グァタパラ新聞2021年5月
- 2021年5月18日
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更新日:2022年9月12日
暑くなってきた日本とは逆に涼しい季節を迎えた林良雄さんからグァタパラ新聞5月号のお便りをいただきました。サンパウロ州ではコロナワクチン接種が59歳に下ってきたとのこと。林さんは2回目の接種を終えられたということで羨ましいです。
私の住む兵庫県ではようやく85歳以上の接種がはじまったところで、92歳の母は6月3日に予約を取りました。が、65歳以下へは6月以降に連絡が来るということです。待ち遠しいです。
今月は、グァタパラ新聞編集者でいらっしゃる林良雄さんの登場です。編集後記に書かれているようにコロナ禍では対面インタビューがままならないため、次号は未公開資料の中から奥モジアナ地域在住者を取り上げられるそうです。
弘田 千代太氏について
平野 運平氏については多くの移住者の方々が存じているが、弘田千代太氏については殆ど記載がないので、氏について記してみたい。
1910年旅順丸第2回移民で伯着は6月28日、高知県幡多郡三崎町出身、妻・光野、長男・秀馬、また文野 数馬、その妻・専、長男・茂重等はグァタパラ耕地に配耕され、文野 専は千代太氏の実姉である。
1915年8月、平野植民地(現在のノロエステ線カフェランジア郡)開拓の折、入植当年雨期の雨が降り続く年の暮れの12月29日、文野 専は植民地でのマラリア病死者第一犠牲者であった。
弘田氏は平野植民地内を流れるドラードス川沿いに70アルケーレスの農地を購入した。そして、グァタパラ耕地の監督も続けながら両方をこなし、植民地へ出掛ける折は、長男秀馬に仕事を委任していた。
入植一年目で犠牲者80数名がマラリア病罹患死亡者、マラリア病猖獗(しょうけつ)という、余りの惨状に甥の文野 茂重と残った家族の中で、移転を希望する人々を引き連れてグァタパラへ帰る。その後、文野 茂重は高知県人入植者の多いコチア植民地へ移転する。1933年頃にはハルエさんと結婚し家族7人になっている。
千代太氏は1920年に事業拡大のため日本へ帰郷し、同郷、親戚の人達を連れ立って、同地に戻る。当耕地に於いて米作、綿作、牧畜等色々の仕事を手掛ける。長男の秀馬はグァタパラ駅付近のイタリア人経営の砂礫採集地を買い受けブラジル人を使い、鉄道ワゴン車で砂、小石をアララクワラ方面へ建設用に売っていたが、この秀馬は肺を患い、治療、療養するが1927年5月に亡くなる。
1932年、妻の弘田 光野さんが日本へ帰郷し、その折故郷で姪・愛味よしみさん当時15歳、甥・上田 東一さんを息子秀馬の7年忌に間に合うよう連れだって帰伯した。
長い間、グァタパラ耕地に於いて監督、通訳に携わり、晩年は甥の上田 東一氏に譲り、1946年9月リンコン市にて永眠する。煉瓦製造工場(モジグァス川旧鉄橋前の工場、今でも弘田レンガ工場と言われている)を上田氏が経営するが、新法令で特に労働法が著しく改革されると、過去にまで遡って訂正され使用している労働者の年金まで精算させられレンガ工場を売却しても、その精算代金には足らず、銀行より借入れして整理した後リンコン市へ移転した。
愛味さんの夫、宮村氏がリンコン市で歯科医をしており、光野さんはそこに身を寄せていた。そして光野さんも1965年3月、リンコン市に於いて80歳で亡くなられた。リンコン市内墓地の中央参道の中ごろ左側に、墓標を見ることが出来る。
グァタパラを離れたのは、戦後移民(1962年)が入植することが決ったので、醜態をさらすことを避ける為、上田 東一氏はサンパウロ市へ移転した。
グァタパラ市街地のUETA THOITI通りは、弘田氏の甥の名前・上田 東一が付けてある。砂礫採集事業の方は、上田 東一氏の子息実氏が経営していたが、上田氏がサンパウロ市へ移転する頃、やはり整理してリベロン市へ移転した。
千代太氏は、1933年6月18日の渡伯日本移民25周年記念祭では、移植民社会事業の功労者、耕地通訳として表彰される。
最後に、愛味さんにグァタパラ耕地内墓地で、日本人先歿者への霊魂合祀を伺うと、その様な話は聞いていないと言われた。
(清水 操子さんの宮村愛味さんへの記憶を追っての協力インタビューより サンパウロ400年祭参照 )
田島 栄治・群馬県安中市出身、1938年3月16日サントス港着、リオ・デ・ジャネイロ丸で渡伯。
