top of page

グァタパラ新聞2021年12月

昨年から今年にかけて、成人してからこれほど外出しなかったことはありませんでした。なので、交通費も以前の1/10に減りました、、。ですが、それなりに充実した年だったように思います。


今年最後の林良雄さんからの便りが届きました。今月の写真は、11月にサンパウロ州の日本人移民住宅を調べているという兵庫県在住の方からリクエストがあった高床式住宅の写真です。


高床式住居



高床式住居




ニッケイ新聞が廃刊


ニッケイ新聞が今年一杯(12月18日)で廃刊。10月29日に創立されたブラジル日報協会から「ブラジル日報」が来年1月に創刊される。この新しいブラジル日報協会組織は、会社ではなく「協会」という非営利団体である。パウリスタ新聞(1947年一月創刊)と日伯毎日新聞(1949年一月創刊)が共に半世紀の発刊歴のあった邦字紙が合併し、1998年3月3日からニッケイ新聞が発行された。そして、サンパウロ新聞が2018年末に廃刊したことは記憶に新しい。邦字新聞は日本語の普及、日本文化の継承、コロニアの出来事、比較的ブラジル国内情勢に疎い日本移民等に、これを知らせ心の支えになっていた。これが継承されることは大変喜ばしい限りである。

ニッケイ新聞購読者はブラジル日報に引き継がれ、そのまま継続される。



セラーナ市の集団接種

(ニッケイ新聞既報記事)


コロナワクチン接種のS計画では、セラーナ市に住む18歳以上を1週間毎に、2月17日から4月11日までの8週間で全協力者2万8,380人中、2万7,722人がコロナバックの2度の接種を受け終えた。2度目の接種を終えてから3ヶ月余り経過した、7月24〜25日と7月31〜8月1日に血液を採取分析したところ、3,903人のボランティアの99%が3ヶ月後も抗体保持が確認された。



電気系の盗難が相次ぐ


グァタパラ移住地内を通過する、州道255号線沿いに設置された太陽光発電パネルで充電され保存される充電バッテリーがことごとく盗難に相次いでおる。人家付近の一本手間までは盗難されず、その他は鉄板製ドワをこじ開けバッテリーを盗難しておる。

また、電線の盗難も頻繁に発生しており、ニュースでその被害は延べ地球・月間を二往復出来る長さと言われる。因み盗難した電線の被覆を焼き、銅線一キロを45ヘアイスで購入する族が跋扈しているので、注意を。



地元モジアナ地域の日系在住者


グァイラ市管内(1955年参照敬称略)


1930〜40年代にかけて一千家族以上も日本人、日系人が在籍した所であり、1988年(日本移民80周年)現在3〜4世の時代で、その家族数も少なく500家族。

嶺川一海、荒谷逸夫、浜田富夫、斉藤武雄、松隈万太郎、藤尾衛、杉本一郎、池田亀喜、山下繁雄、

秦泉虎吉、生田義雄、西光拝、加藤操、石原宮人、福沢得司、持永勧治、重山ノキ、炭谷茂男、酒井則雄、

荒谷一敏、和田重男、二宮継雄、高橋貞利、西清彦、野崎磯弥、下野常太郎、桝本忠義、平石政男、

大金信栄、八幡与蔵、紺野幸一、中川荒記、大浜瀞、中川政義、南迫喜次郎、塚本寅二郎、森正彦、

宮村正義、谷崎武、小谷逸美、村谷賢太郎、長谷川行次、小西吉太郎、国松英輔、植田正明、梶原勇吉、

大越兄弟、永田義規、佐藤岩美、今田豊、簑田九一、中島義康、中村卯作、東原口正則、豊田茂、西村安蔵、森義彦、猪股勇、阿部龍信、河野パウロ、河野悦二、西村左太夫、仲石細喜、森林太郎、味本守、山根芳夫、石井関次郎、佐竹東吾、沢崎不二夫、上原太郎、瀬戸口堅、築出与一、松島清、守屋一郎、古池勇、

