グァタパラ新聞2021年3月
- 2021年3月23日
- 読了時間: 11分
更新日:2022年9月12日
今年に入って『その女、ジルバ』というドラマが放送されていました。これは有馬しのぶさんの書かれた同名の漫画が原作で、百貨店のアパレル店員として働いていた主人公の笛吹新という女性が結婚直前に恋人に逃げられた上、倉庫勤務に左遷され、失意のドン底にいた40歳の誕生日に、平均年齢70歳という高級ホステスのバーと出会い、生きる歓びを見つけていくという自分探しのドラマです。このドラマのタイトル「ジルバ」は初代ママの名前で、ブラジル移住していたいう設定。ジルバは帰国後苦労して東京でバーを開業した伝説の女性として登場します。ニッケイ新聞によるとジルバママのモデルは、新宿や歌舞伎町でバーを経営していた実在の人物かもしれないとのこと。ブラジルの話題も少し出てきたし、コロナ禍でないと見なかったかもしれないけど、見て良かったなと思えるドラマでしたー。
さて、今月もブラジルの林良雄さんからグァタパラ新聞3月号の一部が送られてきました。今月の写真はモンキーバナナ。林さんによると「温度が高いせいか今年は豊作です。色々な種類のバナナを食べますが、このモンキーバナナが一番です。」ということです。
サンパウロはじめブラジルの都市は大半がロックダウン中ですね。ワクチン接種が進んで1日も早く収束することを願うばかりです、、。

モンキーバナナの木
グァタパラ入植者
◼️ 123 野林 藤市 佐賀県伊万里市 (第12陣)
1963年は70年以来と言われる大旱魃で、宅地に水道施設はあるが潅水する程の水は使えず、自給蔬菜も満足にできない時期が長く続き、動揺する人もあった。氏はマッシュルームの栽培経験者で、低地に小屋を作り、試験をしながらねばり強く明日に備えてきた。
実弟敏秋君(1964年26歳)と義春君(1964年19歳)は、別に一昨年呼寄で渡航、リオ・グランデ・ド・スール州のポルト・アレグレで、鹿児島出身の児玉氏の所で、分益農として蔬菜作りをやっていたが近日来訪した。該地では日系に土地所有者が少なく、借地農で、その借地を分益に出しているので、定着困難と言う。
家族構成1964年当時、妻・扶基子(1923年生)、長女ふじえ、長男隆(1951年4月27日)、次男清、次女なつ子 。後年ブラジリアへ転耕。
◼️ 124 稲富 辰雄 佐賀県杵島郡錦江村 (第12陣)
日本で花作りをしており、花作りを目的として来たツネ夫人が前途に疑問を抱き、身体の不調を理由に帰国を主張して氏を悩ませた。氏はグァタパラ営農を遂行する意思であったが夫人が承知せず、周囲も家庭の破壊をおそれ気を使うが、60km離れたサン・カーロス市に夫人の叔母(原辰巳夫人)が在住なので、それを頼り、同市土井日本人会長の世話で、市から3km離れ.たヴィアーナ農場に借地農として入ることとした。夫人がリウマチ、腎臓炎で臥床したきりなのでグァタパラの所有地は脇山氏が管理耕作し、家は中水勉氏*(コチア青年2次11回。鹿児島県出身・1959年あめりか丸で着伯4月。落合としえ夫人の厳父)当時、組合のトラトール運転手が借用。* コチア青年移住50周年参照。
転耕数年後、子息の大作君は花の運搬車を購入、その自動車で衝突事故をおこして死亡。
◼️ 125 山本 喜太勇 佐賀県伊万里市 (第12陣)
大工の経験があり、自宅は自力建築。早くグァタパラを出て南銀重役で東京都友会の会長であった吉雄武氏の農場に入り、養鶏をやる傍ら大工の経験から日本間の建築をしたりして、そのうち露天商の権利をとって自家販売を始め、数年たらずして独立し、サンパウロ市郊外に土地を持ち家を建て蔬菜作り、露天商で売って成績をあげている。子供達は長男、長女、次女サダ子、次男喜男。
