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グァタパラ移住地

 この移住地入植の第1陣が、私達の茨城6戸、山形5戸、長野1戸の合計73名でした。

茨城第1陣のグァタパラ移住者を引率者が茨城県庁拓務課職員 緑川 和基氏でした。

後述します(黒沢 典氏と高校時代同窓生)

 当初、全国拓植農協連が、山形、茨城、長野、岡山、山口、島根、佐賀の7県(各県拓連)から資金的協力を得、コチア産組と協約してグァタパラ耕地の一部を購入することとして、旧移住振興会社に代理取得を依頼した。

 サンパウロ州内に広大な面積を有する低湿地開発に協力する目的で、その候補地を2~3ヶ所物色するが、サンパウロ州で3千ha近い低湿地を所有する地域グァタパラ耕地が有望として上り、その稲作予定地購入後、当時日本でも優秀稲作地の組合長を現地まで視察させている。だがグァタパラ耕地付近の日系人の人々は、すでに長い間耕作した痩せ地に谷地目(やちまなこ・深く泥が溜まった円形のような所に踏み込むと、底なしのように吸い込まれる)などに反対され、大使館までに陳情し、1960年当時安東義良駐伯大使が現場視察までされている。グァタパラ入植地の本命は低湿地の開発にあり、灌漑排水工事を施す必要性は土地設定時から明らかにされていた所である。

 全拓連(全国拓植農業協同組合連合会略称)は国内において、各県あてに事業参加を呼び掛けたところ、茨城県拓連が参加申し入れを筆頭に相次いで参加され、これら7県拓連、山形、茨城、長野、岡山、島根、山口、佐賀の各県で、1県あたり1千haづつ引き受ける建前(ただし島根、山口県は半口づつで2県で1口)、1県拓連当り4千8百万円の資金的協力を得て入植地購入する。この購入を旧移住振興会社に代理取得を依頼したうえ、移住地造成事業、分譲に関する全ての事業を移住振興会社(JAMIC)が代替し、コチア産業組合が営農を指導、生産物の販売を協力、全拓連は日本国内の入植希望者のあっせん等を担当する。諸問題で遅れていた入植、特に外地への土地改良に対する補助が難しいとされたが、大蔵省の配慮で県営事業に国が補助する建前で、なんとか漸く工事着工の指令がなされ、農林省から海協連に公式に募集の指令が出され、1961年12月横浜出帆で山形、茨城、長野3県の入植希望者12家族73名が1962年1月12日にグァタパラに入植した。総面積7294ha、農地面積5018ha、内訳丘地3988ha、低地1030ha、市街地103ha、道路水路499ha、堤防外河川敷1674ha、これらの土地を区画割りし、低地3ha、丘地6ha(雑作)、2ha(柑橘)、1.5ha(宅地)4ヶ所を1セットとした農地である。標高平均507メートル、約60%が大波状形丘地、40%河川沿いの平坦な低地(9キロ構築堤防落差5メートル)、丘地はテーラ。ロッシャ・ミスタ、低地は黒泥土、または堆積土・マサッペーである。入植当初の交通はサンパウロ市までパウリスタ鉄道約8時間、地区内通過州道舗装工事が1963年6月完工したため付近リベイロン・プレット市約50キロ45分、アララクワラ市37キロ30分内外で行けるようになる。ただしそれまでリベイロン市へはモジアナ鉄道でグァタパラ耕地駅から所要時間2時間30分、移住地から耕地内の駅まで少し距離があるためモジアナ鉄道の利用は全然なくなった。

 海外移住の気運は1964年を境に益々減る一方であり、375戸(内地262戸、現地113戸)の区画割の満植する事も無く、1966年6月の第33次入植1戸をもって日本からの入植者134戸で途絶えた。現地入植、その他30戸合計164戸の入植をみる。1970年代になって交換分合という、ブラジルでは前代未聞の農地の交換を計る。この頃すでに幾人かは広い農地を求めて地区内移転をいていたが生活用水の確保には限られた場所だけであった。入植10年には各県からと事業団の補助があり、待望の電化導入されると、事業団の手で高台に深井戸(120メートル位)が2本設置される。4ヶ所に分散している耕作地の農地割計画、日本よりの後続入植の蹉跌、この二大要因のため移住者はどれ程空しい努力と資金の浪費を強いられた事かと歴史が記されている。

 このグァタパラ耕地は1908年第1回笠戸丸日本移民23家族88名が配耕され、コーヒー景気の凋落により1933年ごろまで日本移民者が就労した耕地でもあり、この低湿地へ1920年ごろ米作移民を導入した所でもある。

 移住地の営農に関しても降霜は殆ど無しと言われていたが入植初年度、乾期作を植付けると霜害を受けた。これが2年連続降霜害を受け低地での乾期作を断念する。本命の稲作は連作栽培による収量減収と、特に落胆したのが価格の下落で仮払金が多く後で追徴金を払ったことから、多くの農家が稲作から離れる。そして営農計画に組入れていた養鶏、手持ち資金の少ない農家等は養蚕へと活路を見出した。先述の交換分合により丘地希望者と低地希望者が農地の交換分合を行った。本命低地利用から始まったものだが、造成の不充分、その上灌漑設備の維持には遥かに経費を要し、米の値段に比較して灌漑用水料が高く採算割れになった。この灌漑ポンプが5~6年稼動、その使用時間が合計数百時間ほどであった。稼動としては2台で開始し水路が一杯になると1台は止め、低速でもう1台を稼動させた。特に揚水機は降雨時は無論動かさず、排水機の方は揚水機より10倍位稼動する。大増水時に水取り口がモジグァスー河と繫がっているので、2度ほど水につかり1度は水抜きをしてエンジンを稼動した事があるが、2度目はそのままになってしまった。

 永年作物を見出すため数多くの作物を試みられたが、三白農業と呼ばれた鶏卵、米、養蚕が中心に営農され、現在なおかつ継続されているのが養鶏であり、丘地の土地は殆ど砂糖キビ栽培にかわり、低地は僅かに米作者が継続するが、長い間の栽培で原種の赤米対策に経費を費やし、近年遺伝子組み換え種をタウバテ地方より導入し、いもち病、赤米などに対応している。

 宅地には同県人を6戸づつ集団的に宅地割したことは余り好結果をもたらされず、日本の県側で集団制を希望したため、6戸づつの小グループ制を取り入れた。日系移住地のせいか子弟の結婚にはこれらの移住地へ嫁がれたり、フンシャール、ジャカレイ、アサイ、ペレイラ・バレットより花嫁を迎えたりしており、嫁がれたのがオウリーニョス移住地と、バルゼア・アレグレにはグァタパラから単身で入植後、移住地から花嫁を迎えておる。またドミニカ移住でブラジルへ再移住した子女も移住地へ花嫁として迎えておる。

 グァタパラ文化会が1968年9月に結成され、1981年にはブラジル国の法人組織としてグァタパラ農事文化体育協会と名称も改める。現在100家族在住する中、養鶏飼養20戸、米作3戸、花卉4戸、茸3戸、野菜2戸、農産加工1戸、レンコン、ニンニク各1戸であり、グァタパラ移住地でも農業従事者が減少している。

入植状況

主なる出身県 茨城 山形 岡山 島根 長野 佐賀 山口 その他  合計

    戸数 30 27 20 19 18 14   6    7    141

所在地:サン・パウロ州リベロイン・プレット郡

Nucleo Colonal Guatapara Ribeirao Preto Est. de Sao Paulo.

グァタパラ移住地

1974年(昭和49年)12月末国際協力事業団移住地概要昭和50年度版

入植状況
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