最初はグァナバラ耕地で契約雇用農として義務の1年3ヶ月就労後、クラヴィーニョス郡の大和農場(グァタパラ耕地で米作農の最初の家族、長野県出身)で1年間米作に就労。その後フェゲイラ耕地で2年、マタラーゾ・グループ所有のサント・アントニオ耕地(石川達三の就労先・「蒼茫」の登場耕地)で2年就労した。
妻・あい子(旧姓鈴木)は山形県東村山郡楯山出身、1937年12月22日サントス港着、サントス丸で渡伯、父親は俊英。
ジャンダイア耕地に配耕され、その後ダス・セラース耕地で借地農といて綿、米作栽培。22歳のとき、クラヴィーニョス郡のポルトガル耕地で田島栄治と結婚。更に、ズモン郡の山下雪雄農場(編集者・中学時代の同級生の父親)で3年間借地農。あい子の父親は家族に先行して単身渡伯しており、5年後にあい子を含む家族を呼び寄せた。家族中にトラホームを患った者がおり、一緒に乗船出来なかった。
1962年からグァタパラで雑貨商店営業を開店、その傍ら長谷川浤造氏移転の後地の一角を借り蔬菜作りをし、蔬菜やパン等を馬車で移住地に届けた。そして20数年後にリベロン市に移転する。
2001年から、娘民子・ワルジール夫妻が居住するグァタパラ市街地区に再び戻って生活していた。
多くのグァタパラ移住者の存じる人。
移住者子弟入植者
◼️ 7 高橋 正弘 茨城県東茨城郡内原村 1964年渡伯 1942年生れ
21歳の時、父高橋昇氏が第23陣入植者として入植の際同行して渡伯。1972年に独立して18haの用地を得て現地入植。桑園11haを造成して養蚕経営を始める。山形出身の茂木庄三郎氏長女・常子さんと結婚一男、一女がある。住宅、蚕室も建築ずみで、同県で近くに住んでいる有賀康久氏と共同で大型トラクターを導入。
◼️ 8 中塚 澄男 長野県下高井郡中野 1962年渡伯 1945年生れ
第七陣入植者、中塚甚吾氏の六男として渡伯。兄達と早くから他地方に出て蔬菜の分益農をやったが、間もなく帰って兄2人と共に各々独立して1970年現地入植。一貫して蔬菜経営を続けている。リベロン市在住の永谷氏息女淳子さんと結婚。長野出身の井出氏が転耕したあとを買受け、氏の作っていたレモン1,100本を引受け季節外れの出荷で利益を上げた。
◼️ 9 鈴木 建男 茨城県土浦市真鍋台 1962年渡伯 1947年生れ
茨城出身の鈴木重延氏の四男。父親の生まれ先の久慈郡黒沢村で誕生。
実家の手伝いをしていたが、1974年現地入植。地区の東端旧グァタパラ耕地との堺に用地を取得。山形・井上徳太郎氏次女・祐子さんと結婚。開墾ずみ耕地にパイナップル3万本、レモン500本、ポンカン400本、オレンジ300本を定植。住宅も農機具も一応揃い、生活態勢も整ってこれからという時点である。始めから永年作に取り組んで来たことは実家の援助によるものであろう。
後年、長い間日本へ就労していたが、現在スザノ市に在住している。
◼️ 10 田中 金三 長野県木曽郡山口村 1962年渡伯 1948年生れ
第1陣入植者田中佳氏の三男、全拓連農場の養蚕部に勤務し、勉強後に現地入植したが、遅かったので用地は12haしか取得出来ず、桑園3ha、蚕室を所有し、実家に近いので住宅はまだ建てず実家に起居している。
1974年から養蚕を始め漸次収繭を増加しつつある。
長兄がブラジリア移転の際、氏もブラジリアに移転した。
◼️ 11 脇山 謙助 佐賀県唐津市 1962年渡伯 1948年生れ
9陣の脇山敏夫氏の次男で、渡伯当時は中学2年生の14歳。
カンピーナス東山農場の池田寅之助氏のもとで蔬菜栽培の指導を1年未満だがうけた。その後、親許でトマト等を手掛けた。
独立を求め島根出身久保千里氏に請われ、4年間勤める中、養子として久保氏長女千寿子さんと1972年に結婚。久保氏は改姓を望んだが、ブラジルには養子制度がなく改姓は認められないので、将来生れた子供に久保姓を名乗らせを約束した。
また、千寿子さんも渡伯当時14歳で、リベロン市の学校を卒業後、見聞を広める為サンパウロ市在平田進氏の所に勤めた。
1976年5月に独立現地入植。養鶏専業であるがミナス州の視察先で、朝の起床時にすでにピポ・セントラールが広々とした耕作地を回っており、その光景に感銘しパラカツに農地を求めた。
しかし、この地方で地券登記は殆ど無く、往々としてある二重〜三重の売買契約だけの物件が多く煩雑であり、その訴訟と共同の難しさもそこに入り込み疲れた。
やれる事は全部やってみた。そしてやれる事が出来るのは幸せと思っている。
◼️ 12 新田 孝二 島根県邑智郡瑞穂村 1963年渡伯 1953年生れ
第12陣新田哲三氏の三男、渡伯時10歳であった。入植当初は蔬菜等を栽培したが、両親が早く養鶏を取り入れた。兄と養鶏の共同形態を築き、一貫して専業養鶏であった。
