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あるぜんちな丸の思い出

​当時 茨城県庁拓務課職員 県拓植連出向

                             緑川 和基

 

 わたしは、20年前の1961年(昭和36年)12月4日、横浜出帆の、あるぜんちんな丸に乗船した。当時わたしは、県庁拓務課で海外移住の仕事を担当していたので、県拓植農協連が主宰していた、ブラジルの茨城村グワタパラ地区に移住する6家族33人を引率という主なる目的すでに南米各地において活躍されている、県人の生活状況を見てこようというのが従たる目的だった。

・・・・が・・いま思えば冷汗三斗、引率者というものはすべての事情に精進した者でなければならないのに、こっちも始めてのブラジル行きだしおまけに、ポルトガル語も、スペイン語もしゃべれないから、めくら蛇におじずのたとえどおりでした。

 

 乗船するにあたって、わたしの記憶から消えないのは佐伯夫人のことだった。勝田の津田から移住した佐伯邦夫さんの奥さんだが、お産をしたばかりだったので、次の船にしたらよいだろうと大事をとったが、どうしても、みんなと一緒に行きたいと同船された。

 

 赤ん坊は、ブラジルへついても通じるように、名前を珠理(ジュリ)にしたと、佐伯さんから聞かされたが、いま、その珠理ちゃんは、あちらの国籍に入って、どうゆうブラジル人になっているだろうか。

 ちなみに珠理ちゃんは、到着後、マルガリーダ、ジュリと名つけたともきいたが、その赤ちゃんも今年は成人のはずである。

 

 帯あきまえだから、同時乗船を見合せるようすすめた、わたしや、6家族の家長連中は、出帆後太平洋の真ん中で、船酔に苦しんだが、当の珠理ちゃんと夫人は船酔もせず元気いっぱいだった。

 

 戦後のはやり言葉に「女と靴下は強くなった」と云われたが、このときほど「女」は強いなあと思ったことはなかった。「母性愛」が大の男共よりまさっていたのだろう。

 

 そして珠理ちゃんは船の揺れがゆりかごになっていたかも知れない。

 

 出帆日の午後四時、横浜南大さん橋は見送りの人でごったがえして、小雨模様の寒い日だった。

 

 いつもは見送る側にいて、“体にきをつけろ”と声をかける方だったが、このときは声をかけられる方で立場が逆転した。

 

 送られる人は、内原村有賀の黒沢典、志が夫婦と子供4人、勝田市津田の佐伯邦夫夫婦と珠理ちゃん、大洋村台濁沢の林富男、千歳夫婦と子供3人、土浦市中貫の鈴木重延、レツ夫婦と子供5人、岩井町馬立の相馬国男、てい夫婦と子供3人及び義弟1人の総勢33人、そして、わたしを含めて34人、これだけの県人がブラジルに向って、横浜港を出発するのは前代未聞だし、これからもないだろうと、船上の人となって思いついたことだ。

 

 内原村有賀の黒沢志が夫人は、乳飲み子のりえちゃんを抱かえてテープをほおっていたが、夫人に限らず、みんな顔をくしゃくしゃにしていた。

 

 年長者の林富男さんは、出発前にやがて隠居したら、モンブカ(グワタパラ地区を流れているモンブカ河のこと)で魚釣りでもやるよと言っていたが、この林さんは大声をあげて、兄弟達に別れの言葉をかけていた。

 

 やがてドラが鳴り、しずかに船が動き出し、テープものびにのびて出帆した。

 

20年前のこの当時は、大阪商船が毎月1回船を出したので、船内におけるお客さんの扱いは馴れたものだった。船速は、経済速度とやらの「16ノット」で夜も昼も同じペースなので、長い船旅もやがて、あきが来るころになると映画会があったり、のど自慢大会などがあったりした。

 

 相馬さんのところの、栗原桂一郎君か、黒沢儀次エ門さんの義弟大内君だったかが、この当時流行していた、小林旭の「北帰行」をにわかに仕立のステージで、歌うのをみんなと一緒にききながら涙がこみあげてきたのを覚えてる。

 

歌詞の三番だったか、

  さらば祖国愛しき人よ

  あすは何処の町か・・・・

というのがあって船旅の哀愁に誘われたこともあった。

 

