top of page

グァタパラ新聞2020年10月号

グァタパラ新聞10月号の記事が送られてきましたー。

メールを頂いた13日の時点では、「40度を超える日が2週間も続き、外温が35度以上になると鶏が熱中症で、サンパウロ州で飼育されている30%が死亡しました。グァタパラ移住地もごたぶんにもれず、酷い被害です。私も果樹栽培や野菜栽培に使用する点滴潅水を鶏舎の屋根に設置し、屋根瓦を水で冷やしております。大変効果的ですが、今までに使用していた水道管が細く全部の鶏舎に設置しましたが、一鶏舎ずつ濡らしても効果大なので続けております。」とありましたが、今サンパウロの気温を確認したら19度なので、だいぶ暑さは落ち着いてきたのではないでしょうか。

グァタパラ移住地中央2020年10月末現在(林良雄さん撮影)


グァタパラ入植者


◼️59 田中 郡共 長野県木曽郡山口村  1937年生れ(第1陣)


 父佳、母ちさ以下6人の子女を含んだ9人家族で入植する。姉さきさんはカウカイアのコチア青年鈴木尚良(愛知県出身)氏と結婚。養鶏農家である。妹さちさんは一陣の同船相馬国男氏の甥で入植し、現在(1965年)事業団に勤務中の栗原桂一郎氏と結婚、妹米さんは、山形・菅野寅雄氏の長男一義君と地区内結婚。本人は昨年(1971年)母県岡谷から宮坊勝子さんを花嫁移住で迎えた。また弟万吉君は水利組合の揚水機担当者として勤務。この大家族は、自家経営の確立に役立つよりもむしろ次々に独立させるために本家の経済は圧迫をうけてきた方が多かった。


 日本では、水稲と養蚕を経営し、グァタパラの水田計画に魅力を感じて入植したが、低地割当ロッテの立地条件が悪くて不作が続いた。用地をまとめる為と水利をうるために一昨年(1970年)6月現在地(本部から10km、入植者中一番遠い)に住宅を移転した。自力で全てをやり、仕上げた。しかし移転に資金を要したので、養鶏をやめた。

 昨年(1971年)は蔬菜を作ってみなはずれ、あと20日で出荷できるというトマト1万本が9月の雹で全滅し、その後また10月に雹が降って胡瓜など次の蔬菜や果樹苗がやられた。現在桑園2haを造成。将来は永年作を主体にする計画で、コンデ(果実の一種)を2ha植えており、柑橘の苗も育成中である。

入植以来霜害に悩まされ、霜に強い物ということで低地の玉葱に力を注いだが、ついに駄目であった。石灰を平方米当り1kg必要なところ300gしかやれなかったせいであった。現在のところも酸度4,85度苦土石灰1kgやってやっと物がとれるようになってきた。養蚕に営農形態を変えたが、近くに製紙工場が建設され稼動すれば公害問題を案じブラジリアに転耕する。



◼️60 井出 勝一 長野県佐久市内田  1920年生れ(第4陣)


 高小卒業後6年東京で商店に勤務、帰郷して蚕種販売の外交をして適齢となり、第22師団に属して7年間南支で歴戦、ベトナムに入り、ハイフォンを中心にビルマ作戦に従事中終戦となり、21年6月軍曹で引揚げ帰郷したところ、父はすでに死亡して母と妹の二人きりとなっていたので稲と養蚕の自家営農を継いだ。たまたまグァタパラ構想を聞き、長野県下からは最初の応募者として入植促進のため上京して他県の有志と共に関係当局に陳情をした。

 入植時の家族は8人、母やえさん(73歳)、夫人佳子さん(43歳)、長男大(はじめ)君(14歳)、長女妙子さん(12歳)は後年同県入植者の中塚甚吾氏の三男光男氏と結婚、次女直子さん(10歳)、三女敏子さん(9歳)、次男正君(6歳)。


 営農の経過は、入植第一作の稲作で1ロッテ180俵を上げたものの2年目は旱魃にあって減収し、3年目は地均しをし、表土を削ったために3ロッテを手掛けて30俵しか収穫できなかった。それで丘地経営に転じ、宅地先の保留地2haを借地し、水路を掘り、馬鈴薯作りをしようとしたところ、病気で1ヶ月蒔き付けが遅れ、降霜があった結果、これが当って揚水機や鉄管を買うことが出来た。しかし2年目西瓜を作って霜害に遭いやっと出荷したところ、8トンずつ2回出荷したがコチアで精算してくれず11ヶ月遅れて精算書が来たら赤字となっていた。当時市価35ミルレースであったのが精算書では18ミルレースとなっていたので以来継続出荷の意欲を失った。


