グァタパラ新聞2021年2月
- 2021年2月26日
- 読了時間: 14分
更新日:2021年8月29日
先日、イッセー尾形の一人芝居「ワタシたちはガイジンじゃない」というNHKの番組を見ました。来日した日系ブラジル人の実話をベースに宮藤官九郎さんが脚本を書かれたということでした。
イッセー尾形、宮藤官九郎と聞くと、なんとなく笑いのある面白い芝居ではないかという先入観を持っていたのですが、それはいい意味で裏切られました。イッセー尾形が日系ブラジル人の過酷な生活を飄々と演じていて、その飄々とした演技の幕間に日系ブラジル人たちのインタビューなんかも紹介されていたのです。イッセー尾形の芝居も良かったですが、そのリアリティーと芝居のバランスが絶妙で、73分という長時間だったにも関わらず最後まで観入ってしまいました。そして最後には不覚にも涙を流していました。
HPで調べたら、最初ドラマを企画していたプロデューサーに、ディレクターから「芝居はどうか?芝居とドキュメンタリーの融合は初の試みだ」と提案されたそうです。いや〜これは企画の勝利ですね。そのディレクターさん偉い!!「ワタシたちはガイジンじゃない」は、コロナ禍で閉塞感を感じている今、前に進む気持ちになれる番組でした。
さて、ブラジルではワクチン不足で未だにワクチン摂取されていないという林良雄さんからの定期便が届きました。グァタパラ新聞2021年2月の一部をご紹介します。

レンコンの花
グァタパラ入植者
◼️ 105 上田 嘉一 島根県邑智郡石見町 1910年生れ (第6陣)
入植当初は稲作をやったが、旱魃をうけて不成績。3年目に養鶏を始める。4年目から養蚕を始める。交換分合で宅地6ha、雑作12ha、低地は放棄した。
10周年の感想は、「今まではあれをやって駄目、これをやっても駄目で実績は上ってないが、やっと行く先の道が見えてきたところである。」後年養鶏に主力を注ぐ。
◼️ 106 新田 哲三 島根県邑智郡瑞穂町 1922年生れ (第12陣)
*農家出で4人兄妹の長男。農業は僅かの田んぼと林業(杉、松等)に雑貨店を営み食料品が主であった。*
農家の長男であったが、足の関節が悪く懲役検査は丙種で兵役には服さなかった。*農家の三人姉妹長女の美代亥さん(旧姓・井坂)と結婚。そして、この地方豪雪地帯である。
美代亥さんの祖先は小笠原という姓で浜田城(別名・亀山城、石見国浜田、現・島根県浜田市殿町に構築された日本の城であり、2017年続日本100名城で170番に選定されている)に仕えた足軽百姓。また、祖母の兄弟に台湾2.28事件で副総監を勤めた先代が居た。* 一部グーグル引用。
本家の新田利氏(ジャカレイ地方へ入植)が一足先に呼寄せで移住したことに刺激され、県の勧めもあって渡伯した。
氏の10周年の弁として「自分には言葉がわからず、意見も子供達に通らなくなってきたが、子供には子供の考えがあるので思うようにさせている。喧しくない親爺であることが私の特徴であろう。私や家内の親戚は素性がよく、皆独立独歩でやるという気風で成功者が居ても人には頼ったりしない。いろいろやってみたが、低地の経営ではよくできた時は値段が安く今まで殆ど利益の上ったものがなかった。組合を離れたのは離れなければ経営の見通しが立たなかったからである。」
*付記:1947年に起きた台湾「2.28事件
」70周年が蔡英文政権により国家的事業として位置づけている。日本に代わり、台湾の統治者となった国民党政府による台湾人弾圧、虐殺事のことである。犠牲者総数は2万人以上であった。しかも余り公表されない。 *グーグル引用。
◼️ 107 落合 愿(すなお) 島根県飯石郡掛合町 1930年生れ (第14陣)
