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根本 正のモジアナ地方踏査道程(1894年)

  • 2017年10月15日
  • 読了時間: 6分

更新日:2020年10月18日

8月に送っていただいた林良雄さんのエッセイ「根本 正のモジアナ地方踏査道程」をご紹介します。

根元 正については、「我がグァタパラ耕地」の第一部「笠戸丸第一回移民以前のできごと」の中でも紹介していますのであわせてご覧になってください。                   

(HP管理人)

以下、林良雄さんのエッセイです。

「私は十数年前、サンパウロ茨城県人会本部役委員会終了後、根本正顕彰会から1894年根本正がサンパウロ内陸部を踏査した道程をわかる範囲で調べてほしいと依頼されていたのを引き受けた。当時、私はモジアナ地方で就労された初期の日本移民を調べていた。しかし根本正に関しては、鈴木貞次郎(著名・南樹)の埋もれ行く拓人の足跡、ブラジルの茨城30周年記念誌につてはつくばね創刊号の転載のものであり、南樹著書とかわらなかった。その後、資料として顕彰会から根本正が外務省に提出した報告書のコーピーが送られて来た。

コーピーの内容はヅモン耕地内に敷設された軽鉄機関車写真(グァタパラ耕地内敷設と同型)1875~1886年に敷設、次にサンマルチーニョ耕地のコーヒー樹海。この報告書にそって進むとリベイロン・プレット市からヅモン入りとなる。ここでいつもの私の疑問符が芽生えてしまう。パウリスタ本線の開通が1868年でグァタパラ駅、サンマルチーニョ駅を通過しており、グァタパラ耕地購入が1885年(15.000ha)、サンマルチーニョ耕地購入がマルチニッコ(マルチニョの俗称)とアントニオ兄弟で1889年(28.750ha)、根本正がたずねたプラード・シャベス輸出会社創立はマルチーニョ・シルバ・プラード、マルチーニョ・ジュニオール、アントニオの親子3人と義理の従兄弟エリアス・アントニオを加え4人で1887年11月となっている。耕地のインフラもそれなりに出来ているはずである。

この疑問符を、私が依頼を受けた当時、私は18郡からなる農村協会の役員に選ばれた。最初の役員会の折、各郡の責任者が紹介され、私が日本移民の軌跡を追っていることも紹介された。ヅモン市元市長、ブロドスケ地域代表、セラーナの代表から初期日本移民の色々な珍事が実しやかに知らされた。ヅモンでは労働後、ヅモン川に土手が築かれた所で多くの男女が裸になって水浴び、ブロドスケはブラジルの抽象画家で著名なカンジド・デ・ポルチナリの生誕地、その駅から2駅ほどの先のファツラという耕地は、村崎豊重が第5回移民を引率して行った場所。在住のコロノの婦人たちは、今度来るアジアの移民はインディオのツピーナンバよりもっと野蛮であり、自分の子供たちまで釜で茹でて食べてしまうという。そんな野蛮なコロノか来たら、パンツ1つで遊んでいる私たちの子供は全部食べられてしまう。下車させないようにパネラッソ(昔あった日本の婦人しゃもじ運動と同じ)をしようとなり、鍋と鍋をたたく棒切れを持って待ち受けたが、日本人のきれいに着飾った姿で大人から子供たちが下車すると、これを待ち受けた婦人たちはその姿におどろき、先をきそって道案内をしたと言われた。(これはお風呂からきた勘違い)。

セラーナの代表からは、日本移民のストライキから耕主がサンシモンの兵隊を呼んでことを鎮圧させたが、元気のいい日本青年がこれに抵抗し逃げる際に兵隊が発砲した弾丸が腕をかすり血を流したのが、血で血を洗った出来事として語られた。このいずれかにしても、根本正とはかけはられ全て初期日本移民の出来事である。そこで紹介されたヅモン市元市長にこの疑問符をあてると、1894年頃リベイロンからヅモン間は、1890年にモジアナ鉄道24km間が開通しているが、それはヅモンまでの路線であり、サンマルチーニョまで向うなら、きっとそれはリベイロン市からヅモンへはトロリ(2~6頭引きの馬車)ではないかとアドバイスされた。無論サンマルチーニョ耕地、グァタパラ耕地への道程もリベイロン~グァタパラ間の鉄道開通は1913年3月であるので不可能。そこで私は、すでに70年代初期に廃線された駅名だけが掲載された70年代末の古い地図を片手に持って、グァタパラ~リベイロン間の旧鉄道跡を現地のブラシル人長老をつれだって旧鉄道沿いの旧道をリベイロン市に向けて走り続けると、第2回移民の就労したサンタ・リッタの場所に出て、さらに進むとボンフィン・パウリスタの少し手前に出てしまったので、このコースでないことをたしかめた。

