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あるぜんちな丸航海日誌(江頭貞雄著)

同船者江頭貞雄氏のあるぜんちな丸航海日誌のコピーがありますので抜粋要約します。

1961年12月4日、月、小雨中16時横浜港出帆する。

  〃  12月7日、木、曇 低気圧発む、9時頃より波浪高くなる。

  〃  12月8日、金、曇時々晴、低気圧発む、波浪高く引続き船体は大揺れ、この7~8日に船は台風に突入し、あるぜんちな丸11回航海中ローリング最大傾度41度、本船の最大、転覆度数の前後であった。この時船中は数名の乗船者しか起きておらず、花嫁移住の方が階段の上がり口で大揺れを受け、腕を手摺で強打し骨折する。私(林)も波が落着くまで船酔いを続け、母はさらにひどくロス港近くまで船酔いを続け、14日目にしてやっと甲板に出ることが出来た。

  〃  12月12日、火、晴 9日目にしてやっと波静かで乗船者ほぼ全員食膳につける。

  〃  12月18日、月、晴 波静かロスに入港12時。力行会の人々が少々ロスの町へ出掛けたが、ブラジル移住者は殆ど降りることが出来なかった。ロスでは多く援助物資を頂き、これはララ(Lara・アジア救済連盟Licended Agency for Relief in Asiaの略称)物資との話でした。余談ですがこれと同じ救援物資を、先の大戦によって大きな痛手を受けた日本に対し、戦後サン・パウロ市日本人有志が「日本戦災同胞救援会」を結成し、3年間に渡って救援物資を送った。

  〃  12月22日、金、晴 海上白波あり少々波高し、第11回運動会開催、団体輪投げで相手チーム総合点より私の得点の方が上でした。この頃から力行会出身で単身渡伯する、米田 博(山口県出身で・後年帰国)氏に子供である私は大変親切にして頂く。

  〃  12月26日、火、晴 航海中、特に印象深いパナマ運河に入る。

  〃  12月28日、木、晴 キュラソー(ベネゼイラ領土・キュラソー島)に入港。

ここで停泊中、港で魚釣りを始め黒鯛に類似した魚がよく釣れた。

  〃  12月29日、金、晴 キュラソー5時出港、16時ラガイラ(ベネゼイラ)に入港。製油コンビナートが港周辺に立錐。ここで初めて南米の緑トカゲを捕獲するが、船員に毒があるので注意とのこと。また大型船が通過後に、対岸へ小舟を並べ小型の自動車が渡れる船の道が出来ました。

  〃  12月30日、土、ラガイラ6時出港。

1962年1月1日、月、晴 風あり波浪少々、波高し、新年のお神酒あり。

この数日後赤道祭が開催され友達と参加、この時の優勝者がクズ拾いを演じた1歳年上で長野県松本市出身の服部省三君でした。

  〃  1月5日、金、晴 サルバドル入港前日午後からべた凪、まるで鏡の上を滑るような航海であり、夕暮れの闇がほんの少し帳を下ろした頃、茜色が水面に冴えあまりにも見事で絶句しました。

  〃  1月6日、土、晴 22時バイア州首都サルバドル港外着。この頃から甲板で飛魚を拾うことができた。

  

      翌7日、日 7時にサルバドル入港。

同港14時出港。この市内見物、特に有名なエレベーターには時間がなく乗れずじまいでした。ここで5世帯の移住者がジュセリーノ・クビチェック移住地に入植するため下船する。

   田沢 助雄  4人家族 青森県出身

   木村 昇蔵  5人家族   〃

   我孫子 清吉 6人家族   〃

   外崎 金一郎 7人家族   〃

   上藤 盛利  4人家族 福岡県出身

1962年1月8日、月、晴 波小さく飛魚が甲板に飛び込み試食した人もある。

  〃  1月9日、火、晴 リオに12時入港。ポン・デ・アスーカルの岩山を家族、佐伯邦夫夫妻と昇る。ロープウエイからの遠望がすばらしく、この時初めてブラジル料理を食べた。リオ市内には路面電車が走っており、1両~2両連結で速度は10~15キロで運転され、利用者は小走りで乗車すると、何処からともなく車掌が現れ、料金を集めた。下車も減速は無く、タイミングをはかるようにして下りる。22時出港。ここで下船の人々。

   大場 勇   7人家族 北海道出身 フンシャール移住地

   黄地 くにえ、樺山 保子 花嫁移住 

   長田 澄子、大川 モト子、石川島造船所職員の家族。

1962年1月10日、水、晴 サントス港に12時入港、30分後着岸。そのまま船に泊まり11日、多くの移住者達は午前8時から下船する。

  〃  1月11日、木、晴 私達グァタパラ入植者13家族は最後に廻され、午後2時ぎ、やっと荷物検査が始まり大人だけ入る。

38日間の船旅でした。       

以上航海日誌、林良雄の思い出も加筆。

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