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グァタパラ新聞2022年7月

今月でこのHPを開設してから5周年を迎えましたー。もう5年も経つのかと思うと感慨深いものがあります。その間、世界は疫病に脅かされ、ウクライナでは戦争がはじまり、何も考えずにブラジルに行くことの出来たあの頃が懐かしいです。


林良雄さんから7月号のグァタパラ新聞全部が届きました。7月半ばにコロナウイルスに感染されたそうですが、4回目のワクチンを接種されていたので軽い風邪のような症状で済んだそうです。私も今月7日に4回目を打ちました。38,7℃の発熱に加え腰から背中が痛くて痛くて、もうこんな辛い思いをするなら次回のワクチンは打つのやめようかと考えてしまいました、、。


グァタパラ入植60周年記念式典



入植60周年並びに収穫祭


 晴天続きのこの頃、7月9、10日は3年振りの祭の60周年祭も晴天に恵まれた。来賓者受付には正装だが子供の結婚式以来とも言われ、清水勇、藤山純基、上原康司、脇山謙助の4氏が付かれた。その他、来賓へのリボン付けに海老沢クリスチャーナ、斉藤明美、落合寿美、高木美帆さん等の4氏が手伝う。


 午前9時過ぎ頃からサンパウロ市の来賓の方々が訪れ始まる。JICAからの来賓者も程なく着かれた。受付も今年は全然込み合う事もなくスムーズに受付られていた。


 外来の方々にお墓まで、市の移動バスの案内を知らせる。そして以前は土道があったが、今年は埃が無いねと言われ、今年上半期の舗装工事が功をなす。


 拓魂碑前で慰霊祭開会に先立ち、高木雅治氏から旧グァタパラ耕地内墓地より移葬した初期開拓者の遺骨を葬り、またグァタパラ移住先亡者247名も併せ、凶弾に倒れた安倍晋三元首相へ「謹んで哀悼の意を表します」と述べ、ポ語では海老沢光次郎氏が務める。


 ドン・モアシール大司教、ジョジレイ神父による慰霊ミサが始まる。聖歌コラースには上野真喜子、渡辺千代子、高木敏江、荒川照、田中夫妻、上野剛史の7氏とリベルダデ区サン・ゴンサロス教会関係の岡谷公子さんも参加され、皆さんとご一緒に歌うことが出来嬉しいと大変喜ばれる。来賓者の大半が参列され、百人近い方々であったが充分に供花も用意してあり、帯ることなく45〜50分の予定通りに慰霊祭を終了出来た。


 やや遅れ気みであった60周年祭式典に入り、茂木常男祭典委員長、田中万吉、高木正人両副委員長が舞台に上り、高木副委員長が司会を務め、ポ語司会に雫田さちえさんが務める。


 来賓者登壇では、総領事館、県連、コチア青年連絡協議会が安倍晋三元首相の訃報による欠席であった。


 来賓登壇者はドン・モアシール大司教、ジョジレイ神父、独立行政法人国際協力機構(JICA)次長・川村玲子氏、ブラジル日本文化福祉協会々長・山下ジョルジ氏、サンパウロ日伯援護協会副会長・島袋英喜氏、南米産業開発青年隊協会々長・渡辺進氏、サンパウロ日本人学校々長代理・金子和美氏、グァタパラ農牧会社支配人・川上隆治氏、サンパウロ州議会議員・マルシア・リマ氏、グァタパラ市長・ジュラシー氏、グァタパラ市総務部長・アイルトン氏、グァタパラ教育局長・アレサンドラ氏、グァタパラ副市長・ヴィセンテ氏、グァタパラ市議会副議長エウレッカ氏、グァタパラ市議・マリア・アンジェラ、シモーネ・アパレシーダ両氏、在伯山形県人会副会長・鈴木源治氏、在伯茨城県人会々長・本多泉美氏、在伯岡山県人会々長・角南美佐子氏、副会長・森西すすむ氏、在伯島根県人会々長・福間エジソン・やすゆき氏、在伯山口県人会々長・伊藤紀美子氏、以上の方々。


