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私たちの渡伯下船・入植時の経過​

(1962年1月10日〜12日)

 1962年1月10日に「あるぜんちな丸」は2時入港30分後に着岸。多くの日本人が来ていた。波止場に出て入港して来る船を迎え「歓迎グヮタパラ」の大巾幕を出したが見えなかった由、埠頭では有効であった。長い間待たされ検疫が終ってから1人100ミルづつとられて乗船を許された。こんな事は日本人が悪習をつけたのだという。船内はゴッタ返していて久し問を語るひまもない。皆健在で着伯したことが何よりであった。この移住者はコチアの出張所へ行き携行金の貯証をしただけで、8時頃分れてサントスで泊る。1月11日8時下船したが待合所で待たされ、グヮタパラは最後に廻され午後2時過ぎ、やっと荷物検査が始まり大人だけが入る。コチアから島袋氏以下のベテランが検査物に立合ってくれたので言葉の心配も余りない。ボツボツ荷物が検査を終って貨物列車に積まれかけたのが夕方暗くなってやっと終る。税金通関料などは全部コチアが立替えてくれた。歩いて移民の家に行き一同宿泊。

 1月12日コチアの人に早く起される。今日の持込食料を買込んだ為に早くから動いている。5時で感心する。7時頃移民の家に行くと港へ行ったというので埠頭駅行、皆は乗込んでいた。大して待たずに動き出す。乗り遅れた人がサントス駅で追いついた。ケーブル式でサントス、サンパウロ間の急坂を上り珍しさに驚く。サンパウロで乗替へ午後7時半にグヮタパラ駅着。駅に着くとまた大変で先発していたジャミックの羽根田事業部長や白石工事所長ほかリベロン・プレートの宮坂さん子息たち一行や、駅付近の人などて非常に賑わいであり、日没後駅に着いて戸迷うどころか大歓迎を受け、乗物も余る位でトラック4台、ジープ、乗用車数台が続いて移住地本部に向かい、到着したところ本部広場には赤々と街燈がつけられ、夜食の準備が揃えられていました。

 宿舎は三棟に分かれ、電燈がついて遠来の客を待っており、荷物が到着しないため職員の毛布をはいて提供し、ひとまず宿舎に入った上、広場に集って交歓会を開催、深夜のため簡単な挨拶と移住者代表からの謝辞を述べ、夜食の握り飯を食べて12時頃就寝しました。現地の至り尽くせりの受入準備にはただ感激と感謝でみな意外でした。

グァタパラ小史 近藤 安雄 筆

山形県人の皆さん
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