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グァタパラ新聞2020年11月号

  • 2020年11月9日
  • 読了時間: 11分

更新日:2021年8月29日

大阪都構想の住民投票、アメリカの大統領選挙と、僅差で結果が決まりました。これからは分断ではなく、共に協力してより良いまちにしていってほしいものです。

林良雄さんよりグァタパラ新聞11月号の一部が届きましたのでブログで紹介いたします。


グァタパラ入植者


◼️67 小林 一郎 長野県飯山市飯山 (第14陣)


 上村、倉持両氏と同開拓出身。

 入植後は苺の栽培農家として成績をあげていた。

 家族は、長男は経営を確立させておいて日本に帰国。この人、鶏の解体には大変優れており婦人の講習会でその腕を披露してくれた。次男(とよみ)さんは結婚してブラジリアに移転し苺栽培をして成績をあげている。長女(富江)さんもグァタパラ入植者鈴木重延氏三男洋吾君と結婚してブラジリアに入植独立しておる。



◼️68 小林 均 長野県小県東部町  1916年生れ(第14陣)


 *田三反農家の8人兄弟の長男。19歳時に海軍志願兵となる。戦地への歴戦は支那事変時だけであった。横須賀鎮守府が置かれ、軍港として整備、発展する。ここの軍医付き兵役で、27歳に同郷のキミ子さんと結婚し、準士官の軍歴11年、内地で終戦を迎えた。


 終戦後、半年前後に地元の奈良原開拓に入植する。この開拓入植地で高冷野菜や酪農などを手掛けるが、面積が小さく、長男は冬場スキー場で働いた。降雪量も多かったが18年継続した。*


 グァタパラ構想に魅せられ移住した。米作、養豚、養鶏色々とやったがなかなか結果を上げえなかった。200頭まで飼育した養豚もやめ、養鶏は現在(1973年)1,500羽、米作では蓬莱米(ほうらいまい)反当15俵の記録もつくった。米田裏作の玉葱、キャベツを作ってきたが生活費を賄った程度である。将来は永年作物を重点として行く方針で、30haの用地取得。



◼️69 入田 孝雄 長野県上伊那郡中川村  1928年生れ(第14陣)


 入植以来米作を続け今年(1973年)は1,5ロッテ田植して260俵の収穫を得た。養鶏をやったことがあるが、7年前から養蚕を始め、桑園6ha前年度は掃立430g、1,177kgの収繭。宅地に400本の柑橘がある。義母の感想は「借金さえなければこんないい所はない。故郷には妹一人が残っているだけだが一度帰って見たい」であった。1963年7月10日三女千鶴子誕生、グァタパラ移住地生れ第6番目。



◼️70 雫田 勝 長野県北佐久郡望月町 1922年生れ(第14陣)


 *氏の生地は北佐久郡今井。7人兄弟の末っ子。16歳で満州開拓青少年義勇軍に応募。中国語が堪能であったので、兵役中に通訳を兼ねて台湾にも出掛けた。


 昭和22(1947)年に帰還し、同県西長者原開拓組合に入植する。農家の農業生産物を買い付けたりして東京へ運んだ。同県出身の千秋さん(旧姓・山浦)と結婚する。


 渡伯前に就職口はあったが、ブラジルの方に興味があり、これを選ぶ。*


 兵役中台湾にいた経験で、ブラジルが台湾と気候や緯度が似ていることに興味を持ち移住することになった。


 入植後水稲、養鶏、養豚などをした後、サンパウロに出て露店商をやり、最近(1973年)グァタパラに復帰、週2回サンパウロから切花を仕入れリベロン・プレットで販売している。以後一貫してフェイラ(露店商)に従事する。

*本人の希望で渡伯したので、満足で有ったと思う。*



◼️71 上原 久司 長野県上水内信濃町 1926年生れ(第21陣)