 高木副委員長の開会の辞から始まり伯日両国歌斉唱、市歌斉唱にあわせて国旗掲揚となったが、日本国旗は半旗に掲げる。その後慰霊祭は行われたが、先の故安倍晋三元首相の逝去を悼み1分間の黙祷。


 茂木祭典委員長の挨拶後、祝辞の最初を独立行政法人国際協力機構次長・川村玲子氏よりポ語による祝辞を頂、ブラジル日本文化福祉協会々長・山下ジョルジ氏もポ語祝辞、サンパウロ日伯援護協会副会長・島袋英喜氏は日本語であり、日本文化の継承が受け継がれていることを喜ばれる、南米産業開発青年隊協会々長・渡辺進氏の祝辞は後に掲載、サンパウロ日本人学校々長代理・金子和美氏は日本語で祝辞、本校との交流を喜ばれる。グァタパラ農牧会社支配人・川上隆治氏からは日本語で祝辞、サンパウロ州議会議員・マルシア・リマ氏の祝辞、グァタパラ市総務部長・アイルトン氏の祝辞、グァタパラ市長・ジュラシー氏の祝辞、グァタパラ教育局長・アレサンドラ氏の祝辞と続き、市会議員・マリア・アンジェラ、シモーネ・アパレシーダ両市議から記念プラッカが贈呈される。引き続き祝辞を在伯茨城県人会々長・本多泉美氏の日伯両語の祝辞、在伯岡山県人会々長・角南美佐子氏の参席であるが、代理の森西すすむ氏の日語による祝辞、何事にも感謝を、在伯山口県人会々長・伊藤紀美子氏からも祝辞。最後に在伯長野県人会々長。杉本みどり氏からの祝辞メセージを司会が代読された。


 85歳以上高齢者17名、吉永キヌヨ、故菅原末子、故金箱淳、小山田喜八郎、吉嶺初枝、藤山節子、大津まさえ、寺内ユキエ、落合淑子、上村孝行、大塚秋子、金箱なつ、小山田しげ子、佐伯知治、上村さく、中塚久男、大塚勝男の各氏に感謝状贈呈に高齢者代表の小山田喜八郎氏が受け取られた。これを持って60周年祭式典終了を高木祭典副員長が告げる。


 舞台の後部はブラジル国旗モチーフで緑と黄色、左右側には日本国旗の赤白を取り合わせる斬新なアイデイアに感嘆する。


 午後の演芸会はグァタパラ誠太鼓で幕開け、さらにヨサコイ、海藤グループ、カラオケ、沖縄エイサー太鼓はテレビの画像より実態の演技には見応えを感じた。海藤氏の尺八(注:名称は標準の管長が一尺八寸・54,5cmであったことに由来)の音色には心が和み、ふいっと心が故郷へとワープして行く。また久し振りに、再会の会話を楽しむ一時を作るため、カラオケとの組み合わせで音響に工夫をこらし、話の聞える空間帯を取り入れたと言われる。この音響も文協にある機械をカラオケ愛好者の樋口秀夫、鈴木俊治、金箱恒夫、馬庭得夫氏等が幾日もかけて調整しており、更に当日に問題が生じた場合に備え、専門職の志茂知彦氏が待機していた。


 出店の方では、特に食べ物を扱う所ではコロナ禍の為、人出が予想付かず、初日も品不足が出る程の客入りであり、EPTVの放映も有ったことから、2日目はどこからこれほどにも湧き出る程の来客、この食べ物を買う為の順番待ちのその長い列は文協事務所の先まで伸びていた。他の食べ物店も御多分に洩れず長い列が出来、終尾には殆どの店が完売であった。


 農産展では、会場準備の終日頃には出品物が以前より少なかったので、更に一層出品を呼掛けたところ、以前より勝るとも劣らない出品物に成った。


 今年の農産展は代替わりを思わざるを得ないほど、手間暇を掛けて準備を進めていた。自粛を余儀無くさせられていた期間が長かった為か、物作りが萎縮気みを感じさせられた。が、一心に励む姿勢が、建設的な協力者の気を引き立たせ、立派な出展会場を作り上げた。


