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グァタパラ新聞2021年4月

恒例のグァタパラ新聞4月号が林良雄さんから届きました。今月の写真は満開の綿の花です。

「今、移住地であちこちに咲き誇っています。芳香がほのかにあり、花びらは大きいですか遠望すると桜とみまかう程です。大きな実の中に綿と種子があり、熟すと落下して縦裂します。綿は昔防弾チョッキ、枕のなか綿などに使用し弾力のある綿です。種子の自然発芽は殆どなく、この樹木のある所は以前人の手で植樹されたものです。巨木になりますが、多くのブラジル人は庭木に植えます。」とのことです。


林さんは、3月31日に1回目のコロナワクチンの接種を終えられたそうです。私の住む兵庫県では、本日から65歳以上の高齢者にワクチン接種がはじまりました。まん延防止等重点措置が適用されて1週間。一向に感染の拡大が止まらないので、ワクチン接種券が届くのを心待ちにしています。

移住地で満開の綿の花



グァタパラ入植者


□ 10 佐伯 知治 熊本県鹿本郡鹿央町 1960年渡伯 1936年生れ


 農家5人兄弟の次男、陸上自衛隊を2年満期で除隊。畳職人として23歳の時コチア青年に応募、第2次第6回生として渡伯。*コチア元試験場モイニョ・ヴェーリョの高知県出身上田農場に配耕され、ジャガイモ栽培に2年、レジストロに移り、山村畳製造工場に就労。さらにサンパウロ市内の太陽堂・藤田氏の兄がパラナ州アサイ市で試験的に経営していた後を引き受け歩合で営業。1965年藤田農場にて、佐伯畳商工場を創設。*


 日本で覚えた畳製業を志し、グァタパラの稲藁に着目し70年入植した。入植がおそかったので土地は広く得られず、雑作地16,8ha、低地6haを所有、雑作地の一部に住宅と工場を建てて、サンパウロの太陽堂と柔道場用畳製作を契約するものである。


*夫人次子さんの実家はアサイ市トレス・バラス移住地カビウーナ区、上西時雄、トヨ(北海道空知郡滝川市・渡伯1932年3月ブエノス・アエレス丸)の次女。トレス・バラス移住地入植が1941年。

現在の佐伯農地.は、1920〜23年頃グァタパラ耕地のコーヒー就労者とは別に導入した、米作分益農に従事した人々の居住跡地の一部である。*

(在伯熊本県人発展史引用)(トレス・バラス移住地開拓25周年記念参照)



□ 11 長谷川 美延 千葉県佐倉市南臼井台 1965年渡伯 1941年生れ


 コチア青年第2次33回単身移住、山形・細田仁市氏次女・節子さんと結婚、ミナスの養蚕を手掛けようとして出掛けるが、諸問題で再度グァタパラに帰耕。農地を購入して入植(山本金司氏後)、以後数箇所移転を繰返しゴヤス州に落着く。



□ 12 近藤 四郎 神奈川県相模原し麻溝台 1968年渡伯 1945年生れ


 近藤安雄氏の四男。父の勤める満州鉄驪てつれい訓練所宿舎内で誕生。

 親元を離れて学校へ通う長兄、次兄と母と共にする姉、3兄、生後5ヶ月の氏は奉天で2人の兄と合流して引揚げる。


 早大法科入学の年、早稲田百日ストライキを経験。この頃、学生争闘が活発で、氏もサツメント派(大衆運動)に参加した。


 大学卒業後、1968年に農拓協青年として渡伯。グァタパラ訓練所を経て、兄雄三氏の許に配耕される。当時、移住地はパイナップル栽培に関心が多く、他地方の栽培農家へ実習に出掛ける。最初にレジストロの久我氏で2ヶ月間パイナップル栽培の全て、次にソロカバナの百利農場で45日位、最後はバウルーの柳沼農場で1年数ヶ月、ここではどちらかと言うと養鶏飼育の方が主に成ってしまった。


 グァタパラに戻り1972年に入植、雑作地24haを取得。パイナップル、アバカテ等を栽培。

1973年、日本の開拓組合に在住した隣の酪農家、深沢氏4人姉弟の長女佐代子さんと結婚。その時の渡航船が最後の移民船であった。


 後年、農地にピポーセントラルを設置して、ニンニク栽培を移住地内で唯一に継続している。



□ 13 山本 金司 群馬県北群馬郡子持村 1969年渡伯 1950年生れ


 農家5人兄弟の次男、利根農林高卒。在学中から移住研究会の部長をして1969年農拓協青年として渡伯し、グァタパラ訓練所の訓練を終えてボツポランガの阿部望氏方(熊本県八代市出身)に配耕されて養蚕担当。2年後にグァタパラに戻って養蚕農家に雇われていたが、72年入植した。中古トラクターを購入し全拓連の独身寮に起臥きがし、4km離れた自分の耕地30haを全部開墾、玉蜀黍、マラクジャ等を栽培、牛、豚を飼育、酪農営農の計画を進めている。


