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グァタパラ新聞2021年6月

  • 2021年6月15日
  • 読了時間: 14分

更新日:2022年9月12日

毎月恒例の林良雄さんからのメールが届きました。

林さんの住む地域では高圧線の改善工事のため再三停電が発生しているそうです。そんな環境の中、新聞記事を欠かさない林さんには敬服しかありません。コロナ禍で海外に行くことが普通でなくなっている現在、こうしてブラジルとつながっていられることを幸せに感じます。


私の方は、介護の仕事に従事していることから9日に第1回目のワクチンを接種を終え、30日に2回目接種の予定です。まだまだ気の抜けない状況ではありますが、7月からは今までより行動範囲を広げられそうです。


さて、今月は林さんが日本移民百周年地方編纂委員で収集した資料の中から未公開の記事に最近筆を加えられた内容です。2017年に訪れた地名がたくさん出てくるので、私自身5年前の記憶を呼び起こすと同時に記憶を整理しながら更新作業をさせていただきました。

冬を知らせるヨハネカズラ



汽笛空しいパウリスタ線


 レールが錆びない程度に貨物運行がされ、往年のサンパウロ州主力鉄道パウリスタ本線。

*現在、先はプラドポリスのサンマルチーニョ製糖工場止り*


 パウリスタ線とアララクワラ線が入り乱れる位置が、アララクワラ駅から発車する最初 の駅であるマットン、その次のタクワリチンガであり、以上北上へ進むとはっきり出来る。アララクワラから北東に北上するのがパウリスタ本線で、初期日本移民が多勢就労したグァタパラ駅方角になるが、その一駅前にリンコン駅があり、*ここからパウリスタ支線リンコン〜ジャボチカバール路線が1892年に開通運行され、延べ41km*東京植民地傘下といわれた植民地、耕地が6ヶ所の駅を通過して、コレゴ・リッコのアニューマス海興連農場(1919年三月既成コーヒー耕作地購入)を経てジャボチカバール、更にモンテ・アルトへ進むパウリスタ支線。この辺がやはりアララクワラ線扱いに入ることが多い。


 グァタパラ駅から更にパウリスタ本線は北上するが、このグァタパラ駅も、1910年から発車するモンテイロ・モジアナ支線*(メンドンサ、ドミンゴ・ヴィレラ、フランシスコ・マキシミアノ、ジョアン・フィルミノ、サンタ・テレザ、シウヴェイラ・ヴァオ、リベロン・プレット駅)*が開通し、グァアパラ駅、アルベルチーナ駅、モンテイロ駅までの路線が1914年に開通した。そして、1989年11月独立住民投票で圧倒的賛成で決まり、行政がグァタパラ郡に昇格移行するまでの長い間、リベロン・プレット郡に属しモジアナ線内に扱われた。


 パウリスタ線、グァタパラ駅から2駅先のプラドポリス(サン・マルチーニョ駅)は笠戸丸移民が配耕されたサン・マルチニョ耕地へ下り立つ駅である。更にその先のバリニャからピタンゲイラで、モジアナ線と交差する。その先のモーロ・アグードをパウリスタ線扱いにする書籍もある。この交差する時点からパウリスタ本線はやや西寄りに進みベベドウロ駅を経て、バレットスに到る。延長1,500キロの鉄路であるが、現在このパウリスタ沿線、特に砂糖キビ栽培の多い地域である。終点付近のベベドウロ、バレットス地帯、1990年代オレンジ栽培ではサンパウロ州内で最も盛んな地域であった。 1872年〜1876年の間にサントス〜ジュンジャイ鉄道がカンピーナスを経由しリオ・クラーロに達する。


