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グァタパラ新聞2021年8月

  • 2021年8月29日
  • 読了時間: 14分

更新日:2022年9月12日

東京オリンピックが開催され、日本は27個の金メダル、58個の総メダル数という史上最多のメダルを獲得し、めでたいことではあったのですが、大会開催期間中感染者数はうなぎ上りで、18日から連日感染者数が2万人越えを記録しました、、。


そんな中、十三の映画館で「オキナワサントス」という映画が封切られました。第二次世界大戦中サントスで暮らす日本人移民が24時間以内に強制退去させられた事実に迫ったドキュメンタリーで、その多くが沖縄出身だったことからこのタイトルになったそうです。今まで語られることのなかった日系移民強制退去事件とはどんな内容だったのか、その真実を知りたくて、コロナ禍の電車に乗って映画館まで足を運びました。すると、冒頭から意外な展開が待ち受けていたのです。映画の本筋ではないので監督には申し訳ないのですが、以前にお世話になった方々がスクリーンに登場したのです。はじめに登場したのが森口忠義イナシオさん。森口さんには、病院や老人ホームを運営するサンパウロ日伯援護協会の会長をされていた2008年にインタビューさせてもらいました。ご苦労されたにも関わらず柔らかな物腰で、話を聞いているこちらが癒されるような魅力的な方だな、またお会いできたらいいなと思っていた矢先、2017年に他界されたことをニュースで知りました。スクリーンを通して森口さんに再会できたことに思わず胸が熱くなりました。そして、二人目がニッケイ新聞編集長の深沢正雪さん。2017年にブラジルを訪れた折、ブラジル日本移民史料館でお話ししたカフエー・パウリスタ物語について2日に亘り記事を書いてくださった方です。(ちなみに深沢さんの著書の中では体験談を書かれた「パラレル・ワールド」が私のお気に入りです。)他にも知った方が出てくるのではないかと食いついて見ていたら、あっという間にエンデイングになっていました。


さて、恒例のグァタパラ新聞8月号のご紹介です。1週間前に林さんから写真が届いたきり本文が届かないので、どうしたものかと困っていたら、本日ようやく本文が送られてきました。「写真を送信後、降霜害で周辺の草が枯れ道路横の枯草に野火で類焼し電話線まで火災していまいました。その為、やっと電話線が修理できインターネットも回復し送信出切る様になりました。今回はまだ早い修理でしたが、酷い時には3週間程かかる時がありました。」と林さんからのコメントがありました。アマゾンでは森林火災が多発していますよね。空気が乾燥しているからでしょうか。怖いですね。

満開のブラジル国花黄色イッペー



続・変り行くモジアナ地方の日系農業


(加筆印始*終*)

・松隈万太郎(福岡県出身 1914年渡白、杉本一郎(大阪市出身 1938年渡伯)両氏等は、多角経営者で米、綿、トウモロコシ、大豆、マンジョカ、牧牛等を手広く経営する。また松隈氏は、奥モジアナ地方で最も早く米作を手掛ける。このグァイラ地方、昔は1,000家族以上も日本人、日系人がいた所であり、現在すでに3世、4世時代で、その家族数も以前の半分程度の500家族前後である。


・鹿毛博文(福岡県出身 1936年渡伯)この人、何といっても偉大な功績は緑肥(ムクナ)栽培で農地改良。この利用で土中の線虫対策と肥料効果には、現在でもこれに代わるものがないほどである。また、作物に多大な被害をもたらし、線虫が好む雑草とはペーガ・フォーゴ、コルダ・デ・ビオロン、ピコン・プレット等が線虫繁殖への好適植物である。


 農業機械化の進行による、土壌流出問題が起り、それに伴う地力低下に対して、モーロ・アグードの岡野健 氏(茨城県出身 1933年渡伯)は等高線栽培を手掛け、またその設置の必要性をとなえ、その他科学的(薬剤散布)栽培においても先駆ける。農事改良に関する指導を多くの地方へまで出向き、その指導回数は400回以上にもなり、聖州農事研究会設立者の先駆けでもある。