 *付記:阿部望氏について。渡伯1933年、最初にリンコン管内で2年借地農から始まり、アララクワラ周辺でさらに2年の借地農.を経てボツポランガへ。氏の長男秀世・ペードロ氏がファッテク会社専務であり、近年までグァタパラ農協と商品取引で時折来耕していた。*(在伯熊本県人発展史参照)



グァタパラ移住者子弟入植者


◼️ 1 栗原 桂一郎 千葉県野田市 1962年渡伯 1937年生れ


 兼業農家3人兄妹の長男。野田市立実業高校卒、合成樹脂製造会社に勤務したが、前途に希望が持てず、偶々母の妹が茨城・相馬国男氏の夫人でグァタパラに移住することを知り、自発的に構成家族員となることを希望し、同伴して第1陣で入植した。当初は相馬氏の営農を助けていたが、事業団の工事助手勤務を求められて暫くの間工事.に従事した。

 現地入植が認められると率先応募。1陣の長野・田中佳氏次女・さちさんと結婚。養蚕を手掛けていたが、1980年代にブラジリアへ移転する。その後日本へ就労し定住された。



◼️ 2 田中 万吉 長野県木曽郡郡山口村 1962年渡伯 1943年生れ


 第1陣入植の田中佳氏の次男。中学校卒後、上松職業訓練所木工科を出て1年半程会社員となったが、父と共に渡伯。

 

 事業団要員として揚水機運転に従事、現地入植を認められると直ちに入植。農地の前にモンブカ川が流れ、入植当初川底の硬いここを渡渉としょう、グァタパラ耕地中央への近道であったので自動車でも渡河して、田中氏の農地、栗原氏の農地の真ん中を縦断し、私(編集者・林良雄)の農地の西側ロッテ堺に沿って馬車の通れる位の道があった。また、川付近の一隅に掘っ立て小屋を建て、起臥を数年した日本移民の記録もあるが、誰で何をしていたかは記されていない。


 1974年に事業団を退職し、養蚕専業の自家営農に入ったが、建築、指物の技術を買われてその面でも収入がある。


 1陣の山形・石田光次氏の次女美喜さんと結婚。養蚕専業農家であり、1994年度最後の養蚕飼育者の1人でもあった。



◼️ 3 上田 正明 島根県邑智郡石見町 1962年渡伯 1941年生れ 


 3歳で母を失い、父も翌年フイリピン戦線で戦死。1人の弟も病死し、母の妹に育てられ、その婚家である島根・上田嘉一氏の養子として渡伯。上田家の経営確立に貢献した後、全拓連農場で1年間勤務し養蚕を勉強。遠い雑作地に24haを確保し、現地融資を仰ぎ独力で建設。島根・三浦等氏の長女春美さんと結婚。夫人はグァタパラ小学校第1回の卒業生。中学卒業、高校2年修業後コチアグァタパラ組合に3年勤務した。養蚕経営後、養鶏に替わり近年まで営農を続けていた。


 農業を離農し、現在子供達の在住するブラジリで余生を送って居るが、時々移住地を訪問されている。



◼️ 4 佐々木 俊秀 島根県那賀郡三隅町 1962年渡伯 1948年生れ 


 1962年第6陣佐々木栄太氏の長男。14歳、中学3年生の修学旅行後渡伯する。両親を手伝い、ジャミックで宮川主任の農事試験斑を1年間手伝う。1976年5月に10陣の山形・小林正雄氏の長女巻子さんと結婚。巻子さんは8歳で渡伯、移住地内の小学校を卒業後2ヶ年程サンパウロ市内で洋裁、料理等を各種学校で修得した。


 1980年に雑作地18haの用地を取得。開墾後7,5haの桑園を造成、翌81年に住宅、蚕室を建築後転住。残り10haに陸稲、大豆、トウモロコシ等の輪作形態で作付けした。


 養蚕は、1993〜94農年に5家族掃立し、6月下旬に自身最後の繭荷をドアルチーナへ持って行き、移住地で30年間継続した養蚕業がなくなった。また、この農年には移住地内の日本への就労者が110名であった。