 10周年の感想は、「もっと自由であれば良かったと思う。他の移住地を見ると3アルケールでもまとまっているので利用できるが、グァタパラは土地がまとまっていなかったのが大きな欠点で、自分の場合も雑作地は手をかけずしまいであった。出発の時県でも行って見ていなければ頑張らないで自分に合ったところに移転してやれと云われ、息子も早く見切りをつけようといったが、もう一作、もう一作と思ってやってきた結果、膨大な負債を作って動きがとれなくなった。昨年トマト3万本を作ったが、非常な安値で買い手がなく、トラックに200箱積んで遠い町に持って行ったが半年後の精算で120コント(6,000円)にしかならず生産費に124,000コント(620万円)をかけてそれがすっかり負債となった。これは知人の好意ある肥料融資であったが、非常な迷惑をかけており、現在のトマトでやっと利子を支払った程度で、旧債が多いのでその後のトマトで2~3万コント(100万~200万円)をあげたが、銀行の負債を償還した程度で、個人的に融資をうけた肥料代などは大きく残り、もう少し融資がまわれば永年作をやりたかったが、その収穫まで持ちこたえられない状況である。グァタパラには土地配分の誤りのほか、無用の統制があって随分多くの損失があり、これからが再出発の時期であるが、この間に出来た旧債の重荷に耐えて現状を乗り切って行けるかどうかと本当に心痛している。」後年タイウーバ市で余生をおくっている。



◼️61 中塚 甚吾 長野県下高井郡中野田上  1906年生れ(第7陣)


 青年時代東京の青物市場に勤めたことがあるが、昭和17(1942)年満州移民を志望、新京郊外の信濃村開拓団に入植、さらに転じてハルピン郊外の東京開拓団に入り、蔬菜経営を行い、昭和22(1947)年引揚げた。実兄が戦前サンパウロ州アリアンサ移住地に移住していたので、多少ブラジルの認識はあり、グァタパラに率先して応募。


 入植当初米作を行い、200俵位の収穫をあげたが、多年蔬菜栽培の経験があるので、玉葱、西瓜などを作ったが水利が悪いので宅地を放棄して保留地を開墾、蔬菜作りに専念。さらに現在の場所に雑作地24haを獲得して12haにトマト、胡瓜(4〜5万本)を次男の家族と共に栽培している。


 10周年の感想を求めると、「自分の信念は真面目に農に生きるとのことで一金に心を鞭うたれ、誠の宝は心なる一ということを信条として余り価格の変動に心を煩わさない。満州移民もグァタパラ入植も、あるがままに農の道に励むだけで、入植したことを喜びとも悲しみともしていない。」



◼️62 中島 水哉 長野県南安曇郡穂高町  1913年生れ(第8陣)


 韓国で育ち、第20師団で現役、昭和18(1943)年召集をうけ、トラック島の守備につき20年帰還、長野県内の開拓団に入植したが、グァタパラ移住の勧めで一家3名で入植した。


 10周年の感想として「営農面では各人が勉強を積んでおよそ自信をつけたが、子供の教育が出来ておらず、一世の15〜16歳位の子供は、ポルトガル語も中途半端で次代の後継者として寒心に堪えない。子供たちは娯楽が乏しいといい、バイレ(ダンス会)に行くことを親が反対するといって非難しているが、ブラジルでは18歳以上でないとバイレに入れず、18歳未満は午後10時以後の単独行動を認めない規則が厳重に守られているが、日系社会は、ブラジルの悪いところだけを真似しようとしている。移民は経営が安定しても二世が育たなければ意義がない。もっと皆で真剣に子弟の訓育を考えなければならない。」と語る。



◼️63 古田 春雄 長野県小県郡和田村野々入  1931年生れ(第13陣)


 長野の開拓地は気温が低く石が多かったが、グァタパラは暖かく石がないと聞いて応募した。


 初年度の稲は出来過ぎて倒伏し、2年目は2,5ロッテで400俵とれた。直播では年々収穫量が減るので田植えに切りかえたが労力に悩みがあった。入植の翌年から養豚を始め最高120頭位飼育し、好成績でハンプシャーの種豚を供給していたが、宅地が低いせいか回虫がふえて繁殖が悪くなり中絶した。用地は宅地1,5、低地3、雑作地12、余剰地3各haを確保し、低地で米作を行いつつ永年作を拡充して行く計画である。各種組織の役員をたのまれて経営上損失があるので組織の簡素化を力説している。後年養蚕に変る。



◼️64 鈴木 正昭 長野県西西条鬼無里(きなさ)  (第13陣)


 入植後養鶏農家として、また稲作もよく、堅実な経営とみられたが、リベロン市の小工場主をパトロンとして、その所有農園に転出。本来真面目な人柄であるが個人的な独立経営を望んだもののようである。


 教育者の叔母に日本の財産をすべて渡したので、携行資金が少なく、家族構成も弟健二君を含むだけで労働力が乏しかった。



◼️65 上村 孝之 長野県飯山市飯山  1932年生れ(第14陣)