 ジャルジノポリスで製糖工場を手掛けた金水義男、稲田安喜両氏(熊本県出身 1912年渡伯)は最初グァタパラ耕地で就労後、ジャルジノポリスでもコーヒー園で働くが、1930年代のコーヒー不況でその農地が売り出され、この農地を求め砂糖キビ栽培を始め、1960年代に製糖工場も手掛ける。ジャルジノポリス郡では第一人者であり、戦後移住のグァタパラ移住者がコーヒー栽培を始めた折、リベロン市農務局農業技術指導員、稲田農業技師の厳父でもあり、*この農業技師、刑部武氏の日語学校の生徒であった。*


 1988年日本移民80周年の、モジアナ地方の日系人分布推定2,000家族、8,190人。リベロン・プレット郡1,000家族・4,200人、グァイラ郡500家族・2,000人。


 このモジアナ、奥モジアナ地域の日系人が集まって、1960年代初期にイツベラーバ、グァイラ、リベロン・プレット、グァタパラ各チームが参加して、モジアナ野球大会が開催され、一同が随一に交流する場所であった。



リベロン・プレット少史

 この地方、元々タプアイ族系のカヤボ族やシャバンテ族などが、野獣などと共に棲息していた所で、気候は温暖で地味は肥沃。フィゲーラやパウ・デ・アーリョ、ペローバ等の巨木を中心の大森林地帯であった。未踏地に、外部から流入し始めたのが17世紀あたりからと言われるが、それ以前という説まであるため判然としない。最初の移住者はミネイロ(ミナス人)が多かった。主に、アルファナ、カンパニア(トレース・コラソンエス付近)、さらにアイルオカ(カシャブー東方)方面のミネイロで、その後金鉱で失敗した工夫連中が必然的に求めたのは元の農業で、この地方の地味豊富を人伝てに聞き州境を越えて南下移転し、奥モジアナと言われるフランカ、グァラ、モジアナのカーザ・ブランカ等に定住したものである。


 18〜19世紀初頭に亘り同地方には既に、ファゼンダ、シーチオ(小農園)などがかなりの数が構成されていた。広い範囲が拓けたのではなく、原始林の間に点在していたもので、部落や集落などは無かった。横のつながりは毎週末のカトリック教会におけるミサによる集いであったが、その頃の教会らしき教会所在地はサン・シモンの町であった。


 入植者達が語らいて、教会と学校敷地を中心に集落建設を始めた。除々に集落が形成され、1856年頃リベロン・プレットは町へと発展していった。19世紀半ばには一大コーヒー生産地帯へと進展していったのである。こうして、モジアナ地方はコーヒーの都としても名を広める。


 同地方に、最初のコーヒーが栽培されたのが1840年と言われ、やはりミナス州から導入されている。1876年頃からリベロン・プレット地域にルイス・ペレイラ・バレットによりボルボン種のコーヒーが栽培され、画期的な発展をもたらし、コーヒー栽培が著しく普及する。ただし、100年前頃の1770年ではリオ市内の一部で見掛けることが出来たが、それは鑑賞植物に過ぎなかった。最初に触れたように第一次コーヒー時代の到来であり、1929年の世界大恐慌までが第二次コーヒー時代であった。その数年後、モジアナ地帯の大コーヒー農場は経済難に至り、分割され売却される。これが1840年から始まった、モジアナのコーヒー最盛期とされている。


 1875年当時、まだドン・ペードロ二世の帝政時代にモジアナ鉄道が敷設される。モジアナ鉄道の始発駅はパウリスタ線カンピーナス駅からの分岐点が始まりであり、初期日本移民が多く就労したころは、ミナス州ウベラーバ駅までであった。このモジアナ線、支線が多く発達し、1922年頃の最盛期には支線を含め2千キロの延長に達する。ただし初期の頃、馬力で馬車を牽引した駅馬車の所もあった。パウリスタ線の広軌に対しモジアナ線は狭軌であった。モジアナ地方の中心地のリベロン・プレット周辺に、笠戸丸移民が配耕された1908年は、市の人口は2万人であり、それから25年後の1933年で八万人の人口。そのころサンパウロ州内第四の都市であり、市内またその付近の日系人は、1917年に開設された在サンパウロ日本国領事館分館の職員家族、海興支店職員家族、その他商売、蔬菜に携わる人々の家族等合わせて28家族106名であった。*領事館分館、海興支店は市の中央プラッサキンゼに面した所に位置していた。*