 上水内郡北部農高(現・県立北部高)卒業後県庁に勤務、一旦入隊したが終戦とともに復職、以来20ヶ年耕地課(現・農地整備課)建設機械を担当し中堅であった。1961年天竜川の決壊で死者、方行不明者136人の被害を出した「36災害」では、現地入り、農地復旧に当った。


 県庁を退職、妻子4人をつれて入植。但し氏の移住の夢には大きな難問にぶつかった。氏は信濃町で約1,5haの田畑を耕作する農家の長男であり、両親と弟に後事を託さなければならない事情があるからだった。海外での前途を心配する両親、親類の中には「平凡であるが公務員で長く暮せばよいではないか」と反対の意見もあがり、妻の協力で難色を示す両親を説得するものであった。


 入植当初米作もやったが、家族構成に鑑みて、いち早く養鶏を主体として一筋に進め豊富な技術で建築や整備に工夫をこらすものである。



◼️72 岡田 欣一 長野県上水内郡牟礼村 1933年生れ(第23陣)


 子供のころから海外雄飛の夢をもち義兄の丸山茂氏と共に入植する。


 入植後養豚60頭を飼育、乳牛も11頭飼い、また稲作も4,5haで210俵収穫したが、経営の大転換を決意し、宅地を丸山氏に提供、代りに雑作地を貰って移転、人力開墾を営々として続け、現在(1974年)桑園13ha、果樹1,800本を育てた。また、自主的交換分合の先駆者であって、養蚕のほか永年作を着々として育て上げ柑橘は結実期に入っている。用地は34ha、植付済22haほかも殆ど開墾済みで堅実に永年計画を実現させている。



◼️73 丸山 茂 長野県上水内郡信濃町大字大井 1927年生れ(第23陣)


 農家の五男、17歳で海軍志願、少年通信兵となり木更津航空隊に所属、20歳で終戦となり、帰郷後兄達と農業を行い、後飯綱高原開拓組合に入植、酪農経営を行った。


 入植後は日本で、ブラジルでは乳牛だけは飼うなと出荷先から強くいわれていたので、乳牛の飼育はやらず、トマト、胡瓜の蔬菜栽培を主とし、稲作も約6haやったが程なく止め、ポンカンを主とする柑橘園の造成に重点をおいて、岡田氏の用地と交換して宅地附近を拡張、現在(1974年)16haにポンカン、ムルコッテ(温州みかんを大にしたような品種で手剥可)各500本を育て、既に結実期に入り、良品を昨年1,000箱出荷した。


 後年娘の嫁ぎ先であるインダイアツーバ市で余生をおくっている。



◼️74 平林 常治 長野県北安雲郡白馬村 1923年生れ(第24陣)


 白馬村の落倉開拓組合で苦労、県からの勧めで渡伯。


 入植当初米作に従事したが、火災で自宅全焼、その後怪我をする等不運が続き、近い内養蚕を計画中。



◼️75 伊沢 義男 長野県上水内郡信濃町(第24陣)


 入植当初養鶏で可なりの成績をあげていたが肉鶏飼育で失敗した。入植3年目でブラジリアに移転した。



◼️76 金箱 淳 長野県北佐久郡浅科村 1926年生れ(第32陣)


 *氏の生地は北佐久郡五郎兵衛新田村、4人兄妹の次男。この地で24歳まで生活後、北海道へ移転される。*


 北佐久農学校畜産科卒、自衛隊に入り、その後酪農を志して北海道月寒の黒澤牧場に行き、後千歳の信濃開拓団に入る予定であったが、自衛隊の屯田村を作る計画の先陣として釧路に入植(1956年)。

*翌年の57年8月なつさん(旧姓・山浦)と結婚される。*


 入植し7年間17頭の乳牛を飼育して屯田村の経営確立に努力したが、自衛隊本部が煮え切らず計画を放棄して了ったので、在伯の伯母を頼って渡伯しようとしたが、財産整理に手間取り、その間グァタパラ入植することになった。入植後岡山・東勝氏転耕のあとをうけて2ロッテ所有者として米作、養鶏を営む、以後一貫して養鶏に専念する。



