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グァタパラ新聞2021年1月

2021年はじめてのブログ更新です。

日本では、1月8日から2月7日まで東京、埼玉、千葉、神奈川の首都圏4都県に2度目の緊急事態宣言が発令されました。私の住む関西でも大阪、京都、兵庫の3府県を対象に緊急事態宣言を発令されそうで、めっきり外出の機会が減りました。その分料理する時間が増え、結構楽しい時間を過ごしています。ちなみに今日は粕汁を作りましたー。もちろん白味噌多めの関西風粕汁です。寒いこの時期身体も暖まり大変美味しくいただきました。


そして、昨日ブラジルの林良雄さんからの定期便が届きました。サンパウロ州では1月15日から中国製コロナワクチン接種予定だったそうですが、ドイツ経由で中国人がアメリカ製のワクチン接種が問題となり、期限無しの延期となったということです。ブラジルでは各州ごとに別の国からワクチンを購入するんですって。やはり大国は違いますね。以下にグァタパラ新聞2021年1月の一部をご紹介します。

グァタパラ移住地の新年会(林良雄さん撮影)



グァタパラ入植者


◼️ 98 野津 春雄 島根県仁多郡横田町 1923年生れ (第5陣)


 *農家の二姉弟の長男、地域は海岸地帯と中国山脈の中間であり、県内では比較的平坦地で降雪量も少ない所である。米作が主な営農であった。青年団時代には元首相であった竹下登氏も共の団員であった。


 農学校卒、18歳で海軍志願大竹海兵団に入隊、諸海戦に歴戦。しかし晩年の軍人恩給では、一週間兵役不足で該当ならず。同字農家出で5人兄妹の3番目、タミヨさん(旧姓・和久利)と結婚。*


 終戦後郷里で営農に従事したが、小経営で東南アジア方面に土木で行ってみたかったが、グァタパラのことを新聞で知り応募、母を伴い一家をあげて入植した。


 第一作は稲、翌年採卵鶏、一年後肉鶏にかえ好況に恵まれ施設を広めた。のち再び採卵鶏専業に切り替えた。10周年の感想は「10年の苦難、体験をもとに各自の道に努力し、生産を高め一層経営の安定を計りたい。」



◼️ 99 香川 義信 島根県邑智郡石見町 1915年生れ (第5陣)


 高小卒後18歳で海軍に志願、真珠湾攻撃をはじめ終戦まで歴戦、終戦の翌日父は死亡、母も10日後亡くなり帰宅の時は丁度通夜の夜であった。実家は農家で自分は次男であったが、兄が未帰還のため農業に従事、後4反の田を分けてもらったが、小面積で駄目なのでグァタパラ移住を志した。


 初年度は米作、裏作は馬鈴薯、にんにく等をやったが霜害などで不成績。3年目から先づ肉鶏、のち採卵鶏にかえる。用地は低地をすてて宅地のほか丘地18haを取得。


 10年の感想は「またたく間に過ぎたが本格的にやるのはこれからだ。家族は円満に子供も独立、悔いない開拓生活をした。」



◼️ 100 寺内 実雄 島根県邑智郡石見町 1925年生れ (第5陣)


 高小卒後18歳で徴用、21歳で海兵団入隊、昭和20(1945)年8月6日広島市原爆投下炸裂後、1週間目に現場救援作業に出役、食糧の無い中十数日作業に従事、被爆も充分ありえる。


 終戦後、末っ子で3反百姓の家に養子になった。養父が中風で夫人と共に介護した。グァタパラ移住の呼びかけがあったので喜んで参加した。


 入植当初子供は小さく稼動力.は少なかったが努力につとめた。第一作は米作、裏作のフェイジョンもよくでき、また馬鈴薯も好、不況もあった。当初肉鶏も飼育、のち採卵鶏にかえたが興味を失う。1971年から養蚕を始め、宅地に桑園を作り、さらに4,5haを借地して桑園を新植、本格的に養蚕に取り組む予定である。


 10年の感想として「人に負けないような営農をやりたいと思い頑張った。とくに家内がよくやってくれ感謝している。営農確立一筋に励んで行きたい。」


*付記:広島上空580mでウラニュム235の原爆が爆破、その爆心地は1300ミリシーベルト(人体に受けた線量の単位をシーベルトSV)、これを胃のレントゲン検査で換算すると130回受けたと同じ位の線量である。


 1年間に受ける日本人の平均被爆量は5,97ミリシーベルトであり、その内2,1ミリシーベルトが自然放射線からの被爆量。健康に影響を与える可能性が高まるとされる量が100ミリシーベルト。これらの結果、爆心地に1週間以上も救援作業へ出役では急性放射線症も充分有り得る。 (一部グーグル引用)。



◼️ 101 藤井 武夫 島根県邑智郡石見町断魚 (第5陣)


 家族構成は夫婦と小さい子供達だけであるが、堅実に朗らかにやっており、始めから馬耕一点張り。入植初期ころは稲作であったが、養鶏に切り変える。渡伯6年目に実家を継ぐため帰国した。



◼️ 102 三浦 等 島根県鹿足郡日原町左鐙(さぶみ)一の谷 (第5陣)