 1950年代には、近隣地方から出て来た農業者が、市内でフェイランテ(街路で開かれる露天業者)の多くは野菜を扱う職業で日系人が大半を占める。メルカード(市営市場)で店を開ける人達も多く見掛ける。こうして日系人が急速にリベロン市内に増加された。


 子供達の高等教育問題、生活の便利さなどと学園都市であるリベロン市へ住居を移し、農場へ通うように変り始めたのが、やはり1950年後半から1960年代になってからである。主にヅモン郡に農場を所有する山下雪雄氏(福岡県出身、最初は1918年渡伯、帰国後1930年再渡航)、クラビーニョス付近に農場を所有する後平蔵助氏(鹿児島県出身、1917年渡伯)、多角経営者の丸野弘氏(鹿児島県出身、1927年渡伯)、他州に農地を求めて子息が躍進する浜村繁太郎氏(東京都出身、1930年渡伯)である。


 蔬菜栽培技術の特性を生かしていた日系農家であったが、栽培技術の進歩で、ポット入り野菜苗が幾らでも入手出来るようになると、町の郊外に生活するブラジル人までが生産するようになると生産過剰となり、それでなくとも利益幅が減少していた小農、その上超インフレや凍結政策で益々蔬菜栽培者達が激減する。


 1975年になって、連邦政府はアルコール増産計画を打ち出し、ガソリンの消費量を少しでも減らす代替燃料で、幾らかでも消費量を補える燃料を砂糖キビから生産されるアルコールを充てる。この増産計画により各製糖工場では、アルコール蒸留施設を拡張する。そしてこれらの砂糖、アルコール生産販売管理をIAA(砂糖アルコール院)が調整をおこなってきた。1970年代頃、モジアナ地方はすでに砂糖キビ栽培が多かった。アルコール生産が奨励されると、製糖工場である企業は砂糖キビ栽培に拍車を掛け、少ない農地で己が農産物を生産していた時の利益より多くなり、益々他の栽培作物離れが起り、周辺一帯は砂糖キビ単一栽培化していった。


 そんな折の80年代から活気づいていた、日本出稼ぎに多くの日系人が就労し、地域が空洞化するほどに至った。また、小面積所有者には製糖工場の提示する好条件の転売、分益などの方向に進んでいった。そして住居、樹木など耕作地内にあるもの全て取り払い、以前の生活場所を探しても見つけられぬほどに変貌してしまう、長い間生活した人に、随一の足跡はお墓が僅かに記しを残す手掛かりである。かっては遥か地平線に波状形を描いて続く文字どう通りのコーヒーの海原であったものが、そのコーヒー樹木はほんの僅かに見掛けるほどで、近年どこまでも続く砂糖キビの緑の海原である。たが、その反面モジアナ地方は、煩雑な労働問題まで生産者に絡まって来ていた。何しろこの地方北伯からの季節労働者も多く、砂糖キビ農場主と砂糖キビ採収人夫との間で葛藤がしばしば起きた所で、労働組合の圧力が強いため、生産者の苦労は絶えない。



ヅモン耕地名の由来

 モジアナ地方日系農業からいうと逸脱するが、この耕地世界的に飛行機発明で高名なアルベルト・サントス・ヅモン(ミナス州パルミラ郡において1872年7月20日誕生)。父親のエンリッケ・ヅモンはフランス系の人で、ミナス州ジアマンチーナ生まれの鉄道技師(機械技師)が、当時ヅモンがリベロン・プレット郡内のアリンデウーバ耕地を1879年に購入し、自分の苗字を取って付けヅモン耕地と命名する。サントス・ヅモン氏の少年時代から青年期である10余年間をこの農場で過す。