1974年1月に農地を取得して独立。菅原悦郎氏長女美智子さんと結婚。美智子さんは移住地内ジャミック事務所で2〜3年間、事務関係を手伝い勤めた。
雑作地に鶏舎建築と移動は80年頃まで掛かり、住宅を建築して移った。
竹下 昇首相の打ち出したふるさと創生、1990年10月、最初のふるさと創生に航空機二機、総勢二百数十名で参加した。
スポーツマンで特に柔道を嗜み、講道館から移住地内部員で唯一初段(黒帯)の許状を得ている。また、美智子さんは1991年に茶道の手解きから約30年を経て数年前に茶名(許状)を習得された。
最後に今まで気になっていた事は、東北の人と関西の人の結婚が移住地内であり、食生活、特に料理の味を伺うと、東北では比較的味が濃く、関西は薄い。そして、たまご焼きの味付けは東北は砂糖を加え甘辛く、関西はおかずなので塩味、東北、関東で好んで食べる、糸引き納豆にはなかなか馴染めず。また雑煮の具が多いのは東北で、澄まし汁程度が関西であった。長い生活の中、その内馴れ馴染んで中和された味になっているのが現在の様子である。
◼️ 13 林 良雄 茨城県鹿島郡大洋村 1962年渡伯 1950年生れ
第1陣林富男の五男。ジャボチカバール農学校〜リベロン市の工業学校に転校。1971年9月〜72年9月まで、群馬県立農業大学校蚕業学科に留学、聴講生とし、特に蚕病を斉藤忠一氏の指導をうけた。
1973年9月、渡伯時(当時11歳)の戸主兄健次の許を離れ、戸主として現地入植、両親、妹と同居、養蚕経営に専念。
1981年5月、事業団所長八重尾直忠氏の紹介で長野県下高井郡山ノ内出身、果樹栽培農家柴草家の長女・緑と結婚する。24歳の時、移住地内では最後の花嫁移住であり、渡伯は1981年6月空路であった。長い県の信州は、父親、兄達の生れた南信の下伊那郡は降雪も少ないが、北信の妻の郷里は深雪地帯で、最も知られているのは猿が温泉に入ることの地獄谷が付近にあって有名。もう少し加えると、母方が松代藩の士族で佐久間象山と縁が深く、家紋も同一のものである。現在まで20年日語教師を務めている。
1982年蚕違作の為、養蚕から養鶏に営農形態を替える。以後一貫して鶏飼いである。空手道を嗜み、移住地内子弟に十数年指導。しかし、2011年7月屋根からの転落事故で激しい動きのスポーツ関係は脊椎管狭窄症で全然動けなく、唯一趣味の執筆、郷土史検索を嗜む。
現在地鶏を少し飼い、グァタパラ新聞の編集に勤しんでいるが、色々と手間も掛かるが学ぶ事も多くあり、楽しむ事の方がそれ以上多い。
川柳
カード増え暗証番号裏に書き
妻旅行おれは入院ねこホテル
へそくりの場所を忘れて妻に聞く
これ大事あれも大事とゴミの部屋
腰よりも口につけたい万歩計
婆さんよ犬への愛を少しくれ
名が出ない(あれ)(これ) (それ)で用を足す
御礼
亡義父、エルシオ・ヴィエイラ(73歳)儀は、去る4月13日午前10時52分、クリニカ病院に於いて永眠致しました。グァタパラ葬儀場で告別、移住地内墓地に埋葬致しました。
生前御懇意に賜りました村民の皆様方よりお悔やみと過分なるご香典を賜りましたことを哀心より厚く御礼申し上げます。
2021年4月
喪主 海老沢 康弘
親族 一同
なお、香典返しの儀は略させていただき、寸志をグァタパラ農事文化体育協会に寄付させていただきました。
グァタパラ俳句会 三月
何につけ二人住まいや秋涼し 田中 独行
新涼や年に一度のらんが咲き 菅原 治美
流星群幾光年の彼方より 林 みどり
コロナ禍に一人手酒に落花生 脇山クララ
流れ星届かぬ想ひ遠き空 富岡 絹子
一服の場所と決めておく新涼下 高木美代子
新涼や生醤油みょうがでうどん食ぶ 近藤佐代子
新涼やマスクの奥の目のやさし 脇山千寿子
[次回兼題〕 爽やか、秋時雨、種採り、アバカテ、当期雑詠
【編集後記】
コロナ禍で、対面インタビューが殆ど出来ず、一度電話でインタビューすると、自分の腕が数分でシビレ痛み出し筆記が出来ず、未だ事故の後遺症を引きずっている。そのため、グァタパラ入植者を一時中止とし、次回は日本移民百周年地方編纂委員で収集した、二転、三転と編集方針が変更され、未公開資料の奥モジアナ地域在住者を列挙したい。この資料収集ではリベロン市在住であった故・宮坂玲子さん、ジャボチカバール市在住であった故・田嶋勉氏の協力が大であり、A4用紙で100ページに及ぶものなので、抜粋して掲載予定。
なお、列挙される氏名の内、詳細の分かる方がありましたら一報頂けると幸いと思います。
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