◼️ 126 吉永 春見 佐賀県西松浦郡西有 1918年生れ (第13陣)
6人兄弟の三男、久留米連隊に入隊、北支、南支、マレーシャその他に転戦、軍歴8年で曹長となり昭和21(1946)年末復員、22年伊万里市の曲川開拓組合に入り14年間内地開拓に従事、庭師の特技で内職した。水田3反を買い生活に不自由はなかったが、発展を求めて渡伯した。
分散している用地を交換分合により、最初の宅地より全拓農場南側堺付近に移転後養鶏を主営農に取り入れる。
◼️ 127 白水 二男 佐賀県伊万里市大川町 1911年生れ (第13陣)
*農家の次男、徴兵前に渡支、20(1945)年6月、34歳で済南で召集をうけ、一週間兵役に服しただけで捕虜としてシベリアに送られ、強制労働をさせられ22(1947)年に帰郷した。*
県拓連からグァタパラ移住に強い勧誘があり、伊万里市から野林、山本、長谷川、川久保の各氏らと共に応募し渡伯した。
当初米作をやったが、67年から養蚕に専念、現在(1973年)桑園13ha、用地は15haのほか、田中、吉永両氏の移転のあとを全部引受け専業養蚕で充実を計る予定。
◼️ 128 中 照夫 佐賀県藤津郡嬉野 (第13陣)
10年近くグァタパラ在住して苺、葡萄などを作っていたが、長男が同県人で転耕していった長谷川清氏のところで花卉栽培を覚え、コチア街道50kmのところに1アルケールを借地して独立した。家族の合体を希望し、それに引かれて転耕した。子女に久美子(1951年生)、信子(1952年生)。
◼️ 129 水田 徳雄 佐賀県 (第13陣)
家族構成はよく、営農成績もよかったが、入植後間もなく日系人の多いトマトの産地タクワリチンガに転耕した。好、不況の知らせはあるが確かな近況はわからない、近いところであるが、同県人との交際も浅く親しい人もなく疎遠である。子供達は長男信行(1948年生)、鶴雄(1951年生)、三千雄、孝子。
◼️ 130 川崎 辰雄 佐賀県佐賀郡東佐賀町 1940年生れ (第16陣)
入植から一貫して稲作生産者。氏の弟春雄氏は細田仁市氏養女国子さんと結婚、全拓連グァタパラ農場勤務後、パラナ州カストロ方面に移転する。
◼️ 131 長谷川 清 佐賀県伊万里市 (第18陣)
*氏はかって昭和5(1930)年、18歳で父と共に渡伯し、モジアナ鉄道沿線で10年間綿作を主としていた。また、陸稲なども栽培した人である。移住入植者内ではブラジル事情については唯一の有経験者である。*
当初米作などを作付け後、早々に養蚕を始める。仕事の傍らせんべいを作り、移住地内で日本の味を楽しませるものであった。後年コチア街道へ転耕して花卉に専念する。
◼️ 132 川久保 又一 佐賀県伊万里市山代町 (第30陣)
入植後仮宿舎に一寸居ただけで、弟源治氏がコチア青年として先に渡伯してバラ作りで成績をあげていたので、コチア街道39kmの弟のところに合流。グァタパラ入植者から長谷川清、鈴木辰雄氏等も受け入れ、クリスマス前にはグァタパラの男女青年10余名を招いて大量出荷を行うものであった。経営の主体であった弟源治氏と両親はサンパウロから74kmのマイリンケに15アルケールの土地を購入して移転、またその下の弟信雄氏もカステロ・ブランコ街道66kmの地点に独立する。氏の家族だけがになってしまう。
◼️ 133 堤 豊次 佐賀県佐賀市鍋島町(第31陣)
同県出身の松本氏が転耕したあとの住宅を譲り受けて住居し、家族構成がよく、宅地に苺を栽培し成績をあげていたが、1967年8月ブラジリアに転耕、INCRAの計画植民地に入植し、苺や蔬菜栽培で成績をあげている。