 青年学校後林業試験場勤務、海軍航空隊入隊、終戦とともに営林署に復職。実家は四反百姓、夫人の妹がすでにパラグァイに、弟*義文コチア青年二次10回・1961年1月11日アルゼンチナ丸*もブラジルに移住しており、夫人の提案もあってグァタパラ移住に応募。夫人の弟田中松雄氏一家と二所帯で入植した。


 第一作の稲は共同で3ロッテを植付ける。裏作の馬鈴薯、玉葱、トマトは霜害などで不成績。三年目に肉鶏、採卵鶏を始める。用地は3ha、宅地3ha、雑作地18ha、構成家族は妻、長女春美、長男悟、次女敏江、三女澄子、四女圭子、五女、六女ひとみ。


 10年の感想は、「これから当地の発展が期待される。特に自分は日本の発展の基は教育にあったと思う。子供たちに十分の教育をしてやりたい。この10年間残した財産は子供の教育であったと思う。自分達も子供からブラジル語を教えてもらっている。」後年ブラジリアへ移転。


 移転に先立ち渡航前融資がジャミックに60万円滞納、それを土地の返済と棒引きにしてもらったが、それでもまだ30万円残り、国際協力事業団が一時肩代わりすることで決着。またブラジリアの土地は、妻の弟が2区画持っていたので1区画15万円で購入する。

(島根県南米移住史266ページより一部転載。)



◼️ 103 田中 松雄 島根県鹿足郡日原町左鐙(さぶみ)一の谷 (第5陣)


 入植ロッテは三浦氏と隣合わせ、住宅、鶏舎は自力建築で、健全な伸展ぶりを示している。マラソン選手である君原*(君原健二、1964~1972年代に日本を代表するマラソンランナー・首を傾けて走る独特のフォーム)*選手と同走した時代があった。脇山敏夫氏長女智子さんと結婚。その後ブラジリアに移転。前述三浦氏の義弟。*家族構成員であった弟、健次氏は家族全員で帰国。2007年1月末日本に於いて死亡。また妹、林エミ子さん(旧姓・田中)は結婚後ベレン市に移転、同地に在住する。*



◼️ 104 佐々木 栄太 島根県那賀郡三隅町 1920年生れ (第5陣)


 *氏の生地は三隅町大字井野(屋号・幸田)。農家三人兄弟の三男で戸主。氏の父親が佐々木家へ婿養子。そして斉藤家出身である。父親の家風(因習)では末男が家督となり、氏も同様であった。日本海までは徒歩で約一時間で到着した。冬の積雪時に多い年で50cm程の積雪量。山間部の道路は狭窄でうねうねと続く農道は、立木や山の出っ張りに遮られ、隣家の一隅が見えるだけで全貌できず、重い物は背板で本道まで運んだ。


 昭和15(1940)年1月自動車学校へ。島根県内には無く、隣の山口県に出向く。この経費が100円、当時玄米1俵16円30銭頃である。同年5月に同地域大字向野出身・7人兄弟の三女文子さん(旧姓・斉藤)と結婚。


 その後10ヶ月で現役入営。戦車部隊を希望するが、長身なので運輸部隊(兵站部(へいたんぶ))に配属、中支那、ジャワ島等が戦地であった。


 生地のこの地方棚田が有名で、1975年代には4,500枚の棚田であった。現在では1,300枚の棚田になってしまったが、早苗饗(さなぶり)・棚田祭を続けている。水がきれいなので米もおいしく、牛での農耕が当時は主流だった。稲作の他に葉タバコを栽培し、冬場の仕事に附近の人々と乾燥場を共にしていた。また、和紙等も僅かだが手掛けた。


 稲収穫後、棚田は下との段差が高い場所で2,5m位の所もあったにもかかわらず、ここが子供達が下の棚田へ飛び降りる格好の遊び場であり、下へ下へと飛び降り、中には田が柔らかくズボンの裾が泥染になっても下り続けた。*


 1962年グァタパラの話が出て渡伯した。第一作の米作は旱魃にあったが潅水して好成績。裏作では馬鈴薯、フェイジョンをやりどうにかできた。翌年の63年の裏作にトマトをやったが霜害で全滅。柑橘もよく育ったが、アムリン種は商品価値がないといわれ放棄した。用地は低地3ha、宅地1,5ha、雑作18ha。宅地にマラクジャ、また低地に苺を栽培する。後年雑作地に移転してから養蚕を始めた。

*暖かい所に、自身の意思で移住したので良かったと思う。晩年軍人恩給者でもあった。



【編集後記】


 3〜4方に真っ白な雨柱が立って、沛然(はいぜん)たる驟雨(しゅうう)が瞬く間に押し寄せるこの頃の雨。11月までには雨が少なく、低地では排水路まで地割れしていて、米の蒔き付け、レンコンの植え付けも出来なかった近年稀の雨不足が、12月中旬から毎日多量の降雨である。何とか米は蒔き付け出来たと言われるが、レンコンの方の植え付けは如何程であったかと案ずる。地中に残っていた物が芽を吹き、辛うじて復活を図っていると言う。パンデミックといい、地球温暖化での天候異変は世界的である。

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