古池武男、佐藤潔助、竹崎清、上田重身、川井藤広、金岡重信


・嶺川一海かずみ(佐賀県出身 1932年渡伯)モジアナ線イツベラーバで就労、後グァイラに移転し米作に従事する。市内に移転し精米、農産物仲買を手掛ける。


・荒谷 逸男・トラノ(広島県出身 1929年渡伯)農業。


・荒谷 一敏・ヤエ(広島県出身 1929年渡伯)農業。


・松隈 万太郎(福岡県出身 1914年渡伯)前述。


・藤尾 衛(まもる)・アサコ(広島県出身 1919年渡伯)農業。


・杉本 一郎(大阪市出身 1933年渡伯)前述。


・山下 繁雄・ウメノ(北海道出身 1939年渡伯)前述。


・生田 義雄・静子(広島県出身 1930年渡伯)市内で雑貨商。


・西光拝(鹿児島県出身 1931年渡伯)前述。


・加藤 操(愛媛県出身 1928年渡伯)モジアナ線レスチンガで就労、イツベラーバに移転し、コーヒー園に従事、米、雑作等を手掛け、1955年市内で商店を開業。


・野崎 磯弥(岩手県出身 1932年渡伯)モジアナ線サンタ・セシリアで就労、1947年グァイラ市内に移転し、種々の商売を手掛ける。


・紺野幸一(岩手県出身 1935年渡伯)モジアナ線サアア・ジョアキンで就労、1948年市内に移転し家電販売店を開業。


・石原 宮人・マリア(広島県出身 1929年渡伯)モジアナ線サン・ジョアキンで就労、その後イプアンに移転し綿、米作に従事する。1942年市内で農産物仲買、他に綿作、牧畜を手掛ける。


・酒井 則雄・桃江(熊本県出身 1934年渡伯)綿、米、大豆栽培の他に養豚、牧畜を経営する。


・村石 賢太郎・キイ(長野県出身 1918年渡伯)綿、米、トウモロコシ等の雑作栽培に従事する。


・今田 豊・媛子(広島県出身 1928年渡伯)市内で飲食店。


・森 正彦・久子(広島県出身 1929年渡伯)農業。


・森次 賢一・照子(広島県出身 1930年渡伯)農業。


・猿股 勇・シズエ(熊本県出身 1919年渡伯)1933年頃綿作。


・味本 守・ヒサコ(広島県出身 1928年渡伯)農業。


・山根 芳夫・スタエ(広島県出身 1934年渡伯)農業。


・吉岡 正人・ヒナ代(広島県出身 1933年渡伯)農業。


・鹿毛 正護(福岡県出身 1937年渡伯)前述。


・盛長 薫・コウ(広島県出身 1929年渡伯)1967年頃農業。


・盛口 隆(広島県出身 1925年渡伯)1967年頃農業。


・内藤 正明・福女(広島県出身 1933年渡伯)1967年頃農業。


・村上 善信・ヨシ子(広島県出身 1927年渡伯)1967年頃市内で飲食店。


・守屋 一郎・綾香(岡山県出身 1926年渡伯)1933年頃コレゴ・ナッセンテ植民地でコーヒー、米作に従事する。


・米田 清一・ミサオ(広島県出身 1926年渡伯)1967年頃グァイラに在住。


・加藤 光次(愛知県出身 1925年渡伯)モジアナ線イガラパーバで就労、ミゲロポリスで農事するが、1960年にグァイラ郊外で精米所、牧畜を手掛ける。


・渡辺 久一・美代志(秋田県出身 1929年渡伯)綿、米、トウモロコシ等の雑作農業に従事する


・明和 定治(富山県出身 1918年渡伯)義務農年終了後モジアナ線イーリャ・グランデ耕地で米作、その後リオ・デ・ジャネイロの日本大使館の管理人を十年間勤務。モジアナ線に帰り、米、綿作に従事。イツベラーバ市内でバールを営業する。1960年代にはリベロン・プレット市内に落ち着く。