自家営農をしていたが、山間で積雪が深く、炭焼も木炭の需要が減り、前途が暗いので率先応募、氏の発意に促され姉婿の横木春由、近所の清水甲市氏も共に渡伯することになった。入植後低地の米作と柑橘園に力を入れたが、低地は排水が悪く、それでも初年度はある程度成績を上げることができた。裏作の馬鈴薯は成績が悪く、稲作も年々減収して行った。柑橘園2haには最善をつくして手を入れ、結実期に入って初年度300箱、2年度500箱の収量をあげたが、アームリン種の価格は安く殆ど収益にならないので放棄した。養鶏に着手は遅かったが将来養鶏専業を予定で低地は放棄し、雑作地24haを取得した。
10周年には父も健在でブラジルに移住したことを喜んでおり、「故郷は山村で若い者は皆働きに出て年寄りだけが残って細々と反収の少ない米を作っており、雪が深いが、こちらは暖かいので本当に良かったと思っている」とのことである。
◼️ 108 横木 春由 島根県飯石郡掛合町 (第14陣)
同氏は森林組合の指導員をしていたが、義弟の落合氏が移住について県と打合せ中、自分も移住の決心をした。入植後養鶏経営に先鞭をつけるものであった。コチア組合に勤め、一時リベロン・プレット市のコチア鶏処理場長をしていたが、肉鶏が減って閉鎖となり、その後コチア本部に勤めるものである。
◼️ 109 清水 甲市 島根県飯石郡掛合町 1921年生れ (第14陣)
*農家の男三人女二人の長男。
日本海側に面した島根県は降雪も多い所である。
昭和17(1942)年志願兵で陸軍入営、その後、落下傘部隊転属重機関銃隊に配属。
その内容はグァタパラ新聞2019年11月号に掲載したので、失礼ながら省略。
昭和21(1946)年帰還。*
自家営農を行っていたが、グァタパラの入植者の新聞記事を読んで応募。
入植当初米作で好成績、翌年から養鶏を始め、養鶏専業にしながら安定経営を計ろうとしている。
◼️ 110 和田 仁義 島根県飯石郡赤木町 1912年生れ (第14陣)
入植後米作をやったが不成績で、宅地に落花生や陸稲を栽培した。柑橘も植えたがサウーバの襲来を防ぎ切れなかった。1967年から養蚕を始め桑園12haで専業を予定している。低地は放棄して、宅地12ha、雑作24haを取得、養蚕の傍らいずれ永年作を6haやる計画、極力負債をさけたい。氏は「こちらの養蚕は日本で経験の無い人がよく、私は多少の経験があるが、自分の成績の悪い原因が未だにつかめない。稚蚕を2令で出した方がよく、夜間給桑も多い程よいなどわからないことが多い。」と言う。
◼️ 111 宇谷 忠作 島根県太田市長久町 1908年生れ (第14陣)
移住に際しては長男正夫・幸子夫妻、次男光次・みえ夫妻の各家と自分と3世帯で3戸分として入植した。長男の義弟馬庭得夫氏は1年遅れて(1964年2月)コチア青年として渡伯合流した。3世帯で共同経営をして雑作地66ha、桑園24ha、柑橘園20ha、低地6ha計120haの用地を取得した。正夫氏長女クラリッサ女児はグァタパラ生れの第8番目。
当初コンバインも導入し、21haの米作をしたが、不成績で放棄、また養鶏も飼育したが、組合の控除金が多くて利益も少ないのでこれも中止、子供の頃養蚕をやった経験で養蚕を始める。しかし将来は永年作を主体として行く計画で、現在(1972年)20haの柑橘園に4千本の成木を既に造成。
宇谷氏は「中国で多くの農業労働者を見、ブラジルで共同経営をして多数の農業労働者を使って大経営をしようと思って来たが、ポルトガル語がわからないので指図が出来ず、却って自分が労働者になっている。しかし徒らに多くの労働者を使うことは考えもので、養蚕は規模を拡大せず、桑園も10ha位に締め、集約経営にし、柑橘を粗放経営でウント拡大するよう増殖を図っている。いろいろやって見たが、こちらの農業はやはりブラジル的感覚で現地に適応して行くことが肝心だと思う」。共同経営は自分、長男と次女の夫馬庭氏の3世帯である。