 父親エンリッケ氏が、試作品のコーヒー乾燥機を試運転中に大怪我をし、その後経営に携うことが不可能となったため、やむなく農場を売却することになった。この代金の一部をサントス・ヅモン氏は資産として与えられ、後顧の憂いなくフランスのパリで飛行機研究に没頭できた。


 エンリッケ・ヅモン氏から、1891年にブラジル改良会社(Companhia melhoramento do Brasil)、それから三年後の1894年に英国系資本グループ(Dumont coffee Campany)に売却したため、社名ヅモン・コーヒー・カンパニーに変更される。そして1908年6月に笠戸丸第一回日本移民52家族210名が配耕された所でもある。1965年ヅモン郡に昇格される。



マルベニ/コロラード輸出入株式会社

 奥モジアナ地方に、日本企業が進出していることは多く知られていない。前述したフランカ郡であるが、ここフランカもかってはモジアナのコーヒーが盛んに生産された所である。そのコーヒー輸送を目的として栄えた、モジアナ鉄道分岐線の最終駅が町の高台にあり、海抜996〜1040メートルの高原地帯である。この駅付近に、丸紅傍系のマルベニ/コロラード輸出入株式会社の支店(本社はサントス市)が1962年に設立される。高品質のコーヒー(生実)のみを調達するため、IBC公認鑑定士を役員に含めて、品質改善をはかったのが効果的で、輸出は軌道に乗った。このコロラード会社の創立当時の役員は、次の人々で:取締役社長・和田周一郎、副社長・宮本邦広、専務取締役・笹谷真一等の方々。社長の和田周一郎(奈良県出身、1923年渡伯)氏は実業家である。


 1955年、長沢亮太建設省技官が国土総合開発の一環として、産業開発青年隊訓練所の候補地を探しており、サンパウロで日伯毎日新聞の中林敏彦社長(茨城県出身、1933年渡伯)と懇意になり、長沢氏を和田氏に引き合わせ、開発青年隊訓練所として和田氏のウマラマの原始林の一部を提供してくれるように頼んだ。諸々経過後、戦後産業開発青年隊を受け入れるパラナ訓練所の土地を提供される。さらに諸事情で三代目農拓協理事長、その他種々役職を歴任される。多くの進出企業と関係したが、経営の第一線に立つことは殆ど無く、自身で陣頭指揮されたのがコロラード輸出入会社だけくらいであり、それも短い期間で第一線を引いており、1967年には社長を辞任し、次代の社長宮本邦広(大分県出身、1934年渡伯)氏は1972年に丸紅と合併する。長男の和田一男氏が専務に就任し、1967年当時フランカに常勤する。宮本社長交代の前年1979年に、この地方大霜害で振り出しに戻り、*(この時、グァタパラ移住地でもコーヒー樹霜害で全滅し後、 蘖(ひこばえ)させた)*、そこでブラジル丸紅の資金応援を得て再建。資本金69,7%まで丸紅出資である。フランカ市内にあるのは管理事務所であり、農場はパトロシニオ・パウリスタ方面に向け、さらにその町を通過しフランカから48キロ地点に農地面積1,838haを所有し、主要生産物はコーヒーで、牧場その他雑作を栽培される。この農場を購入した宮本邦広氏は、パラナ州に広大なコーヒー園を経営するが、パラナ地方はたびたび霜害を受ける。そこでコーヒー栽培適地を色々物色した末、昔のコーヒー地帯に行き着いた。フランカ地方、海抜が高いため降霜は少ないが、時々霜害を受ける。目覚しい好転するこのマルベニ/コロラード会社の陣容を見ると(1988年頃)社長・谷口昭夫、専務・田中富佐治(熊本県出身、1955年渡伯)、取締役・和田一男、農場長・狭間暦(兵庫県出身、1966年渡伯)であり、現場に携う専務理事と農場長は戦後渡伯者である。前述の農拓協については私(編集者・林良雄さん)も多く関係していたので、別項でふれたい。



筆やすみの挿話

 1994年に、コチア産組の自主解散に伴い、グァタパラ組合を創立し無我夢中で業務に携わり行い、落ち着き一息ついた頃、初代の安藤則夫支配人か、二代目の知久荘之助支配人時だったか、定かでない。ただ、支配人不在時であった。


