農拓協創立五10周年記念式典を細やかに挙行する。現在も微力だが日系農協のまとめ役を続けている。



地元モジアナ地域の日系人在住者

(地域協力者への答礼記載)


1955年頃のモジアナ・奥モジアナ在住者氏名(敬称略)


■リベロン・プレット管内


山村敏治、長尾庄次郎、泉八郎、船山文一郎、宮坂佐久間、西宮忠夫、吉海謙、小西勇吉、竹内強、

池田由之進、井上長一、遠山寿吉、村松由松、佐藤利平、三島唯市、南沢利治、刑部武、川崎敬司、

浜田之男、菅原一雄、船山文三、佐藤信雄、三上次男、中田英樹、隈井輝治、野村博喜、松浦勝平、

中野忠太、内田富雄、磯部幹男、三河恵一、窪田岩吉、庄賀正記、辻基敬、浜村繁太郎、沖野一三、

村中光野、沖野克巳、田中久三郎、谷村敏雄、千寿一文、東正巳、川崎実、黒石光男、川崎四郎、

坪内力三  (1955年参照)


・山村 敏治・ハツコ(広島県出身 1929年渡伯)1962年頃市内でガソリンスタンド経営、トラクタ 

ー代理店営業。


・山村 整一・ワカノ(右同)敏治氏と同居、敏治氏の両親。


・山村 富夫・ヴィセンチーナ(右同)


・長尾 庄次郎(熊本県出身)カナーン耕地就労後、リベロン市内に移転しホテル業を始める。1952年に

発足したリベロン日本人会初代会長。


・船山 文一郎・スエノ(広島県出身 1929年渡伯)配耕先はボンフィン・パウリスタ付近の耕地、1967年頃食料雑貨店営業。リベロン日本人会2代目会長。


・船山 文三・久美子(広島県出身 1929年渡伯)1967年頃市内で食料雑貨店営業。


・船山 潔・美那子(広島県出身 1934年渡伯)文一郎氏と同居、食料雑貨店営業。


・宮坂 佐久間・菊枝(福井県出身 1934年渡伯)最初の配耕先はサン・マルチーニョ耕地。1945年リベロン市に移転、写真館開業。リベロン日本人会三代目会長。佐久間氏時代からグァタパラ移住地には尽力を尽くされ、子息和夫氏はグァタパラ住者が入植すると、慣れないブラジルで種々問題のたびに対応され、その尽力に感謝。グァタパラ移住地50年史の裏表紙の内側、前列左から4番目の方が宮坂佐久間氏である。


・西宮 忠夫(広島県出身 1927年渡伯)最初の配耕先はフランカ駅カショエイラ耕地で就労、後グァタパラ耕地でコーヒー栽培4ヶ年契約の請負。更に移転し、リベロン市内で16年間バール経営、1967年聖市在。


・吉海 謙・すみえ(熊本県出身 1929年渡伯)義兄松田氏の構成家族、最初の配耕先はジャタイー耕地。1936年にリベロン市に移転、種々営業を経て雑貨店。リベロン日本人会5代目会長。


・小西 勇吉・やす子(三重県出身 1919年渡伯)1932年頃洗濯業。1962年グァタパラ倉庫小西職員の両親。


・井上 長一・とめ(静岡県出身 1928年渡伯)1932年頃リベロン郊外で菜園に従事。


・三島 唯市・よしお(広島県出身 1928年渡伯)箒製造。


・三島 唱三・アンナ・マリア(広島県出身 1928年渡伯)唯市氏長男。市内で弁護士開業。編集者中学時代のルアナ同級生の両親。


・刑部 武・栄子(静岡県出身 1934年渡伯)1937年リベロン市に移転、日語学校を開き以後18年間継続する。1962年グァタパラ倉庫運転手刑部安憲ルイス氏の両親。またルイス氏夫人正子さんの父親、阿久津与四郎(栃木県出身)氏は1962年頃リンコン郡タクワラルで借地営農。




俳句 グァタパラ俳句会


コロナ禍に貧窮する虎落笛もがりぶえ 近藤佐代子


村外れ隣は遠し寒燈り        近藤佐代子


草の実を体にまとい戻る猫      菅原 治美


寒燈や句作日頭悩ませリ       菅原 治美


人絶えし街の暗さやもがり笛     富岡 絹子


消さでおく寒燈一つ猫の為      富岡 絹子


この時期のお店は柿の品評会     林 みどり


乾季きて昼夜聞える稼動音      林 みどり


青空を熟す柿食う鳥の飛ぶ      脇山クララ


庭先の日干し大根味の増し      脇山クララ


木守柿入日の色を集め照る      脇山千寿子


人影も失せて寒燈繁華街       脇山千寿子


目ざめれば夜のしじまに虎落笛    高木美代子


打つ鍬の音も乾きてひでり畑     高木美代子


草の実の八十路間近かの野良着かな  田中 独行


寒燈や木々くぐり来し窓明り     田中 独行


〔次回兼題〕南風、枯蔓、しゃぼん玉、当期雑詠



【編集後記】


 今年は降霜できっちり落葉したので、黄イッペイが見事に開花し満開時は実に見ごたえが久し振りにあった。樹丈が高くなると、比較的まばらに開花してしまうのだが、今年は見事であった。


 降霜後、周囲一面枯れ草だらけで毎日火災が発生している。友人の転送動画では、野火の類焼で鶏舎が火災に合い、多くの鶏が被害にあっている。当地区内でも乾燥しきっているので、火気には充分注意しましょう。


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