◼️ 112 久保 千里 島根県那賀郡弥栄村 1926年生れ (第15陣)
昭和18(1943)年17歳で海軍衛生兵を志願し、大竹海兵団に入隊、19歳で終戦、帰郷して自家営農に従事した。土地が山間で発展性がなく37歳まで家業を守ったが、グァタパラのスライドを遠い村まで見に行って魅せられ移住を決意、養父母と女児3人を伴って、ただ一戸西廻りのオランダ船で渡伯した。入植当初は低地耕作に専念したが、水路の関係で放棄し、以来養鶏に専念することになった。また衛生兵として医療の経験があるので、無医村時代の応急診療に長く無料奉仕を行い、移住者から深く感謝された。
雑作地にユーカリを6ha植林し、将来の木材需要に備えると共に雑作地に分場を作る計画である。
10周年の感想は、「どんな経営をしても考え方によって優劣を生じてくるので、先づその経営に徹することが第一だと思う。各養鶏家のスライドを撮って皆に見せたところ、各戸の長短がよくわかって、その結果のあとは余程よくなった。しかしまだ日誌をつけている農家が半分位しかいないので、出納簿を配布して記帳を勧めている。強制換羽や淘汰にしても、卵価とにらみ合わせて経営線が出てくるので、その判断は自分で行うべきである。」
◼️ 113 高木 盛 島根県八束(やつか)郡玉湯町大字大谷 1917年生れ (第22陣)
7人兄弟の長男。父親が早逝そせいして居り、戦前から満鉄の荷物運搬請負に携わる。軍歴はあるが銃剣術訓練中にそれを胸部に受け、傷痍軍人恩給者であった。この地域県内では比較的温暖地である。
同県伊部・農家出身10人兄弟の長女幸さん(旧姓・福島)と結婚。
養豚飼育を手掛けていたが、温泉地域が拡大し、移動を余儀無く求められ、ブラジル移住に踏み切る。傷痍軍人恩給は、国を離れるとその資格を失ってしまう。
当時海外移住は、グァタパラ移住地が知らされており、この地に決めた。特に自分の兄弟が分散して居るので、家族が一ヶ所で生活出来ることを願った。
入植後豚を25頭位飼育し、また米作、落花生、フェイジョン、玉蜀黍の栽培を行ったが何れも思わしくないので早く養蚕に着目し、1966年12月から始める。1973年2月自宅内で作業中心臓麻痺で死亡。
子息正人氏は既に結婚しており、経営は殆ど正人氏が行って居り問題するものはなかった。用地は宅地のほか柑橘用地14ha、雑作30ha計45,5haを取得する
以上島根県出身者18戸。
◼️ 114 下原 朗男 山口県小野田市 1934年生れ (第4陣)
入植初年度は、割当られた低地が湿潤で使えず、他人の土地で玉葱を作ったが、揚水機がなくて失敗し、豌豆えんどうを作ってよく出来たが、曲っていたものは省いて真直ぐなものだけを出荷したので量的に少なかった。次年度は本ロッテで米作し、2m以上も伸びて大豊作が予定されたが、倒伏して70俵しかとれなかった。以後夏は稲、冬は苺を続け、苺は4,000コント位の収益が残ったが稲を3年続けたが排水不良で成績は上らなかった。ある程度資金が出来たので住宅の移転と家族の分散を行った。原因は宅地で井戸水が出なくなったことと、低地の収穫が不安定であったことで、柑橘用地を5年の契約で事業団から借りて現在の住宅地に移転した。
家族は分かれ、両親と弟達はリベロン・プレット市に移転、フェイランテ(露天青物店)をやったり、花を栽培し市内でバラ苗を作って販売している。
尚、下原氏は入植後実姉の嫁ぎ先、芳野重吉氏一家5人を縁故呼寄せで渡伯させたが、芳野氏は借地農として転々している間に病没したので家族を引取り同居していたが、岡山出身志茂平氏と姉はつ子さんは子供3人をつれて再婚、以後移住地内で生活をする。
後年カラグァタツーバ市に移転。
◼️ 115 植田 正人 山口県阿武郡阿武町大字福田 1927年生れ (第13陣)
*農家出の2人兄妹の長男。軍隊は召集され、終戦後垢と虱塗れの軍服姿で帰郷。