 先のマルベニ/コロラード社から、トラック3台分の飼料原料を購入した。しかし、三台目の支払い代金が未納との電話連絡が入った。社名記載の決済され戻った小切手裏を見ると、ペドログゥリョ扱いでサインもしてあった。支配人不在なので、飼料担当と翌日出掛けることにする。ことが複雑化する恐れもあるので、警察署長に就任し奥モジアナ地域に任務していた、藤山昭(友人で小、中、高校まで同窓なので敬称略)に電話で打診すると、リベロン市の自宅に帰って居り、詐欺罪とも言われた。話が問題化すれば電話を入れることにする。


 翌日早朝、飼料担当と連れ立ってフランカの町へ出掛け、ここへは高校入試に訪れた折以来で25年振りである。市の高台に事務所があり、昼食前後で30分程待ち、応対者と名刺を取り交わすと専務の田中富佐治氏であった。トウモロコシを運送請負業者に渡し、その業者はペドログゥリョ出身で、フランカより45キロミナス州寄りであった。田中氏は当社で雇った業者なので責任を感じ、住所と何時でも間に入ることを約束した。


 ペドログゥリョの町はさほど大きくなく、知らされた住所へ程なく辿り着く。自宅付近のバールに居たので、有無も言わせず銀行へ同行させた。


 銀行は数名の行員で、責任者に携帯した先の小切手のサインと引き出し許可したのも本人であった。話し合いの末、小切手トウモロコシ代金相当を商業融資で業者に即刻貸付を求めると、まだ難色を示すので、電話を貸し求めると「どこに通話するのか」と言うので「日本人の警察署長を通して、この町の警察署長か書記官に立ち会ってもらうのだ」と言うと、日本人警察署長の事は知って居り、程なく小切手を作った。それ以後、組合では職員一同、私を敬称呼びに改まる。 以上。



【編集後記】


 東京五輪が、1日1,300人以上余りのコロナウイルス感染拡大で、緊急事態宣言発信中の7月23日午後8時から、無観客で少し控え目に感じる開会式が行われた。205の参加国と難民選手団、開催したからには、何とか工夫して為し遂げてほしい。


 軽い降霜はここ数年毎度あったが、6月30日、さらに強力な霜が7月20日の降霜害の度合いは数十年振りで、亜熱帯の樹木は殆ど凍霜害を受け、バナナは元よりアバカテ、アッセローラ、レモン、スターフルーツ、ドリアン、ゴイアバ、コーヒー樹、マモン、孟宗竹の葉までやられ、茘枝れいしもやられた。そして、鶏舎内に配管された水道管内の水も凍結して、ニップルが動かなくなったし、早朝走行し始めた自動車のウインドガラスも氷結してしまった。。


 ジェアーダ・ネグラ、大気が乾燥した中で、これは樹体温度の低下が大ければ大きいほど、霜害も酷いものである。この樹体内の組織が凍結し枯死する霜害をこの様に呼ばれている。地物の面に氷の結晶が出来るのは、空気中に湿度があるときだけで、この手の霜をジェアーダ・ブランカと呼ばれる。

 
 
 

コメント


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ズモン耕地 03
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廃コーヒー倉庫 07
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延べ10キロの水路
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グァタパラ耕地内のコーヒー園に並ぶ日本移民(1920年頃)
アルベルチーナ駅
1889年ころのグァタパラ耕地
グァタパラ耕地コーヒーの樹海
生産物馬齢薯をラバの背につけて市場迄
ヅモン路線列車
リベイロン・プレットモジアナ駅前・
モンテイロ駅
grupo escolar 1996
puericultura, lactario, farmacia 1992
拓魂
別れのテープ
サンパウロ市ルース駅
ドラムカン風呂で入浴

Brasil サンパウロ州グァタパラは第一回笠戸丸移民が配耕されたことから日本移民発祥の地と言われています。グァタパラ耕地を中心にブラジル日系移民にまつわる話を紹介しています。

 

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