 両日共に晴天に恵まれ、予想以上の来訪者内に特別な事も発生なく、無事大盛況に60周年祭を終えられたと思う。



式典挨拶

     60周年祭典委員長 茂木 常男


 本日は、長く続くコロナ禍の中3年振りとなる節目のグァタパラ入植60周年記念祭に、ご多用にも係わらず来賓のご臨席を賜り厚く御礼申し上げます。


 当グァタパラ移住地は、戦後JICA国際協力事業団の直轄移住地として、1962年より日本の7県より134家族が入植しておりますが、幾多の困難も移住者の先輩諸氏が一致団結して解決に当り又国内外の暖かいご支援を賜り、養鶏を基幹産業として発展してまいりましたが、近年になってその養鶏も環境衛生施設等の問題で営農が大変厳しくなった頃新型コロナに追い打ちを掛けられている現状です。3年前より新型ウイルスが世界中に猛威をふるい未だ治まらぬ中、ロシアがウクライナに侵攻、ブラジルからは遠い地球の裏側で対岸の火事と思われましたが、ロシア侵攻により世界中に燃料や食料の危機を引き起こしてしまいました。ブラジルでも物価が高騰、ディーゼル油がガソリンより高値の異常も起きています。貧しい国では人的災害が起きており、ロシアのウクライナ侵攻がいつまで続くのか欧米諸国や日本もロシアには制裁を課したり、ウクライナに武器等の支援をしていますが、ブラジルはロシアと貿易を続けておりロシアのウクライナ侵攻がどんな形で終息するのか、終息後のブラジルの立場も気になるところです。


 グァタパラ移住地も入植60周年ともなりますと、家長で入植された方々も殆どが本日行われました慰霊祭の、モンブカ墓地に眠られておりますが現役の間は村の発展はもとより、子弟の教育に力を注ぎ多くの人が国内外で活躍しておりますが、コロナ禍で長く外出が制限されていた中、久し振りに孫達を連れて大勢帰省される事と思います。子弟だけではなく、ブラジル広く日本文化がブームとなっている現在移住地の今まで培って来た信頼感を若い世代二世でも早い人で60歳の人達に新しいグァタパラとして、引き継ぎ行きつつ有る現在、村民一同はもとより演芸等にご参加下さる近隣都市のご協力も結集して、この様な記念行事ができました事を大変有りがたく、うれしく思って感謝申し上げる次第です。


 本日は、入植60周年の記念式典に大勢参加頂き本当にありがとうございます。今後共変らぬご指導ご鞭撻をお願い申し上げ式典の挨拶をさせて頂きます。



祝辞


グァタパラ移住地入植60周年祭お祝いの言葉 


2022年7月9日


 南米産業開発畝年隊と渡辺です。

 グァタパラ移住地60周年祭開催誠におめでとうございます。1962年入植以来60年、移住地の関係者の皆様本当に御苦労様でした。さらにこのコロナ禍で社会が一変してしまいました。ワクチンと感染予防の徹底でかなりの落ち着きを取り戻していますが、油断はできません。しかし今日の状況を考えると何もしないでいる事は出来ません。しっかり感染予防をしながら、社会生活をとり戻し日常を取り戻していかなければなりません。そういう中でのこの2年ぶりの入植祭、例年にまして意義のあることと思います。