以上佐賀県出身者14戸。
グァタパラ現地入植者、特に単身青年または妻帯渡航者の人々13戸を掲載。
□ 1 古戸 彰 秋田県南秋田郡飯田川町 渡伯1956年 1938年生れ
山林地主の5人兄弟の三男で、秋田短大付属高校卒。18歳でコチア青年第1次5回生として渡伯。サン・ジョゼ・ドス・カンポスの平良之助氏方に配耕されて3年、ついで今村健二氏の所で半年養鶏飼育、(この時一緒にいた香川県出身の春日健次郎氏家族の次女啓子さんと後年・1962年結婚)、更にコチアの試験所に移り、あと半年の義務年限中同僚の青年と2人でミナス、ゴヤス等の各州に広く無銭旅行を行って入植地を探した。偶々コチア産組の移住課長山中弘氏からグァタパラに集団移住地の出来ることを聞いて、同僚の長野出身・百瀬青年と二人第一陣の入植一年半前にグァタパラに入り、無人の低地でトマトなど蔬菜を作り、荷車で駅前などに売りに行ったが全然売れなかった。グァタパラの真の草分けであった。百瀬青年は2ヶ月位で去ったが1人で居残り、入植者に分譲予定の柑橘苗の台木の種子を蒔いて準備したもの。また、入植者に野菜を供給するため、一陣入植後夫人たちの勤労奉仕で、共同野菜畑を作り指導したのも同氏であった。グァタパラには112戸の現地入植者(ブラジル国籍人)を入れなければならぬことになっていたが、最先に志望したのもである。コチアが低地の試験区を設けて、蔬菜や米麦の試作を行った時それを担当した。
ポルトガル語も達者で腕もたつので、無警察状態の移住地の治安を確保するために治安部をつくり、青年4人を助手とし治安部長として所轄所から警察権を与えられ、盗難の捜索や不良労働者の取締りに当っている。長女優子子女児はグァタパラ移住地生れの第7番目。後年ゴヤス州カルダス・ノーヴァス市に移転。
*空手剛柔流の有段者でグァタパラ子弟に空手の手解きを指導、私(編集者・林良雄)の空手歴の初歩は古戸氏から指導を受ける。また、同船に黒木政助氏(宮崎県出身)がアチバイアに在住される。*
□ 2 西 秀雄 北海道江別市 渡伯1960年 1936年生れ
酪農家の六男、江別高校在学中憲法9条の解釈で先生と激論し、自ら実態を確めるといって恵庭の自衛隊の戦車隊に入隊し3年満期まで在隊。除隊後ブルトーザ会社に在社中、満州帰りの同社々長の満州開拓の話にひかれ、建設省産業開発青年隊に応募して1960年渡伯した。当初道路工事に従事したが、62年グァタパラの水利工事が始まると、派遣され隊長として揚排水機場の建設据付けにあたる。工事終了後隊員は引き揚げたが同志3人と入植を志望、64年入植、共同トラクターの運転要員となった。岡山・杉本重雄氏長女和子さんと結婚、杉本氏のロッテで苺栽培を行っていたが、そのうち丘地でパイナップル栽培に専念するよういなり、片手間に雑貨店の経営にも当る。後年.日本へ帰国。
□ 3 藤井 紘輔 山口県萩市 渡伯1961年 1940年生れ
萩高校卒で、1961年5月第7期開発青年隊として渡伯した。元々機械好きであった為青年隊に応募、広島で訓練を受けた。パラナ訓練所に一年いて、62年五月から事業団グァタパラ工事事務所助手として勤務、1965年10月に退職、1964年現地入植していたので営農に専念することにした。また64年に吉田昌治氏長女美智子さんと結婚。
1965年度から営農に専念、低地でフェイジョン、米作をやり、弾丸暗渠通して、蔬菜などを予定している。土地代は内地で実家から支払済みになっている。1968年10月ブラジリアに転耕する。*ここにおいてエレトロ・プラネット社に参加。仕事の関係でエスピリト・サント州ヴィトリア市に移転する。
(開発青年隊四十年史参照)