・訂正

 11月号記載のバリニャ郡内のオンサ川沿線の米作者渡辺喜代三氏を氏の子息渡辺護(まもる)に訂正。この記録が、近藤安雄日誌に記載されているのでこれを引用掲載。

1962年7月24日(加筆*始*終)


 約束で七時半からマルチーニョ・プラードの渡辺護氏(*父親は馬場直氏の構成家族の喜代三氏長崎県出身、リンコンの村川氏と義兄弟、奥さん同士が山田曽市氏長崎県出身の娘さんで姉妹*)の所へ稲作の見学に行く予定で集まったが車がなく、コチアの事前連絡をうけてないとの話で遅くなり、やっとトラックを出して9時頃出かける。雨が降って来た。6陣の荷物が到着した由で6陣は行かなかった。


 リンコンへ行ったが馬場さんが所用のため村川政之助氏の所(角力場の付近)へ行く。家はお粗末であったが整然として居り、ルルと云うオオムが居て、鳩ポッポの歌を上手に歌っていた。日伯両語で何でも云う由、時子さん(16歳)になついて4〜5年でここまで来た由で、子供の時ジャボチカバールから貰って来たと云う。全く珍しい利巧なオオムであった。


 マルチーニョ・プラードへは途中工事中で回り道をした為時間がかかったが、渡辺さんの付近はよく育ったカンナ畑に囲まれて入口も中々分からない位であった。土地はモジグァス河畔(*訂正オンサ川畔*)の低湿地で雨期には腹を没するそうでクリンバタと云う魚が一日15〜16キロも網にかかると云われるが、今はすっかり乾いて熟畑となって居りきうり、馬鈴薯が作られていた。借地農で7アルケールを5年契借で借り、水路を掘り開墾をして米作をやっている由、条件はよく似ていた(*これはクラビーニョスの大和農場を指す*)。腰の曲った人で苦闘を話ていた(*これは父親喜代三氏を指す当時61歳*)。随分参考になった。米の脱穀は手でやっていると云う。馬鈴薯も始めてでバイラス病が沢山出ているが何も知らないようである。帰りにモーツカの志水徹、光雄兄弟(*父親・新蔵、熊本県八代郡竜峯村、渡伯1912年、東京植民地創設者の一人、グァタパラ移住地在住の福島末義氏の親戚*)の立派な蔬菜経営を見る。きうりがよく出来て居り1日100箱位出荷して居り、最高一箱1,8コントもしていると云っていた。ラランジャもよく出来ておいしく熟して居た。ピメントンも育苗定植されていた(一万本)。畑潅を上手にやっていた。



義賊 ジョギーニョ


 1900年初期、集落は殆ど無く人家が僅かに散在する程度で、デスカーバド郡在住のロッシ・フィゲイラ氏の子息で長男テオフォロ、次男ジオゴ中肉中背の体型、三男アベリノ、四男ジョアン。


 長女アルマンダはポルトガル生れの夫が食料品店を経営して居り、リベロン市内カーロス・ゴーメス広場に面した住居だった。長男テオフィロはリベロンジーニョ(現在のタクワリチンガ市)に住み、三男アベリノはスポース選手。


 当時、リベロン地方(人口5万9,000人前後コーヒー景気で国外からの移民者が急増)に住むジオゴは通称「ジョギーニョ」と言われ悪名高い殺し屋で、地域住民はこの兇漢ジョギーニョには気の休まることが無かった。この兇漢の一番下の弟ジョアンが、兄ジョギーニョの手足になって動いた。リベロン市生れの幼友達ランジェルが兇漢ジョギーニョの最後を見届けた。殺人鬼の前身は親切な土地測量士で、またギターを爪弾きながら小夜曲などを歌う普通の人であった。


 リベロン市に住むようになると拳銃、ナイフを絶えず携え、血気盛んでよく喧嘩をした。その内に殺しを商売として、農場主から政治絡みの暗殺、土地境の争いでも殺しを犯した。殺しの証拠に殺害者の耳を削ぎ取り、依頼人に殺害証拠として差し出した。