◼️77 宮崎 正弘 長野県篠井市塩崎 1936年生れ(第32陣)


 入植時の戸主であるが、入植後ほどなく親戚を頼って移転、一時日本に帰国したが再度ブラジルに戻り現在モジ・ダス・クルーゼスで自動車修理業を行っている。

*茨城県波崎町出身の勝代さんと結婚し、二男二女に恵まれる。*


 氏の家族は事実上、弟の徳忠氏が中心で、更科農高卒、兄の正弘移転後両親と住宅を建て、低地米作に取り組んだが、その後雑作地に蚕室を建て桑園6haを新植し、米作も小規模にした。最近転耕する石崎耕三氏の宅地や潅水設備を譲り受け本格的に営農する考えである。後年レンコン栽培とその販売で経営が充実している。

以上長野県出身者19戸である。



◼️78 真名子 喜徳 岡山県岡山市浦安南町 1922年生れ(第2陣)


 昭和13(1938)年17歳で第一次満豪開拓青少年義勇軍として渡満、成吉思汁訓練所を経て在満の近衛師団に入隊。現役除隊後原隊である北安省蘇家義勇軍隊開拓団に戻って開拓地の建設に従事中、再び召集をうけて現地部隊に入り、新京で終戦を迎えたものの、ソ連に拉致され天山山脈を越えたシベリアのアンクレンで三年強制労働に服し、昭和23(1948)年12月に帰国。27年岡山の児島干拓地に入植したが、気象観測所設置のため用地買収となって渡伯。将来の用地としては、現宅地のほか、雑作地と余剰地に21haを取得して大規模養鶏の計画をもっている。


 入植10年営農の推移


 グァタパラの農業生産の主体であります低地水利地区の点から申しますと、低地裏作が農業生産の重点であり、初年度第1次〜第4次入植者は、コチア産業組合の営農指導のもとにトマトを主体に冬作を始めたのであります。トマトが丁度三段花の時に6月下旬と7月上旬に大霜にあいました。グァタパラには霜が降らないということでありましたが、入植第1年目で無残にも低地の裏作に大きな暗影を投げかけたのであります。それでも一部の人は霜にあったトマトの茎を切り根から芽を出し、最後まで研究を続けた人達もありましたが、殆ど収益は上らなかったのであります。その内に入植者も増し、夏作準備にとりかかり、耕地の共同開墾、整地を行い、夏作に間に合う入植予定者の分までも行い、9月から稲作の植付に対しては本業でもあり、懸命に農作業を行ったのであります。収穫期になってみますと、地力差が大きく見えて来ました。また、収穫してみますと草丈によらず収量が少なく、3haでよいところで籾60kg 入120俵どまり、悪い所では40俵と差がつきました。それでも稲作に対する希望は大いに持っていたわけです。


 1962年9月の入植者のうち3家族が500羽の副業養鶏を始めました。また、稲の収穫後霜は毎年ではあるまいと云うことで一部には馬鈴薯、フェイジョン(ブラジルでは米と同じようにこのフェイジョン豆を食べる)を、また宅地を利用した野菜作を始めました。一部では昨年に続き霜害をうけましたが、昨年程の被害ではなく、作付時期を選べば何とか出来るのではないかとか、また霜に強い野菜を選んだらということを考えさせられました。第2年目の稲作もまずまずの生産量を得ることが出来ました。しかし初年度に比較すると草丈も短く収量もかなり下がり、地力の減退が大きく見えて来たのです。3年目の裏作も一部の積極的な人達によってフェイジョン、メロン、トマトその他の野菜が取り入れられ熱心に作業が行われましたが、実に大きな霜害に出会って殆ど全滅となり、低地裏作も行き詰まりとなりました。その後は限られた霜に強い作物、キャベツ、玉葱、にんにくなどになり、これ等の作物の研究が進められるようになってきました。しかしこの頃から3年間の裏作の不振から資金に全く行き詰まりを来たすことになったのです。また一方稲作に於いても、インフレが年100%という状態でありますのに、米価は初年度6クルゼイロ、第2年目も同じ価格、3年目は5クルゼイロと生産費を割ってしまいました。そこで3年目から養鶏、養豚、養蚕の研究が急速に進められたのでありました。以下省略。