 その年の9月末から日本就労に勤め、1996年には長男も伴う。千葉県方面で6年程長男も一緒であった。70歳になるまでの約22年間日本で働いたが、養蚕を止めた時点には適作も無く、長い間日本での就労は色々に付けてプラスになった。


 日本就労を終えて悠々自適の現在、移住して来て良かったと思える。



◼️ 5 佐藤 清 サンパウロ州ビリグイ市 山形県出身二世 1952年生れ


 父は佐藤重助氏で3歳の時渡伯。母は二世でビリグイ生れ。中卒後14歳の時から、バストスのブラ拓製糸会社に8年間勤務、大変サーカーの好選手で、バストスでは日系サーカー選手で名を馳せた。


 妻女は島根・寺内実雄氏の長女美恵子さんである。1974年同伴してグァタパラに帰り、寺内氏の経営を手伝っていたが、同年全拓連農場に近い現地に入植。入植が遅かったので12haの用地しか取得出来なかったが、5haの桑園を造成し、7haには陸稲やトウモロコシの輪作形態で作付けしていた。日語の会話も十分話せ、移住地内での物事には何の問題も無かった。夫人の美恵子さんは俳句に精進しており、ニッケイ新聞の俳句欄では、度々お目にかかっていた。


 後年サンカーロス市へ移転する。 



◼️ 6 中塚 孝之 長野県下高井郡中野 1962年渡伯 1934年生れ 

 

 中塚甚吾氏の長男。知人の紹介で早くから出耕作をし、州内各地で蔬菜の歩合作を行った。1968年にグァタパラに帰って現地入植。地区西端ジョンマルチン付近でグァタパラ川から導水路掘削し、トマトなど蔬菜経営を始めた。その後、地区中央近くの雑作地18ha取得。タクアリチンガ在住の佐藤氏息女・京子さんと結婚。蔬菜が主で優秀な成績。永年作にマンゴを植え付けた。後年日本就労。


 近年殆ど移住地内では見かけられない。



川柳


日帰りで行って見たいな天国へ


延命は不要と書いて医者通い


三時間待って病名「加齢」です


目覚ましのベルはまだかと起きて待つ


起きたけど寝るまで特に用もなし


改札を通れずよく見りゃ診察券


誕生日ロウソク吹いて立ちくらみ


万歩計半分以上探し物


この頃は話しも入れ歯もかみ合わず


目に蚊を耳にはセミを飼っている


留守電「ゆっくりしゃべれ」とどなる父


いい夫婦今じゃどうでもいい夫婦


マイケルの真似を発作と間違われ


探し物やっと探して置き忘れ


齢重ねもう食べれぬ豆の数


LED使い切るまでない寿命


クラス会食後は薬の説明会


立ち上がり用事忘れてまた座る


無農薬こだわりながら薬漬


妖精と呼ばれた妻が妖怪に


目薬を差すのになぜか口を開け


少ないが満額払う散髪代


景色よりトイレが気になる観光地


厚化粧笑う亭主は薄毛症


カード増え暗証番号裏に書き


深刻は情報漏れより尿の漏れ


恋かと思っていたら不整脈


何回も話したはずだが「初耳だ」



御礼


 亡夫、渡辺和男(70歳)儀は、去る2月3日午後9時30分、病院に於いて永眠いたしました。昨今、コロナ禍の情勢により、葬儀は家族のみで行いました。翌4日午後3時に移住地内墓地に埋葬致しました。

 生前懇意に賜りました村民の皆様方よりお悔やみと過分なるご香典を賜りましたこと哀心より厚く御礼申し上げます。

       2021年2月

           喪主 渡辺 洋子

           親族 一同


なお、香典返しの儀は略させていただき、寸志をグァタパラ農事文化体育協会に寄付させていただきました。



グァタパラ俳句会 一月


孫の居て無口な夫の初笑い   脇山 千寿子


道遠く牛歩の歩み去年今年   富岡 絹子


新年もSNSでご挨拶     菅原 治美


雨降ればコロナ禍の世も草茂る 林 みどり


コロナ禍に静もる村や年始め  近藤 佐代子


年の明けコロナ自粛で孫遠く  脇山 クララ


何もせず肩こり進む三ヶ日   高木 美代子


なめくじの一夜惑いし壁の跡  田中 独行


[次回兼題〕新涼、流星、落花生、当期雑詠



【編集後記】

 

 行が殆ど無いので、旧役員さんご苦労様でした。色々と気苦労があったと思いますが、それも皆村を思っての事です。新役員さんコロナ禍ですが頑張って下さい。

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