イーリャ・グランデ
- 2017年9月30日
- 読了時間: 4分
更新日:2020年10月18日
グァタパラの林良雄さんから「イーリャ・グランデ」というエッセイを送っていただきました。
モジアナ地域初期日本移民就労地一巡がブラジルの邦字新聞・ニッケイ新聞で紹介された後に、読者からのリクエストを受けて書かれたものだそうです。ブラジルにはまだまだ知られていない悲劇がたくさんあるようです。
「イーリャ・グランデ」は、「我がグァタパラ耕地」第三部 第五章 平野植民地創設に至るまでの「マラリア病菌に冒され犠牲者の多発した他方の開拓地」の項でも紹介していますので、ご一読いただければと思います。
以下、林良雄さんのエッセイです。
(HP管理人)
「次は、次はかと毎度待ち焦がれ、遂にもう1ヶ所モジアナ地方でのマラリア罹災地を記してほしいと、読者からリクエストがあった。
その場所とは、奥モジアナというよりサンパウロ州とミナス州境にあるリオ・グランデ河中の1.000ha程の島である。
1916年辺りから、奥モジアナは米作地に変貌している。この地域のイツヴェラーヴァ、その先のイガラパーヴァ。この2ヶ所の中間地点カニンデー駅(イガラパーヴァ路線)はジュンケイラ一族の所有地であり、イーリャ・グランデもジュンケイラ一族の所有地であった。そして、この地域の記載を求めた赤木政敏(宮崎県出身で、1932年ブエノスアイレス丸渡航)氏は両親一家と共に1歳で渡伯され、このアラミナ郡カニンデー駅のジュンケイラ耕地にコーヒーコロノで2ヶ年就労された。
私は資料収集頃、農拓協(ブラジル農業柘植組合)の企画した奥モジアナ地方穀倉地帯(棉、大豆等)のイツヴェラーヴァを訪れた。地元の世話役からの説明では、初期日本移民が入った所であると知らされる。初期移民とはどの辺を指して言っているのかと思い、第10回までの移民船名を列挙した。だが知らないと言われ、その上疎まれてしまった苦い経緯と資料不足で書きあぐねていた地域でもある。このイーリャ・グランデと赤木氏の軌跡を交えて記してみたい。
1916~17年頃、当時島全体が原始林に覆われて、比較的木の少ない低湿地に近いところは灌木林と低湿地の草原だった。
日本移民はこの低湿地から灌木にかけて開拓し始めながら大森林へとだんだん開拓し、最初の作物の米を蒔き付ける。どこの開拓地でも生活用水の便を考えて、何れも湿地に近い所に住居を建てた。ところが雨期を過ぎぼつぼつ収穫を間近にひかえる頃1人寝込む、2人臥す。丁度平野植民地と同様、ついには40家族中働けるのはたった1家族だけという状態になった。マラリア発生である。その頃の薬といえばキニーネ、それとパルダンの注射だけであった。しかもこの頃になると薬は殆ど用をなさなかった。なぜなら地主側から配給されてくる食糧は少なく、貧食のため栄養失調、肉類や油ものを殆ど摂取していなかった。
どの位の犠牲の死亡者が出たのか誰もわからず、だが死骸を遠い町の墓地まで運んで行ける健康な人達がいなかったため、畑のすみ、森林の陰に次々埋葬したという。後年になって遺族達はこの地に訪れ「お骨」を掘って行ったと語り伝えられている。ミゲロポリスの町には数百の無縁仏の骨を集めた大きな「慰霊塔」が建っている。移民50年祭(1958年)に2百名程の有志の寄付で建立したものである。(半田知雄著・移民の生活の歴史要約引用)
このイーリャ・グランデの位置は、ミゲロポルス市街から真っ直ぐ北に位置、サンパウロ側から220m、ミナス側からは600mの距離を有し、パウリスタの濁流が流れ注ぐにしては清流である。インターネットでミゲロポリスを検索し、この慰霊塔を探したが資料が乏しく検索できなかった。
赤木一家は2ヶ年の就労後、パウリスタ延長線のマリリア付近の共栄植民地に移転し、主に当時白金と言われていた綿栽培に従事。この近辺を転々としながら綿作を続けた。ポンペイア付近頃、綿に害虫が発生し、粉末の殺虫剤散布を繰り返す。そうすると農薬中毒で身体を痛め、収得していた約75haの農地を売却し、1950年代にサンパウロ市に移転した。特殊技能もないので雑貨店、砂取業、軽食作り、幼稚園児の帽子作りでやっと収入の安定を図ることができた。
最後に、学業は皆無と言われた。それでは、ニッケイ新聞ぷらっさの記事の日本語活字はどのようにして理解しているかと伺うと、青年時代植民地で1年程夜学に通い、難しい漢字は上下を読んで代替に理解されると言われた。ここのモジアナ地方は日本語会話も出来ない日系人が多勢であり、どこが違うのかと考えさせられた。
尚、この島の出来事について特記することは、多くの罹災地よりも犠牲者が多いにも拘らず、あまり語り継がれていない。また、栄養失調等が理解できない。肉が摂取できなくても、河であるのだから魚からの蛋白質が取れたと思うのだが!」

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