◼️79 守屋 純雄 岡山県倉敷市生坂 1923年生れ(第2陣)


 国際農友会の第四回派米実習生として、1955年2月渡米し、12月に帰国、岡山東部六ヶ町村の園芸組合を作って、トマト、胡瓜、セロリーなどの栽培と共同出荷を指導して成績を上げていた。渡伯後も共同蔬菜経営を計画し実行に着手したが霜害に遭って分散した。


 毎年米作を広く行い優良な餅米を生産して特別販売を行い、葡萄栽培のほかにイグサの栽培を研究し、従来ブラジルで生産されていない丸イグサの生産に成功した。日本では畳表の製造を行って入賞しており、機械さえあれば日本同様の畳表の生産が出来るようになっているが、機械の導入がむずかしくて行き悩んでいる。米作を主にした営農内容である。



◼️80 藤山 積 岡山県倉敷市玉島八島 1927年生れ(第2陣)


 現役として豊橋の騎馬連隊に入隊、徐州戦線にも従軍して在支3年、終戦後の引揚で郷里に帰り、兄の手伝方々果樹園の下草利用で乳牛飼育を行い、酪農青年連盟から表彰を受けた篤農青年であった。グァタパラ入植後も酪農経営を志し、16〜17頭の乳牛を導入して優秀な搾乳記録を出したが、牧草を栽培して日本式に刈取って来て給餌する、やり方では手間賃も賄えず、野外牧柵に放飼したところ、仔牛が暑気に負けて死亡したり、種牛が蛇に噛まれて死亡するなどの災害で3年で放棄し、牛を売って豚を買い100頭位の養豚を始め、甘藷栽培と併行でやる計画を進めたが、飼料に行き詰まってこれも中断。その後中央市場の生産物を見学し、自分なりにグァタパラに適した作物を物色した結果、レンコンに着目。日本での経験を活用し、日系人から種茎を分けてもらい、低地に栽培を開始した。ところがこれが非常な好成績で、昨年(1971年)から収穫期に入り、現在0,8ha作付けて24トンの収穫を予測し、17kg入箱で65コント位しているので年収9万コント(約450万円)。ただ需要が少ないので毎週25箱位ずつをサンパウロの中央市場に出荷している。


 尚、パイナップルの栽培にも力を注ぎ、現在(1972年)宅地続きに7万本を栽培して優秀な成績を収めて居る。さらに雑作地に8万本を新植し、将来100万本に拡張し、これを専業に年中出荷可能の工夫をこらしている。



【編集後記】


 猛暑続きで、僅かの鶏飼いだがこの暑さで、ケージ飼育の鶏が東西建ての鶏舎内で、それも上段左右を問わずバタバタと死んでいった。数年後には止めようとしているので、殆ど施設改善を施していない。それでも堪らず、友人のアドバイスで全鶏舎屋根上に点滴潅水用ポースを両屋根に設置した。大変効果があるものの、今度は水圧不足で二鶏舎ずつしかできないが、それでも舎内の温度が4〜5度低下し死亡数が随分減った。

その後、慈雨までにならないが、降雨で外温が低下し一安心したが、降水量の大変少ない今年である。

 
 
 

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ズモン耕地 03
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延べ10キロの水路
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グァタパラ耕地内のコーヒー園に並ぶ日本移民(1920年頃)
アルベルチーナ駅
1889年ころのグァタパラ耕地
グァタパラ耕地コーヒーの樹海
生産物馬齢薯をラバの背につけて市場迄
ヅモン路線列車
リベイロン・プレットモジアナ駅前・
モンテイロ駅
grupo escolar 1996
puericultura, lactario, farmacia 1992
拓魂
別れのテープ
サンパウロ市ルース駅
ドラムカン風呂で入浴

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