 本日は誠におめでとうございます。簡単ではありますが、お祝いの言葉とします。



文協の主な経過報告


・6月8日ーカンポ・リンポ日本人学校、9月24、25日ホームステイ交流予定。

・6月9日ーゲートボール場の階段と舞台のスピカー用の台をアレモン業者依頼する。

・6月11日ー祭の食事の件で婦人会と話し合い。

・同ー菅原末子氏、享年97歳逝去、ご冥福をお祈り致します。

・6月13日ー外部からの通告による4〜5名の州畜産防御監視官の見回り。リカルド弁護士が対処。

・6月14日ーお祭り出演に沖縄琉球国祭太鼓が決る。

・6月15日ーリカルド弁護士と会合。

・6月18日ー財務委員会を開く。

・6月18、19日ー東山球場で野球大会へ野球部出場し、7チーム中準優勝。

・同ービセンテ職員が落合氏横に防火線を設置(枯草等を徐さ)。

・6月20日ー元D区在住であった中塚孝之氏享年88歳、アンドラジナ市において逝去、

       ご冥福をお祈り致 します。

・6月25日ーモンブカ湖畔公園の記念プラッカ周辺を清掃。

       急遽青年隊協会から60周年祭に参加の知らせあり。



水道・機械委員会6月の経過報告


・固形カルキ10kg購入。

・電気技師に4号深井戸の配線が熱を帯びるので交換する。

・市役所が道路補修。

・元川上商店付近の配管修理。

・2号深井戸に配管。近い内にカルキ投与に備えて。

・1号深井戸の固形カルキ追加(29日間濃度0,22ppmで1,4kg使用)。

・清水養鶏場借用のグロバール社と話し合いで、水道メーターを取り除く。

・市役所がグレーダーを点検、ハイドバンの留めピン二本が痛んでおり翌日には取り付けた。

・水質検査・1、2、4、5号井戸。

・タンク車のホース15メートル購入する。



第五回定例役員会・祭典委員会

         2022年7月2日

協議事項


・慰霊祭 ドン・モアシール大司教において執り行う。また現在までの先亡者247名の供養も含み

 45〜50分を予定。供花は大体50名。


・85歳以上の高齢者17名に感謝状と記念品贈呈。


・婦人会へ弁当の依頼は80食、その他100食は食券で対処。また飲み物は登壇者限。


・カード決済機は2台と野球部1台であり、使用料は80レアイス+デービトは1.89%

 クレジートは3.05%の手数料と領収書付き。


・60周年記念品は全会員88名と来賓登壇者にも記念品を贈呈。


・演芸会に出演する子供達、ヨサコイ、太鼓グループ、日語生徒34〜40名に簡単な記念品(50レアイス

 程度)を贈る。


・60周年記念祭の寄付金は86名の会員より14,460.00レアイス、外部現金寄付は12.900.00

 レアイス、その内訳はグァタパラ農牧会社、続木肥料、中尾会計事務所、モジアナ砂取り業者、カマール砂

 取り業者、ギリェルメ氏、ベンジチ氏、メジネッキ等。た、8.000,00グァタパラ市役所も予定。

 物品寄付は後日掲載予定。ご協力ありがとうございました。



野球大会の試合結果


7チーム参加 グァタパラ、アチバイア、東山A、B、友人、インダイアツバ、ウニカンピ


試合い結果

・グァタパラ10×1東山B

・グァタパラ8×9ウニカンピ

・グァタパラ9×7アチバイア

・グァタパラ6×10インダイアツバ

優勝・インダイアツバ、2位グァタパラ



60周年祭・収穫展示物


農産物、鶏卵15点、野菜139点、穀物12点、果樹13点、特産20点、他5点 合計204点。

俳句9点、手芸117点、児童作品82点 合計208点。出品物合計412点。



入賞者


・鶏卵、吉永利行・金、上原康司・金、金箱恒夫・銀、脇山謙助・銀、多田豊希・銅、

 ヴィトリア養鶏場・銅。


