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続・奉納相撲

  • 2017年10月4日
  • 読了時間: 5分

更新日:2020年10月18日

林良雄さんのエッセイ「奉納相撲」の続編を紹介します。今週の月曜日にブラジルのニッケイ新聞に掲載されたそうです。

「続・奉納相撲」の中に登場する「東京植民地」や「馬場直さん」については、「我がグァタパラ耕地」の第三部第四章「東京植民地その名称の由来」を参照してみてください。              

(HP管理人)

「先の入植55周年祭に、絶妙のタイミングで50年振り、いや正確には49年振りに有木ジョウジ氏と一別以来の再会だった。容姿もすっかり変わっていた。学生当時は俗名『ブーダ』と言われており、力士のような体格であった。ジャボチカバール・ウネスピ農大学長を30数年務めたといわれたが、私の農学校入学年時には、この大学一期生たちとの交流は全然なかった。それから数年後に農大生と農学生の混成即席野球チームを作り、ピッチャー出の私の球を捕球してくれた。その頃のグァタパラ子弟は、高校野球経験者から指導を受け仰ぎ見、全伯初出場を目指し猛練習中であった。大学生との接点はこの混成野球チームだけであった。大学一期生の『ブーダ』は野球どころか、大学全体を取り仕切ってもいた。そして再会時に呼んだ『ブーダ』の俗名は卒業以来呼ばれたことが無かったと言いながら、あの時のカニョッテイロ(左利き)かと目を細めて懐かしんでくれた。私は母から横文字を書く時代だからと矯正された右手使いは殆どのことを熟したが、指先を使う細かな手仕事や野球など力を入れる動作に左利きが現れた。このチームに大学生側から参加し、外野手を守っていた学生がいた。学生時代はこの混成野球チームまでであった。後年、私がグァタパラ移住地周辺のブラジル日本移民の足跡を調べていることを聞き付け訪ねて頂く。話す内にこの混成野球チームの一員、石村勇雄氏だったことが判明した。そして父の手記があると言われ、読破を依頼された。その内容中には、東京植民地時代の奉納相撲が記載されていた。この石村義男氏の手記を要約してみたい。

彼の祖父が笠戸丸移民でツモン耕地に配耕された、熊本県飽託郡出身の佐方傳八氏であり、島村七蔵・妻タジュの構成家族でタジュは実姉であった。渡伯当時は15歳であり、5年後の20歳で同県八代郡出身の石村ミヨノと結婚された。この時のミヨノさんは17歳であった。佐方傳八氏が22歳の1914年に、長男義男が誕生された。この年、地域は熱病が流行し3ヶ月目の長男義男を残して氏は他界された。母は再婚されるまでは筆舌に尽くし難い苦労の数年であった。

母ミヨノは熊本県八代郡の隣村出身の田崎作平と、その友人緒方岩松氏の仲立ちで再婚した。義父には長女の八千代が居り、私(義男)より3歳年上であった。

パウリスタ線ピンドラマ町付近へ移転。ここは多くの日本人が土地を求め入植し、中央には日本語学校もあった。3キロ離れたこの学校へ義姉八千代は妹のシズ子を子守り、ヒデを背負って、私と学校に通った。しかしそれも長く続かず、義父に日本へ帰ってから学校にやるからと言われ学校を止めさせられ、野良仕事をさせられた。