 このパウリスタ本線でカンピーナスをスタートにしてふれたい。

最初に特記するべきが東山農場であるが、この農場に関しては別記する人があるはずなので名前だけにとどめる。その他については、多くの日系養蚕家の繭買い付けと蚕種を供給した、イタリア系の絹織工場株式会社が1923年に設立する。この会社、サンパウロ州政府の補助金をうけながら活動し始める。次のアメリカーナ駅、この周辺に1866年から北米南部移民が入植し、ブラジル全土でも定住した地域は数少なく、サンタ・バルバラ駅はビーラ・アメリカと呼ばれ、1904年以後にはアメリカーナと呼ばれるが、北米移民・アメリカーノが入植した地名としての名称がアメリカーナである。全伯各地に20〜30ヘクタールの西瓜栽培者は多いが、ここでは大々的に栽培された地域、常夏の国だけに需要が多く、生産されても飛ぶように売れた。サンパウロ州で栽培されていた最初の西瓜は、在来種でサンタ・バルバラとアメリカーナの地域であり、まくら西瓜であった。この地方で西瓜栽培を始めたのがアメリカ移民である。1934年ころ、日本より大和西瓜を取り入れて栽培し始め大いに普及させる。現在、この地域は紡績工場の中心地である。


 どの農作物でもそうだが、西瓜の生産地や生産者は次々に移動している。半世紀前の1950年代はバストスは大生産地だったし、バウルー方面もそうであった。今ではサンパウロ州内で、ボツホランガ、ツパン、マリリアなどが生産地として知られる。マリリアでは初夏のイベントとして、西瓜祭りを毎年10月に開催している。


 近年、カッペーラ・アウトとその隣接地帯の西瓜が名を馳せている。ソロカバーナ、イタペチニンガ、タツイーこれらの町々に囲まれた三角地帯である。この地帯から盛夏の12月〜2月までにかけて、楕円形や丸形のものが出荷され、サンパウロ市場に50%以上を供給している。この地域、西瓜には適地適作地帯に見受けるが、かっては日系のバタテイロたちが盛んにジャガイモ栽培をしていた地域である。


 カンピーナスの絹織工場にふれたので、その先のリオ・クラーロで通訳をしていた、佐藤藤次郎氏が耕地内の垣根に桑葉の茂っているのを見つけ、耕主に交渉して農商務省から蚕種を取り寄せ、妻の副業として3年間養蚕を行ったのが、日本移民としてこの人が最初に蚕飼いの嚆矢こうしと言われる。ただ、タンバウ駅のリオ・クラロ耕地の説もあるが、ニッケイ新聞では先のリオ・クラーロ説を記していた。


 また、1930年ころパイナップルを手広く栽培されたのが和歌山出身者で、当時20万本を植え付けた。パイナップルは砂土を好み、その上痩せ地でも充分栽培できる作物であるから、連作で荒廃した土地利用法としておおいに栽培された。パイナップル畑にゴモーゼ(やに病)が発生すると果実は早めに熟し、その芳香が漂う。このような果実の方が甘味が強くはねだし品であり、出荷はできない。これらの品々を、路傍で切り売りしていたのをよく見かけた。この切り実で味見し、良質のパイナップルを購入すると、酸味の強い品物を買うことがよくあった。


 このリオ・クラーロ付近の土質は白うす紫がかった物で、タイル工場が目白押しに林立する。大変良質のタイルが生産される。初期移民の住宅の屋根は殆ど草ぶきであったが、中には瓦ぶきもある。当時、パウリスタと言われる丸瓦であったが、1950〜60年にかけて赤味の濃いフランス型の瓦が普及すると、平瓦のリオ・クラーロ産が多く出回り、良質の瓦はリオ・クラーロと言われた。先のパウリスタ瓦、奴隷時代には瓦の型の一部を奴隷の脹脛ふくらはぎで型どったため、少しずつ大きさに違いがあり、同じ大きさは殆ど無かったと言われた。

 日本語学校。

 グァタパラ耕地内に日本語学校が開校され、最初に教鞭をとったのが畑中修子夫人(1912年4月、3,700トンの巌島丸第3回移民・兵庫県多紀郡出身)の1914年まで。夫、仙次郎氏が1914年帝国丸第10回渡伯移民32家族を率いて、モジアナ線オーランジア駅ペローバ耕地に通訳兼監督として移転するまで。その後を今村惟善(1913年第8回移民)氏が1919年8月、ミナス州コンキスタ耕地へ移転するまで開校していた。