日をあらためリベイロン市へ出掛け、市の図書館でリベイロン市歴を調べると、リベイロン市制日は1856年6月である。そして1886年の人口が10.420人と奴隷1379人。その後、わずか14年後の1900年、町はコーヒー景気で一気に増加。その中でも最も増えたのが国外からの移民たち、人口調査の数では59.195人中33.199人の83.9%がイタリア人、7.9%がポルトガル人、5.1%がスペイン人、1.7%がオーストリア人となっていた。これには1888年5月にアウレア法(奴隷解放)が承認され、今後の労働者不足の問題があった。これに先立ち、マルチニッコは1887年にヨローッパへ出向き、イタリアのジェノヴァに移民募集事務所を開設、海上輸送に関してはイタリアのアンジェロ・フィオリタ社と独占契約を結びジェノヴァ~サントス間の輸送を任せた。その他、図書館からの発見はリベイロン鉄道駅から東に約400mの所に、1889年頃グァタパラ耕主の邸宅と弟アントニオ・プラード氏が提供した市街造成地のあることが判明出来た。

私は日を改め再度ヅモン元市長をたずね、20数キロ先の当時のサンマルチーニョ耕地へどのようにして行ったかと氏の考えを伺うと、今ある舗装道路を基準にしながら蛇行を加えると着けるのではないかと提唱された。それに沿って自動車を進めると、サンマルチーニョ製糖工場(2004年9月小泉首相が訪問した工場)を目下に眺める場所に出た。そして鈴木貞次郎引率の笠戸丸第1回移民の下車した駅を見定め、ここからパウリスタ鉄道ののぼりは、私が学生時代数度先のバリニャから乗車したので、サンマルチーニョ、グァラニ、グァタパラ、リンコン、サンタルシア、アメリコブラジリエンセ、アララクワラの各駅となる。

アララクワラは1817年8月が市制日で、リベイロン市よりも38年も多い歴史のある町。この町の発展は1868年の鉄道開通から比較的町が成長する。リベイロン地方の丘陵に対し起伏があり、土質はグァタパラの東側からサンマルチーニョにかけテーラロッシャ(赤紫土)に近く、ヅモン、笠戸丸第1回移民の配耕先のカナーン耕地も赤土であり、アララクワラ地帯は砂壌土地域、コーヒー栽培も鉄道開通後の1885年頃からぼつぼつ手掛けられた。

根本正の視察先の3ヶ所には笠戸丸第1回移民が配耕され、最初の1歩のヅモン耕地には茨城県出身の加藤順之助の引率で210名、サンマルチーニョ耕地には鈴木貞次郎引率で101名、グァタパラ耕地は平野運平で88名、もう1ヶ所の笠戸丸第1回移民の配耕先のカナーン耕地は嶺昌引率で173名。鈴木貞次郎が1906年、日本移民が就労に適応出来るかといったテストケースで就労したチビリサ耕地の一つ駅先がこの耕地である。笠戸丸移民合計781名中572名がリベイロン・プレット周辺50km以内に就労するものであった。

因み地名ヅモンは人名から由来

    サンマルチーニョは聖マルチーニョ

    グァタパラは動物の鹿

    リベイロン・プレットは黒い小川

    アララクワラも人名から由来

いずれも駅名が耕地名に代わって言われるのが大半である。」

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ズモン耕地 03
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廃コーヒー倉庫 07
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延べ10キロの水路
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グァタパラ耕地内のコーヒー園に並ぶ日本移民(1920年頃)
アルベルチーナ駅
1889年ころのグァタパラ耕地
グァタパラ耕地コーヒーの樹海
生産物馬齢薯をラバの背につけて市場迄
ヅモン路線列車
リベイロン・プレットモジアナ駅前・
モンテイロ駅
grupo escolar 1996
puericultura, lactario, farmacia 1992
拓魂
別れのテープ
サンパウロ市ルース駅
ドラムカン風呂で入浴

Brasil サンパウロ州グァタパラは第一回笠戸丸移民が配耕されたことから日本移民発祥の地と言われています。グァタパラ耕地を中心にブラジル日系移民にまつわる話を紹介しています。

 

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