*氏の満州開拓を詳細に記してあるのでそれに触れたい。


 父親孝平氏と家族8人で、満州国濱江省延寿県中和鎮信濃村に昭和14(1939)年に入植。孝之氏は当時7歳であった。


 住居は泥壁で屋根は萱ぶき、窓は二重作りで外側は板張り、内側ガラス窓、温突(オンドル)ペーチカの一部屋が、殆ど各一戸の農家に作られていた。

冬場は、厳寒を凌ぎ易くする、保温に必要な薪の材料集めを、馬橇で引いた。防寒に防寒服、防寒帽などは満州で求める。


 農作物は一般に、大麦、小麦、トウモロコシ、高黍、餅粟、大豆、小豆、馬鈴薯、水田、馬の飼料の燕麦。

家庭用蔬菜、ナス、白菜、大根、キャベツ、唐辛子、ニンニク、南瓜、マクワ瓜等。そして、主食は米と同量の餅粟を入れて食べていた。穀物の脱穀は氷の張る頃の晩秋に、野積みした農作物周辺に前日、土均し上に夕方、水を撒いておくと翌日は、カチカチに氷が張り、穀物の束、株などを広げムートコン(コンクリート・ローラ)を馬で引かせて脱穀をした。


 学校は日本の教科書使用、体操などは全て日本式で適齢期には入学する。

昭和20(1945)年8月15日方正に向って逃避行、松花江に引揚船が迎えにくるとの話であったが、その交渉が遅れ方正で越冬。外気が零下30度内外まで下がる厳寒の候、温度を取る薪はなく初秋頃は枯草を燃やすが、降雪頃になると、燃える木は全て燃やし、逃避所内では家屋が倒れない程度まで木製の物は外し、電柱は既に遮断されていたので、これらも薪にかわる。最後の頃は棺桶に使われていた板まで剥がして燃やした。


 厳寒と栄養失調で沢山の人々が死亡。春先に前の開拓地中和鎮に戻る。その年昭和21(1946)年夏場にハルピン新香坊収容所に強制収容。そして、葫蘆島(ころとう)より長崎県佐世保港に入港下船を目前とするが、検疫の為一週間足止め。体全身にD.D.Tを撒かれ虱退治。引き揚げ中殆ど青物を食べなかったので、船内でさつまいものつるが入る味噌汁が大変おいしかった。満州開拓地から無事帰郷出来たのが4人であった。

(編集者の叔父の満州開拓地でもあった。)*


 長野県飯山同開拓地の小林一郎、倉持氏と共に渡伯した。


 入植後、米作、玉葱、キャベツ等のほか養鶏も500羽から始めたが、これを伸ばすため蔬菜を作ったが極力自己資金で経営の充実を計ることとした。以後養鶏専業に専念する。



◼️66 倉持 正一 長野県飯山市飯山  1925年生れ(第14陣)


*氏の生地は茨城県筑波市平生。飯山開拓時に新潟県出身の正子さんと結婚、三女までこの地で生れる。牛飼いと米作なども手掛けるが、北信の豪雪地で冬場6ヶ月近くは雪の中にあり、冬場は出稼ぎで東京方面へ出掛けたので、その間夫人の正子さんが留守居をし子供達や牛の面倒をみた。*



 入植ロッテ湿潤で耕作に不適で、山形・鈴木辰雄氏転耕後の住宅を買い、その低地に苺栽培を始め苺栽培の先鞭者である。米作は3haに田植して150俵収穫。用地は交換分合で低地6ha、宅地1,5ha、雑作地6haをとり、柑橘500本を定植、来年(1974)から養蚕を始める計画である。

*グァタパラ移住地内で、有賀氏と共に大工を手掛けるようになり、その中でもピニャール移住地の図書館造りに一年近く出掛けた。この頃が人生で最も遣り甲斐を感じた。*



赤ちゃん誕生

 去る9月1日、E区在住の井上操氏長男徳雄君・レチーシアさんご夫妻に長男トーマス・健太郎君が誕生されました。おめでとうございます。

 去る9月9日、BC区在住の雫田勝秋氏長男正彦君・優子さんご夫妻に長女・恵利奈ちゃんが誕生されました。おめでとうございます。

訃報

 去る9月25日、BC区在住の入田孝雄氏(享年92歳)、長野県上伊那郡出身(第14陣)が、永眠されました。自宅においてご家族の方々で葬儀がとりおこなわれました。

ここにご逝去を悼み、故人へのご冥福をお祈り致します。

【編集後記】


 古希を迎える今年、婦人会から敬老者記念品とメッセージカードを頂いた。11歳で渡伯し、あれよあれよと思う内に敬老時代を迎えてしまった。まだ、足跡を振り返るには少し早い気がするが、チコちゃんに叱られるによると時間が早く過ぎるのはときめきが少ないからと言っていたので、益々早く過ぎていくだろう。

記念品、メッセージありがとうございました。

bottom of page