郷里が日本海側で毎年降雪がある地域であった。田畑が少なく借地農であった。
一人娘のキミ子さん(旧姓・佐々木)と結婚してから、農協勤めとなり現金収入となったので、衣食には困らなかった。
妻のキミ子さんは、佐々木小次郎とゆかりが有り、阿武町大字福田には小次郎のものと伝承される墓がある。*(グーグル参照)
渡伯の動機は、県拓連からアンケートがまわり、その回答から選ばれて引っ張り出された。後続の谷岡寿人氏と同郷である。
初年度の稲作はよくとれた。翌年から養鶏を始め500羽づつ4回やったが、採算がとれないので中止し、養蚕も4回これも中止。米作、苺、胡瓜などいろいろやったが苦闘の連続であった。この間キミ子夫人が戦争中実家でやっていた経験を生かして豆腐を作り、地区内で販売して生活費を稼いだ。将来は養蚕を主体にすべく雑作地24haをとって桑園の造成にかかっている。
10周年の感想は「入植前工事は完成していると言っていたのに、同船でポンプが積込まれるのを見てこれは大変な違いだと思った。それで入植後随分苦労したが、自分の運命は自分で切り拓く積りだ」とのことである。
*借地営農を嫌い、自分の畑を持てることが夢であり、ブラジル移住で自分の畑が持てたので良かったと思える。*
◼️ 116 斉藤 光夫 山口県宇部市 1917年生れ (第14陣)
*生地は大阪府堺市。3人兄弟の長男、黒龍江省の満州開拓団に入り現地で召集。終戦後にソ連へ抑留される。その間、家族兄弟は匪族や疫病発疹チフスに罹患し全滅してしまう。靖国神社に霊を合祀してある。
帰国後、エネルギー計画に参加で茨城県常磐炭鉱に入り、隣県の福島県西白河郡出身の甲子さん(旧姓・穂積)3人兄妹の長女と結婚。北茨城郡関本在の常磐炭鉱内宿舎において2男2女に恵まれる。
炭鉱は生産縮小や閉山で、親会社のある宇部市へ移転。この地に斉藤氏が先に出掛け、妻子は1年後に移りここで5年程生活する*
子息長一氏、入植後4年目に父は病死。氏は当時19歳であった。よく一家を支え、苺を植え付け好成績。丘地30ha取得、将来養鶏を中心に行く計画である。父を失ってから却ってよく経営を充実させ、組合内で称賛されている。氏は「必要に迫られたからやったので、青年には誰でもやらせればやるのではないか」と言っている。
◼️ 117 石井 政見 山口県都濃郡鹿野町 1923年生れ (第16陣)
宅地は幹線水路沿いで低いため水の便利がよく、落花生、玉葱作付け、また秋冬作にはにんにく、ピーマンなども作った。1964年には養鶏も500羽入羽する。
1965年6月、オートバイ事故。運動会会場作りの勤労奉仕後オートバイに一輪車を縛り付け、帰宅の途中転倒して失心し、すぐリベロンの病院に入院したが、脊髄神経をひどく痛めたらしく、その後徐々に快復しつつであるが、重傷で全快はできない程の大怪我だった。皆で助け合い手伝ってるが長期療養が必要。
1974年10月初旬、次男孝士君(15歳)が、自宅附近で雀撃ち中誤って暴発、散弾が胸に当り即死、大変痛ましい事故だった。1972年には養蚕を始める。
◼️ 118 岡 寿人(ひさと) 山口県阿武郡阿武町 1930年生れ (第26陣)
入植当初は米作、養鶏、胡瓜等の蔬菜作を手掛けたが何れも、今一であった。1969年から養蚕を始め将来の経営方針を見だす。所有地は宅地続きに4,5ha、雑作12ha計16,5haを確保し、今後養蚕専業を志している。
◼️ 119 伊藤 全弘(まさひろ) 山口県佐波郡徳地町 1928年生れ (第28陣)
*農家8人兄弟の6番目。兄弟が多い為16歳時には満州義勇軍に応募。終戦帰郷後、生地で暮らすが僅かの田畑で米作、野菜等自家消費程度の栽培であり、冬場は炭焼きを手掛けた。僅かの田畑なので、同姓の一人暮しの中風持ち老人から、身の回りの世話を手伝うことで借りて田畑耕作が出来たが、小石の多い畑であった。
