ブラジル移住の記録
入植2ヶ月後の山形県拓連への便り
(石田光治さんの便りを転載)
1962年1月12日サントス駅からサンパウロ駅に向かう汽車の中にて
林千歳・良雄・千恵子
入植者歓迎会
右鈴木重雄 左手前大貫二美子 石田照 石田 鈴木まさえ ボンフィン・佐々木助産婦
ジャミック事務所の前庭にもろぶたを置き、その中に握飯 沢庵 味噌汁等がならべられた。
グヮタパラでは漸く夏を過し朝夕大分涼しくなりました、といいましても室内で20℃位のものです。こちらに着いて2ヶ月、ブラジルを見る目も持っていませんが、直感としてブラジルは自給自足には良い処で人から使われては日本にいるも同じで、人を使う農業であれば楽しいものとなるようです。特にカカァにとっては天国です。今は浮沈の分れ目であるので出来るだけ手伝って貰らっていますが、関東のカカァ衆と共同作業をしているのですからそこは御想像におまかせしましよう。学校は12家族の24名、小中混ぜて全部一年生A.E.I.O.Uから語学だけ半日づつ、間食のカフェー(パンとコ−ヒー)を持って真面目に通つています。日本語を話せない若い女教師が手まね、足まねで中々熱心です。この調子だと一年経てばブラジル語はペラペラでせう。
こうしてニ〜三無駄文句を交わしている間にグヮタパラは驚く程の早さで伸びて行くことになりなす。変わりつつあるブラジルの状況については既に移住している先輩たちの情報にてさぞ感じとられていることでせう。その中でグヮタパラこそ、その先端を行くものとさえ云われ、はやし立てているかに思います。グヮタパラはブラジルの名所の一つになっています。それは大変有難いことです。しかしまた大変困ることでもあります。毎週幾組かの視察団が或いはトラックで或はジープでやってきます。それには遠くノロエステより来る青年もあれば近くの日本移民もあり、農民もあれば御役人さんもいます。余り大げさ過ぎるのではないかとさえ思われます。グヮタパラは始まったばかりで未だ目鼻もついていないのですから。
先輩の人たちが交る交る来ての話ではブラジルの良さは感の良い人で3ヶ年、普通5ヶ年はかかるでせうと同じようなことを相談でもして来たように話します。しかし私共には来た時から良い所でした。まず第一に毎日来ていた金取りが来ません。何作物でも何処へ蒔いても食べる位なら何時でもとれます。自給自足は万全です。一銭も金はいらないで美味いものを年中食えるからです。今は開拓の初めで少しさわがしいが、静かで寒くないということもこの地のよいことの一つです。私にしては転地療養に来たようなものです。然しわざわざネオンの光にまよい込みパチンコや車のさわがしい音を好きこのんで行くような者にとっては淋しい墓場の様に思えるかも知れません。好いた眼で見りやアバタも笑くぼ人好きずきと云うものでせう。
子供は毎日のバナナに飽き、ラランジャ(ミカン)の汁を吸い落花生、トマトにも飽きキュリなどにかみついています。安いと思った砂糖が一番高くつく様でしたが砂糖消費も峠を越しています。牛乳と卵は魚の必要性を忘れさせているし、今は高くて思うように食べていませんが、鶏肉や豚肉等は自給できるようになると楽しいものになるでせう。グヮタパラはコチア組合がはじめから販売店を出し、食糧でも生活物資でも揃えてくれるので市内にいるのと殆んど変りません。少し便利が良過ぎるようです。医療方面もコチアで与えてくれます。
ブラジルの経済面においてはその収支は極めて不安定であるとは云うものの自給自足の食生活を根本として営農計画を進めて行く場合、収支予算は必ずしも不安定とは云えない。今数字を上げるのは行過ぎであると思うので今少しお待ち下さい。勤勉な日本農民であれば必ずや経営も成立ち充分生活を楽しみつつ健康にして明るい平和な家庭と社会を建設することは間違いないと思われます。私はその日を夢見ると共に現在その日を楽しんで送ることに心掛け楽しく過ごしております。何不自由なくとは申せませんが少なくとも内地のそれとは大きい差はあると思います。少なくとも日本でのように玄米一合、ニ合の差で金カップを貰った、ごまかした等と人をうらみ合う農業に比べてグヮタパラではどんなにやり甲斐があることか、男の意気のあらん限り人にはばかることなく思う存分鍬を打ち振れることは大きな喜びです。
皆様によろしく。
同サンパウロ駅からグァタパラへ
右黒沢允晴 田中米 林健次 鈴木俊治 大内進 佐伯邦夫・洋子膝に珠理 各諸氏
当時のモジアナ・モンテイロ線グァタパラ駅
当時のパウリスタ本線グァタパラ駅 第1陣の到着を待つ人々
右より2人目子供林良雄 林富男 田中米 子供五十嵐正美
大貫茂 鈴木照夫 林健次 一番奥 石田光治 各諸氏
山形県人の皆さん 鈴木正文さん 大貫さんは此処に写っていますか?
同船者 石田 五十嵐 鈴木さん