 幾つも犯した殺人中、もっとも身の毛のよだった犯行は、モジアナ沿線セラード駅(サン・シモン駅から二つ駅サンパウロ市寄り)愛人と姦通する妻殺しをポルトガル生れの夫に依頼され、愛人名で電報を打ち、呼び出した所を愛人、妻共々殺害後、石油をかけて焼いてしまう。この様にして次々といとも簡単に殺人を犯した。


 転々と隠れ家を変え歩き、ある時はクラビーニョスの岩穴とか。このお尋ね者の極悪殺人犯をモジグァス川付近の農場で、弟ジョアンと知人の所に潜伏しているのを、兵士が見つけ草藪に隠し置いたカービン銃で狙撃しようとするが、弟ジョアンの知人で渡し舟の船頭が大声で知らせる。小舟で逃げ出すのを焦るあまり、兵士はカービン銃の安全装置を外すことを忘れる程焦った。泳ぎ上手なジョギーニョは咄嗟に跳躍し川に飛び込み、水中深く潜って追手から逃げるが、弟ジョアンは被弾し即死する。


 自分の犯罪から逃げるため、田舎に潜伏する。


 それから十数年後の1912年、ジョギーニョを田舎町で見掛ける。これは母を懐かしんでの出没であった。リベロン市から西のビラドウロの町であり、この町には長兄テオフォロも住んで居た。幼友達ランジェルも住んで居り、殆ど視力を失い、不具者になっていたジョギーニョの成りの果てを、警察に届けるほどもなく死亡した。幼友達は極悪殺人鬼の埋葬まで見届ける。


 リベロン・プレット郡のランピオン・デ・ガス(北伯の盗賊)の小版とも伝えられるが、記述からみると、とても義賊どころか殺人鬼そのものである。

「Prisco da Cruz Prates」より要約、リベロン・プレット地方史で1971年9月出版。



リオ・フェーロ移住地


 この移住地造成には、バリーニャ郡在住の前村与吉、リベロン市の中尾安治、岩田武右衛門、クラビーニョス郡の矢野要氏等が参加した。


 戦後この移住地開植に当り、松原殖民会社を設立し、1952年10月15日にマット・グロッソ州政府との間に正式な契約書を交わし、同社はマット・グロッソ州のリオ・フェーロ付近に40万ヘクタールの植民地造成と分譲に取り組むことになった。そこへ国内から飛入りが出、それはこの40万ヘクタールの話がコロニアに伝わると、部分的にでも譲って欲しいと言うグループが出現した。


 この申し出たグループの、プレシデンテ・プルデンテ組は早速「マリオポリス農畜林産開発組合」を組織(略称・カッペン)し、1952年6月20日付けで入植者を募り、先発隊を送り出す。ここで同じリオ・フェーロ付近入植地についてプ・プルデンテ組をカッペンとし、松原安太郎氏が手掛けた植民地を松原植民地と二組に分けてみたい。ここをゴム栽培目標に開植され、原始林の中に道開きから始まり、明日への希望に向けて入植者達は頑張った。


 最初に、候補地設定には飛行機で俯瞰ふかんしたため、土地の地味までは把握できず、大変な強酸性土壌であり、雑作には極めて不適な状態で、開墾当初籾を播種したが思うほどに収量がなかった。このリオ・フェーロ地はクリチーバから462キロも離れる。そうした中、目標のゴム栽培の台木となるものを、パラチンガ河の流域に繁茂する天然ゴムの種子を蒔き付けた。1年〜1年半後成長した台木に芽接ぎを施す。当時ラテックス液が沢山出て成長が早く、寿命の長い改良種はFXー25とFXー3810種が注目品種であり、アマゾン方面で栽培されていたFXー25を芽接ぎした。アマゾン地方ではこの品種が最も成績が良好であった。ゴム樹は、植林後通常5〜6年経過して採液が可能になるため、その間の間作にコーヒー、胡椒、カカオ、カスターニャド・パラ(パラーナッツ)、グァラナー等の生産物があるが、ゴムを主軸にコーヒーと胡椒を三大作物として手掛ける。