 「東京植民地」、パウリスタ線中最も古く移民史上で、ノロエステ線の平野植民地と比肩されてもよいほどの古い東京植民地である。開植初年度、主食の米作を手掛ける為、川辺を開拓すると、15家族の入植者中、ほぼ全員がマラリア病に罹患し、8人の家長が死亡する。残った者たちの苦労の甲斐があって、入植5年目ごろから植民地の経営は安定し、新しい入植者も増えた。


 入植後、20人足らずの学童のために、ワラぶきではあるが学校が建てられ、翌年には木造の校舎が運動場と共に完成する。*世界第二次大戦勃発で閉校するが、その教科書第7巻まで頂き所有するが、最後の巻の語彙はレベルの高い内容である。*


 1930年頃の東京植民地周辺には3植民地、4耕地が農業に従事していた。1932〜33年の最盛期には日本語学校3校、年間出荷量コーヒー1万俵、綿150万キロ、フェイジョン一1,200俵、トウモロコシ200俵を生産されている。ただし、この沿線は砂質土壌であったため搾取略奪農法で、この最盛期を堺に一家族二家族と移転が始まり、1960年代に植民地が消えた。植民地消滅30年説というのがあり、苦労十年、好調十年、下火十年でひとつの植民地が終えるとする説である。これに東京植民地はピッタリ符合してしまう。色々の要因で消えてしまった多くの植民地であるが、その底辺には土地の地味の善し悪しの差で、同じ搾取略奪農法でもテーラ・ロッシャは数十年耕作しても、依然としてその地力を保つといわれる。


 「在伯邦人が養蚕をし、絹を生産することは、絹衣はパラシュートに利用され敵国北米に買われ、軍需物質として利敵産業につながるものであり、不忠の行為をしていることになる。日本移民は養蚕業を中止すべし」と、「如何に利益があっても非国民的営農に従事することは、絶対阻止しなければならない」と、奥地マリリア、ツッパン地方の繭生産各地に養蚕小屋の破壊、焼打事件が相次いだ。勝ち負けの紛争が起き物議を醸し出した東京植民地、日本敗戦に関する報道は、天皇を誹謗するデマニュースであり、祖国を裏切った亡国の徒に対する懲罰断罪と勝ち組テロによる騒擾(そうじょう)。しかし、この植民地の最後のころは養蚕飼育が行われており、グァタパラ移住地で養蚕が始まったころの1965年より、一年後の1966年で養蚕飼育が終了している。


 消えた植民地の中でも比較的名前の通った幾つかの植民地跡を視察すると、殆どが砂質土壌であった。その先は牛の放牧地帯に変わったが、現在は砂糖キビ畑に変わってしまっている。

消えた植民地の一つであり、先の東京植民地の離脱者が多く借地したルジタニア地方タンキ植民地。これだけでは殆ど理解できない地名である。パウリスタ線のジャボチカバールから北東に15〜20キロ離れたバリニャ付近までであり、交通機関は鉄道がジャボチカバールからルジタニア線が敷設されていた。土地はテーラ・ロッシャに近い。この植民地の開拓が1932年頃で、入植最盛期には数十家族(在耕者518人)で、1,449haを借地し、綿作が主であり、米作は自家消費程度であった。綿の優秀作で当時アルケール(2,42ha)350アローバス(5,250キロ)の収量を上げており、綿摘み競争まであったほどの綿作一色の営農であった。(注:現在の優秀作は450アローバス)。


 この植民地に延べ百家族の入植戸数があり、就学児童のため日本語学校も開校され、昼間は2名の先生が授業を受け持ち、3代まで教師が続き、その内の1人の先生はアニューマス農場出身の人であった。夜間の青年部には綿作に従事していた、現在もジャボチカバール市内に健在する田嶋 勉氏(熊本県出身、1934年渡伯)。*日本語学校開校に尽力されたのが、時松義雄氏、熊本県下益城郡出身、1931年7月渡伯。*この日本語学校、開戦のために中止されるし、また殆どが借地農であったため、地味はよくても消えてしまった植