 わたし自身は、6家族の人達と違った「南米一人旅」でみんなと違う感慨と6家族の家長連中とは、ながいこと移住相談をして来たことあって「やれやれ一緒に船に乗れたなあ!!」という実感が交差して胸にせまるものがあったのかもしれない。

 

 いずれにせよ船と「おセンチ」はつきものだろう。

 

 横浜からブラジルのサントス港まで、40日間の船旅のうち、半分過ぎたころになると「まだ見ぬブラジルの生活の不安などもつのって移住者の中には、落ち着かぬ雰囲気がかもし出される」・・・と、船長からきかされたが、わがグワタパラ勢は結束していたので、そうゆうところは見られなかった。

 

 しかし船側の肝入りで、甲板での運動会や、暑い夜の盆踊り大会もありまた寄港地に上陸して見物するなと無聊をなぐさめてくれるいろいろなことがあった。

 

 そして航海も終りに近づこうとするころ赤道祭りが行われた。船は休みなし走りつづけ、アマゾン河口はるか沖合のころだったと思われるが、赤道祭は、新航路開拓の十五世紀末ごろから大型帆船で赤道を通過する際、赤道無風帯で、重い櫂をこいで反対の半球にはいらなければならないため、神頼みに行った行事が自然に発生したものだといわれている。

 

 現在は主として客船で仮装行列などを行うのか「あるぜんちな丸」でも行われた。

 

 愉快なひとときであった。

 

 赤道祭の体験もはじめてであった。

 

 横浜を大勢の人の声に送られてから、船は太平洋横断に13日間、ロスアンデルス、パナマ、キュウラソー島、ラグァイラ、サルバドルと停泊を重ねた。

 

 38日目に世界三大美港の一つ、リオ・デ・ジャネイロに朝早く着いた。夜出航するというので、丸一日、港にそびえるキリスト像の立つ丘と、ポン・デ・アスーカル(砂糖パンの山)をみんなで一緒に見物した。

言葉が通じないので大汗をかいたり、苦笑もいくどかした。

 

船は予定通り、夜になって、「リオ」を出発したが、昼間すぐそばで仰ぎ見た、でかいキリスト像が、暗夜にサーチライトに照らされてくっきり写しだされているのを見たときは、どこか「こうごうしく」強烈な印象だったのを今も思い出す。

 

 こうして、グワタパラ第1陣6家族、33人のお供をして、次はいよいよ下船港、サントスだ。

 

 船が「リオ」港をしずかに動き出すとともにじょじょに、キリスト像が小さくなったが、私は、ほとんど見えなくなるくらい、いつまでも、いつまでも眺めながら、第1陣のみんなに幸多かれと祈った。

 

 わたしにとって20年前のあの船旅は、終生忘れない思いでであるが、一緒した33人のうち、相馬夫人、てい子さんが、ブラジル移住のわずか3年後突然の病気で亡くなられたときは、がく然とした。

 

 あの奥さんがと、

 

 そして長女祐美ちゃんが、わたしの次女、ゆみ子と同音なので忘れられない娘さんだったが、縁あって新しい、お母さんが横浜を発てるようになったことに、わたしも一役買いほっとした。

 

 グワタパラは其の後2陣、3陣と続いて、わが茨城勢は33家族に達したが、みなさんの健康を祈るばかりです。

 

どうか頑張って下さい。(20年後の緑川さんは鹿島都市開発株式会社の総務部長の頃筆)

 

雑記:母(千歳)が父(富男)に伴い長い開拓人生(開拓史筆中)を終え逝去した時、村民の皆さんに会葬御礼の挨拶にも申し上げたことですが、気を落ち着けて休む事なしに歩み続けた開拓人生の内、渡伯時あるぜんちな丸船内の38日間は食事の準備などの心配もいらず、わたしの人生でもっとも寛いた期間であったと云っており開拓者の伴侶の姿を感じるものでした。緑川さんの思い出起草文中に失礼ながら、送られる人の中に黒沢儀次エ門一家と大内進氏の記載洩れを出過ぎでありますが、加えさせていただきます。

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