 この植民地造成にはモジアナ地方でも募集があり、リベロン・プレット市に代理店を開設、付近の町であるジャルジノポリス、クラビーニョス、等モジアナ地域でも数名が参加した。

やや早く入植した隣接のカッペン植民地について。


 最初40万ヘクタールの面積にプ・プルデンテグループが割譲を申し込んだが、松原安太郎氏から断られた。そこで当時マット・グロッソ州のゴム栽培者組合理事長の協力を得て、20万ヘクタールの割譲に漕ぎ着ける。この土地の購入者の多くが主して北パラナ方面アサイ在住者約80人である。この奥地開拓のベテラン旧移民20家族によって開拓が進められたが、入植4年を経過しても生活のメドが立たず、殆ど全員退耕してしまう。この問題ある土地に沖縄から新移民を入植させようとした。


 そして、新移民が沖縄から1959年11月第1陣19家族は、これらの問題ある曰く付きの土地の入植を拒否した。マット・グロッソ政府側も事態を重視した。結局は大部分が現地に入植することで一段落したものの、入植後どのようにして生活していくかという、切実な問題が立ちはだかり、これには永年作物のゴム、またはコーヒー栽培にしろ資金の調達が絶対に必要であり、その間のつなぎ作物を手掛けるにしても、強度の酸性土壌では成果が得られない。更に12月に第2陣9家族(55名)、1960年7月17日に第3陣5家族(38名)、1960年10月には第4陣5家族(30名)が次々とカッペンに入植する。原始林の開墾に全力をそそぎ、永年作物のゴムや胡椒の植付けを始める。手始めに生活米の籾を蒔き付けるが、強酸性土壌のため僅かに伸びるが、殆ど収穫できない結果であった。食糧難にあえぎ、以前入植し植えられていたマンジョカとガンドウ豆で難をしのぐありさまであった。それでも手持ち資金がある間は何とか食い続いだが、その内に風土病のマラリアが発生し、多くの入植者が罹患し、不幸に七人の犠牲者が相次いだ。そして一家族、二家族と植民地を去りだして、1962〜63年ころには殆ど撤退してしまう。退却した人達はクリチーバ市、カンポ・グランデ市、またサンパウロ市にそれぞれの活路を見出しておられる。

旧移民の入植者で資金調達を進める中に、ゴム栽培をするならアマゾン開発庁管轄下のゴム銀行から長期分割払いの融資もあるが、この地域の地券はまだ政府の手に有るため、その融資方法も開けず、資金の欠乏から植付けた作物も管理できず退却した。



俳句 グァタパラ俳句会


恋猫の命減らして戻りくる  脇山千寿子


床の間に飾る一輪寒椿    脇山クララ


椿咲くスマホで送る花便り  菅原 治美


弱れども歩ける幸や青き踏む 富岡 絹子


よそ者は犬追い払う猫の恋  田中 独歩


咲く椿落ちる椿の散り敷いて 高木美代子


祖母の髪椿油で結いあげて  林 みどり


幼な児の丸き足裏青き踏む  近藤佐代子


〔次回兼題〕 青嵐、瓜、マンジューバ当季雑詠



【編集後記】


 3回目の補強コロナワクチン交差接種(ファイザー・mRNAタイプ)を受けた。副反応がコロナバックより強く、接種した局部が一日傷み、腕が肩より上にあがらなかった。この日は、日頃移住地に在住しながら、コロナ禍前からも見掛けることの少ない、数年振りの同年代の再会であった。

12月師走入りであるが、今年一年昨年に引き続きコロナ禍一色の年であった。多くの方々も3回目の補強コロナワクチン接種を終えたこと。明年は移住地入植60周年を迎え、節目を村民一同でお祝い出来るように切望する所存。


 今月号を持って、モジアナ地域の日系在住者を終了とし、次号から余白次第、2013年8月に編纂した「同窓の回想録」を掲載予定。編集者の身の回りの出来事であるため、私的記述が多分にあり、その点ご理解の程に願います。

bottom of page