私が13歳の1927年に、親たちは土地を売って日本に帰国することになった。義父の所へ緒方岩松氏が訪ね、帰りに際に一緒に行くようにと義父に言われた。13歳の私は反発も出来ず、パウリスタ線モツカ駅コリギンニョの緒方氏宅に身を寄せた。義父たちは後片付け後、モツカの緒方氏宅で氏の甥にあたる田中改市(熊本県出身・1914年渡伯)と義姉八千代の結婚式が執り行われた。結婚式の後、義父から「モツカの町に買物に行くから、義男も一緒に来い」と言われ、その道中義父は「義男、お前は大きくなって鼻髭が生え、金を儲けてから日本に帰ってこい」と言われた。13歳の私には、その時意味がわからなかったが、後でブラジルに残れとの意味を悟った。夜、緒方氏宅で風呂に入っていると、母が来て「義男、一緒に行きたいならば義父に話してやるからどうする・・・・」と訪ねられた。だが私は「連れて行きたくないようだから、私は行かない。」と居丈高に言いはなす。「そう決めたか、母さんはお前とはひと時も離れたくないけれども・・・元気で大きくなっておくれ、どんな不自由な時、苦しい時、悲しい時も我慢してゆくのよ、決して負けずに生きるのよ。日本に帰ったら手紙を出すから、いつも手紙を出しておくれ、それを楽しみにして待っているよ。」と悲しみのくぐもった声で言いその場を離れた。それが母との最後の別れの会話だった。

いよいよ別れの日が来た。家族と見送りの人たちが一緒にモツカの町まで馬車で行く。やがて汽車が駅に入り、家族が別れを告げて手を振りながら乗り込むと、汽車は1~2度別れの汽笛を鳴らし走り去るその轢韻まで寂しかった。13歳の少年には大変悲しい出来事であり帰り着き部屋に駆け込むと、胸が張り裂けたかのようにこみ上げる悲しさで涙が堰を切ったようにあふれた。

家の近くにモジグァスと言う大きな河があり、そこへ毎週土曜日になると、緒方さんの四男の義男さんと一緒に小舟で網を張りに行き、網には何時も10~20匹の収穫成果があった。またある時、改市兄(義兄)がサパート(靴)を買ってきてくれた。13歳になるまでサパートを履いたことがなく、何時も裸足のため足が広がりサパートを履くが一寸ほどで痛くなってしまう。これらの体験で母と別れた寂しさも紛れた。

私は、16歳でコリギニョの青年会に入会。ここには日本人家族が15家族在住し、青年会員は13人であった。その頃、東京植民地では天長節の祝い奉納相撲があり、コリギニョ青年会も参加するため、毎晩相撲の稽古に励んだ。

お祝いの当日、青年会員と一緒に東京植民地で相撲をとった。私の相手は東京植民地の“おじさん”だったが、この人に負けてしまった。後であの“おじさん”はこの東京植民地を開いた『馬場直・ばば・すなお』さんだと教えられ、私は相撲に負けて良かったと思う。以下省略。

ブラジル相撲の草分けを記したが、既述の赤木政敏氏がブラジル相撲連盟の名誉会長を務められ、日本の大相撲を招聘したいと言われた。たしか大相撲海外ブラジル巡業は千代の富士の横綱時代であるから、1990年代と思える。賛同の署名運動には協力しますと言って、先のお祭りで約束をした。」

東京植民地の相撲大会 最初頃の相撲は回しだけであったが、1931年頃にはパンツを着用した上に回しを付けている。また、背景には自家用車も見える。

東京植民地の相撲大会

最初頃の相撲は回しだけであったが、1931年頃にはパンツを着用した上に回しを付けている。

また、背景には自家用車も見える。

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ズモン耕地 03
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廃コーヒー倉庫 07
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延べ10キロの水路
placa homenagem martinho p junior 2
グァタパラ耕地内のコーヒー園に並ぶ日本移民(1920年頃)
アルベルチーナ駅
1889年ころのグァタパラ耕地
グァタパラ耕地コーヒーの樹海
生産物馬齢薯をラバの背につけて市場迄
ヅモン路線列車
リベイロン・プレットモジアナ駅前・
モンテイロ駅
grupo escolar 1996
puericultura, lactario, farmacia 1992
拓魂
別れのテープ
サンパウロ市ルース駅
ドラムカン風呂で入浴

Brasil サンパウロ州グァタパラは第一回笠戸丸移民が配耕されたことから日本移民発祥の地と言われています。グァタパラ耕地を中心にブラジル日系移民にまつわる話を紹介しています。

 

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