民地である。パウリスタ線モジアナ地帯付近で、就学児童のために開校された二つの植民地であった。


*この地域バリンニャ郡に属され、その人々を列挙したい。(1955年頃)


岡野進、難波亀、尾賀祐光、水向綱、森園重雄、丸山伍市、広谷弥太郎、木村喜平、祖父江敬一、中川政男、豊島利久、坂本真剣、祖父江利光、三谷勝、白丸政見、沢村義成、松竹静香、藤田信吉、丸田吉男、尾崎万治、円治強司、吉村惣三郎、角佐八、角久一、三上武雄、原口嘉一、清時松太郎、田嶋勉、永田正生、赤星勇、赤星ユタカ、竹田芳麿、庄司才松、金田又彦、賀久勇、宮野郁、阿久津与四郎、水原節雄、平野友一、大方那数、大方末之、長崎民男、前村与吉、竹谷米三郎、祖父江重勝、伊藤喜久二、迂富男、赤星進、及川儀一、白丸市治、徳永唯雄、安武末蔵、重岡勝蔵、小堀政男。


・岡野 進ー前村吉之助夫人の厳父。

・森園 重雄ー森園マリオ医師の厳父。

・田嶋 勉ー資料収集協力者。渡伯は1934年、熊本県下益城郡出身。

・阿久津 与四郎ー刑部おさかべ安徳ルイス夫人まさ子さんの厳父。

・前村 与吉ー吉之助氏の厳父で、渡伯は1935年アフリカ丸、鹿児島県出身、グァタパラ耕地最後頃の就労

 者。また、1952年六月、奥マット・グロッソ州リオ・フェーロ移住地造成にリベロン・プレット周辺の

 人々と参加する。

・及川 儀一ー第2陣岡山県出身長谷川正明夫人の厳父。また、この及川氏もグァタパラ耕地就労者である。

 サンパウロ四百年祭芳名簿参照。*

 「日本人は三人よれば日本人会をつくる」と言われたほどに、このモジアナ地帯でも多く日本人会は出来たが、こと日本語学校となると大変少なく、リベロン・プレット以北ではカニンデー駅付近に開校されたが、ブラジル人の大農場内のことであり、数年で閉校される。またフランカでも日本語学校が1938年に開設する。その他モーロ・アグードにも1932年ころ嘉納安日本語学校(51名)、共成日本語学校(39名)も開校された。多くの米作地域はブラジル人の農場内であり、当然同化も早い。モジアナ地域一帯には700家族以上の人々が営農に従事するが、日本語の読解については殆ど普及されていない。略奪農法であるため、2〜3年耕作すると別の農地へ転々と移動する、定着性を欠く浮動生産者が多勢であった。これが大きな要素を示し、詠み書きが出来る日本語普及の子弟は少ない。リベロン・プレット市内でも1937年には私塾であるが開かれる。



歴史の浅いアララクワラ線・前編

 ブラジル日本移民渡伯初期頃はコーヒー生産過剰のため、サンパウロ州に於いて新規植え付け禁止令の規制があった。この法令が1911年に解除されると、コーヒー園造成が先を競って始まり、焼畑農法(焼畑墾耕)、コーヒー園作りなどの技術習得でもあり、これがコーヒー造園4ヶ年契約の嚆矢である。このアララクワラ沿線ビラ・アドルフォ(現在のカタンツーバ市)へ1910年当時、グァタパラ耕地総支配人ジュゼッピ・セルトリオ(イタリア人)氏が購入した原始林の開墾とコーヒー園造成請負を、グァタパラ耕地義務農年終了の日本移民40家族を、1912年にこの地帯に送られた。