同村出身農家4人兄弟2番目の章子さんと結婚。この地域山間部ではあるが、降雪は殆ど無く比較的温暖であった。
広い大陸の満州が忘れられず、ブラジルも大陸なので憧れた。虚弱の妻を案じて、移住には親戚一同が反対だったが、暖かいブラジルで体調も快復し健康になれた。
山口県の方言は口調も柔らかく、理解し易い。*
入植当初養豚、養鶏に従事したが、養蚕経営を始める。用地は宅地3,0ha、柑橘6,0ha、低地3,0ha、計12haを所有し、柑橘地の半分と宅地との計6,0haの桑園を作っている。また、大工の腕は確かなものである。
10周年の感想は「借金をしないようにやって来たので、小規模な経営ではあるが後悔なく誇りを持ってやっている。」
以上山口県出身者六戸。
◼️ 120 吉田 昌治 佐賀県杵島郡江北町 (第4陣)
佐賀県からの先陣で、入植の決意を固めて久しく待機した。
入植後米作に養鶏に営農成績もよかった。グァタパラの営農には見切りをつけて1968年ブラジリアに移転、それから間もなく自動車事故で家族全員入院する災害にあった。
家族構成は妻貞子、長女・美智子、長男・武弘、次女・和子、次男・寛、三男明。
後年、氏は藤井紘輔氏の移転先であるヴィトリア市で生活する。
◼️ 121 松本 重雄 佐賀県 (第6陣)
1963年にグァタパラ駅付近に10アルケールを購入して転耕。外へ出た原因は、低地のロッテ外保留地を試作地にすべく諒解を得て排水路を掘り耕地化したところ、組合で本ロッテ以外は共同開墾して公平な配分をするため一旦中止を申渡したので、それを憤慨したものであった。駅前の土地は、排水不良地で所有者がよく変っており、作柄も良くないので、関係者一同復帰を勧めて居る。1963年2月3日男児誕生ベントノ永文、グァタパラ移住地生れ第3番目。
◼️ 122 脇山 敏夫 佐賀県唐津市半田 1917年生れ (第9陣)
*田6反、山林2町歩六人兄妹の長男。米作、みかん等の営農だったが、面積が少ないので農地を借りる時もあった。*
適齢現役で満州独立守備に配属され、ソ連国境の虎頭に昭和13(1933)年~15年まで勤務。現役を終って農業に従事していたが、昭和18(1943)年召集をうけ、久留米48連隊としてマレーシャ・ボルネオ島に派遣され、戦局が悪化し終戦まで山中を彷徨ほうこうした。21(1946)年4月帰郷時は29歳、伍長であった。
*農家出身の7人姉弟長女千枝子さん(旧姓・木下)と結婚。*
佐賀県拓連の山田事務局長が開拓地にグァタパラ移住を勧誘に来て盛んに話したが、開拓者は経済力が弱く行き手がない。県がグァタパラに土地を買って居る聞き、人が行かねば困るだろうと思い、南方の経験もあり、移住に関心をもっていた。すると遮二無二勧められ移住しようと思い渡伯の決心をする。同氏は今一船早く乗船できるはずであったが、揚排水機を移住者の携行荷物にしないと通関がむづかしいので、ポンプの製作と合わせて一船待機してもらった。
息子達がやって見たいというものは皆やらせて来たが、次第に的を絞って経営を集中した方がよいと皆がわかって5年位前(1967年)から専業養鶏の方針を定めた。
*日本では色々と周囲の昔ながらの柵や煩わしさを、ブラジルへ来て開放され好きな民謡などを始め、大変明るくなった妻千枝子さんだった。
脇山と言う珍しい姓だが、唐津市周辺に居るようである。*
【編集後記】
体調を崩し、出来るだけ密集を控えている。
数々の精密体調検査をしたものが、数日後に知らされ、自粛を余儀無くさせられ筆を折ることの一抹の不安であるが、取り合えず健康回復が先決。今回インタビュー出来なかった関係者の皆さんには、別の機会にさせて頂きますので、その折には宜しくお願いいたします。

林良雄さんの奥様の緑さん
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