□ 4 門脇 武祥 鳥取県西伯郡大山町平木 渡伯1961年 1936年生れ
入隊前に日本各地の土木現場を渡り歩く。開発青年隊7期として渡伯。グァタパラ移住地造成工事.に携わり、事業団職員中佐賀・川崎竹次氏長女初美.さんと結婚。1977年農地取得、後年市街地に於いてバール開店。
□ 5 上村 隆重 佐賀県伊万里市山代町 渡伯1961年 1928年生れ
小学卒後渡満、公主嶺高等農林在学中に徴用されたが終戦後帰郷。辻の堂開拓団に入り6年後竹中工務店に勤務。61年開発青年隊指導員として一家で渡伯。ドラードス訓練所に勤務中、コチアからグァタパラ入植者住宅建築の委託をうけて、62年グァタパラに派遣され、その後64年に入植する。以来入植者の建築請負に従事、雑作地12ha、柑橘8ha、宅地1,5ha計21,5haを所有しているが営農実績はない。後年海岸線マール山脈のクニャ市に移転、山荘ホテル経営。
□ 6 小島 忠雄 静岡県田方郡大仁町 渡伯1962年 1941年生れ
開発青年隊8期生。揚排水機据付を開発青年隊と共に協力するため、隊員と共々グァタパラに移転。以後トラクター運転手、農業機械修理工等を経て同船者の見尾多三郎氏長女智子さんと結婚。見尾家の子供が女性ばかりのため夫人の実家を手伝う。長い間修理業、米作などに従事する。
□ 7 佐藤 陽明 秋田県仙北郡西木村 渡伯1962年 1940年生れ
*半農半商7人兄弟の六男。日野自動車会社の工場に勤務中、新聞で開発青年隊募集記事を見て志願。*
1962年渡伯後、開発青年隊訓練所に一年在所後コチア産組管理のグァタパラ共同トラクター運転要員として64年に派遣され、66年に入植。トラクターの入札払下げをうけて購入。68年岡山・直原一氏の長女千鶴子さんと結婚、所有地は柑橘用地18ha、米作やトウモロコシなどを中心に経営して養蚕も始める。将来はセラード地帯等広い土地での営農を希望している。*後年ミナス州パラカツに転耕。*
□ 8 斉藤 五郎 山形県村山郡楯岡 渡伯1965年 1943年生れ
農家7人兄弟の五男、楯岡中学卒業後同県出身で、茨城県に入植中の細谷登喜雄氏の家に入り5年間勤め、細谷氏が全拓連グァタパラ農場長として赴任の際、同伴して渡伯後農場職員として永く米作に従事、細谷氏の帰国後も居残り73年に入植した。全拓連田草川兵馬氏の長女洋子さんと結婚する。所有地は宅地1,5ha、低地12ha、雑作地18ha、雑作地にはアバカテを栽培、低地で米作を主としている。養豚を後年手掛ける。
□ 9 荒川 勝彦 愛知県名古屋市千種 渡伯1961年 1942年生れ
NGK社員を経て現地事業団職員。山形・石田光次氏長女照さんと結婚。事業団職員中に大学通い卒業。1977年に農地取得。後年聖市移転し、サンパウロ総領事館現地職員として勤務。退職後、聖市にて旅行会社開店。後年グァタパラ移住地で壮年をおくる。
グァタパラ俳句会 十二月
われる毛虫明日には蝶となる 高木 美代子
手巻き寿司家族集いて喜寿祝 脇山 クララ
畑のものみんな集めてちらし寿司 脇山 千寿子
子を叱る声に張り無き暑気あたり 近藤 佐代子
暑気あたり旅の土産となりにけり 菅原 治美
鮨文化その国の味に変化して 林 みどり
無造作に鮨買う異人村の店 田中 独行
[次回兼題〕野菊、バッタ、三日月、当期雑詠
【編集後記】
文協創立以来、対面式総会が開催出来なかったのはじめての出来事。種々の工夫と会員の協力で、コロナウイルス変異種(ヴァリアンテP1)の異常拡大に対応した施しである。
そして、ワクチン投与が始ったはものの、接種終了は今のところ先が読めないでいる中、新三役、役員の方々には感謝する次第である。
コメント