 拓かれた農地を見慣れた移民者たちは、この鬱蒼うっそうとした原始林の伐採には方法と時期があった。この地において植民地的な生活を得た。またグァタパラ植民地と言われるほど、グァタパラ耕地就労満了者が殆どであった。このコーヒー栽培請負で蓄財も出来たので、苛酷労働のコロノ生活の型にはもうはまらなかった。そして、その世話役は第1回移民高知県出身の井上馬太郎氏を始とするほか、第2回移民で岡山県出身の隅田隆治氏、柿内直吉氏がこの地に定住する。また、手動式播種器(マトラッカ)を製造した鳥取県出身の中井喜一氏等が開拓での顔役である。*しかし、後年このセルトリオ耕地待遇が悪く、夜逃げで有名であった。*


 それと、この沿線の最初の日本人植民地と言われる福島植民地は、サン・ジョゼ・ド・リオ・プレット駅から東北九キロ地点であり、1916年に24家族からの開拓である。この植民地の第3代目会長を務めた渡辺久・カウ夫妻は実弟静夫氏を構成家族員として、1914年若狭丸で渡伯し、モジアナ線クラビーニョス耕地に就労する。この第9移民はグァタパラ耕地へも103家族が配耕され、その中には多くの福島県出身が含まれた。また、福島植民地の草分けの一人である服部助丸・チヨノ夫妻は福島県出身の第8回移民で、アララクワラ線サンタ・エスチーナ駅付近のココイ耕地で義務農年終了後、他の耕地を経て福島植民地に入植する。*(先の渡辺、服部両氏は斉藤長一夫人・君江さんの祖父母に当る。)*


 この植民地の面積は約440ヘクタールと小さかった。農作物は雑作が主であり、コーヒー樹も僅かであるが植付けられ、その発展が著しく各地方の同県人の視察来訪が多かった。この福島植民地の延長ともいうべきか、約20キロ奥のオンダ・ヴェルデ町周辺が借地地帯に発展し、全盛時代には約500家族で数千ヘクタールの集団地となり、綿が主作で栽培面積も多く、町には製綿工場も建設された。だが第二次世界大戦勃発で、この耕主が英国系であり、日系人に対し借地を中止したため、全面的に退散を余儀なくされた。そしてこの多くの人々は、パラナ州アサイ郡に入植しコーヒー栽培を手掛けるが、この地方忘れたころに霜害に見舞われ、コーヒー栽培をあきらめ、現在は穀物を手掛けている。日系農業協同組合インテグラーダの礎いしずえの人々である。*この移住地に、グァタパラ耕地就労7年の笠戸丸移民・新潟県出身の菅原定三郎氏が幾ヶ所を移転しながら入植した。*


赤ちゃん誕生

 去る4月26日A区在住の大野卓治・ルシアーナご夫妻に、長男嘉夢維かむいちゃんがご誕生されました。おめでとうございます。

【編集後記】


 近年、高圧線改善工事が行われている。再三停電を繰返すので、仕事にまで支障を来たすこの頃である。コンピューター作動時にこの瞬時の停電ほど腹ただしい限りである。編集後記を記載中にもそれが起り、暴言が出るほど忌々しい。ノーブレックを設置するが、これまた保証期限が過ぎるとトラブル続き、2〜3台交換したがその繰返し。C国製品を敬遠するが、ブラジル市場98%がC国の製品で氾濫し、販売店にC国製品で無い物は殆ど入手は困難とまで言われた。この停電、改善策はないのだろうか!

 
 
 

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ズモン耕地 03
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廃コーヒー倉庫 07
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延べ10キロの水路
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グァタパラ耕地内のコーヒー園に並ぶ日本移民(1920年頃)
アルベルチーナ駅
1889年ころのグァタパラ耕地
グァタパラ耕地コーヒーの樹海
生産物馬齢薯をラバの背につけて市場迄
ヅモン路線列車
リベイロン・プレットモジアナ駅前・
モンテイロ駅
grupo escolar 1996
puericultura, lactario, farmacia 1992
拓魂
別れのテープ
サンパウロ市ルース駅
ドラムカン風呂で入浴

Brasil サンパウロ州グァタパラは第一回笠戸丸移民が配耕されたことから日本移民発祥の地と言われています。グァタパラ耕地を中心にブラジル日系移民にまつわる話を紹介しています。

 

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