・野菜、白水美朝・金、渡辺昇・金、高木みよ子・金、中島美枝子・金、鈴木清彦・金、

 白水美朝・銀、吉嶺ルシア・銀、山内かおり・銀、田中美喜・銀、中島美枝子・銀、

 木村哲雄・銅、上野真喜子・銅、鈴木俊治・銅、吉永利行・銅、木村哲雄・銅、小島忠雄・銅。


・穀物、大野卓治・金、近藤四郎・銀、小林和・銅。

 果樹、鈴木清彦・金、近藤マキ子・銀、吉嶺ルシア・銅。


・特産、高木雅治・金、渡辺光芳・銀、荒川照・銅。


・手芸、竹中みち子・金、守屋妙子・金、田中万吉・金、井上操・金、吉嶺ルシア・金、

 茂木ユナ・銀、木村千恵子・銀、井上美紀子・銀、竹中みち子・銀、田中エレナ・銀、

 清水ルイザ・銅、脇山純代・銅、金箱和江・銅、竹中みち子・銅、高木敏江・銅。



祖父母のルーツ


 今回のお祭りに、ブラジル日本移民初期に詳しい人がいると伝聞で知り訪れた、第2回移民旅順丸で1910年6月28日サントス港着、配耕地のグァタパラ耕地へは226名であり、特に岡山県出身者が多く、その半数の30家族115名が配耕された。私(編集者)の編纂した「我がグァタパラ耕地」の岡山出身者の20番目に難波梅太郎・同もよ、同元造、同定女、岡山県赤磐郡佐伯出身。これが母方の祖父母であり、その1年後にはサンパウロ市内で大工を手掛ける。また1913〜1926年にはイグアッペへ移転し、米作に従事。ここで母親が生れ、米価の高値に恵まれ一家で日本へ帰国する。そして、1933年に再度ブラジルへ渡航した。


 父親はコロニア文芸で名を馳せた武本由夫氏、岡山県赤磐郡熊山町奥吉原出身らぷらた丸。氏は1930年10月、19歳の折、ノロエステ線第一アリアンサ移住地に入植。それから5年の1935年にサンパウロ市内暁星ようせい学園に招聘され先生に就任。しかし、1938年12月25日、ゼツリオ・ヴァルガス独裁政権の強権によって全伯に476もあった邦人日本語学校は全部、強制閉鎖された。当時、サンパウロ州の日本人学校は294校。全伯の教員数554名(男性468、女性86名)。


 戦後、日本語関係による読本「日本語」1〜12巻(ただしブラジル日本移民・日系社会史年表では8巻となっている)を6名の編纂委員の方々で、氏はコーデネイトを務めた(1961年4月15日に解散)。この読本が長い間日本語学校に使用された。1980年代でも全伯の半数の日語学校で使用されていた。「武本を抜きにしてコロニア文芸の歴史は語り得ない」といわれる存在であった。


 その子息にあたる憲二氏が、戦前のルーツを知りたく松尾氏の同伴紹介で、移住地60年祭に訪れた。グァタパラ移住地は岡山県出身も多いと言うと、数年前から岡山県人会との付き合いはしていないと言う。1980年代初期に筑波大に留学し、同じ頃やはり穀物の研究で筑波大に来ていた宮坂四郎(大豆・フェイジョン)・北海道名寄市出身・1932年渡伯、氏と日本食文化、特に魚の生作りに、興味津々で見守り見事にさばかれ皿に盛られた一匹丸ごと、頭と口はピクピクと動き、体は刺身に作られていた。その料理の技量には大変驚愕したと言う。岡山県都窪郡茶屋町出身1913年5月若狭丸で渡伯の生田虎雄氏は、西江八郎氏の構成家族で渡伯、当時18歳でグァタパラ耕地で2ヶ年就労。その子息の生田博農学士、ナス、キャベツ等の育種に従事。生田博氏のことは存知ていた。いろいろと知ることができ、来た甲斐が有ったと大変喜んで帰路に着かれた。


 蛇足だが、このイグアッペの高床式住居やブラジル日本移民の住居を記録写真に纏めた、兵庫県三田市在住の建築モデル作家から、昨年問い合わせがあり、アサイ移住地の高床式写真を斉藤長一氏の手をかり、この米田誠士氏にメールで送信した。武本憲二氏もUSPの稲村ひとみ教授の依頼で、母の生れたイグアッペの住居を隈なく調べている。先の米田氏はサンカーロス市のUFSCARで3ヶ月、建築学科の客員教授を務めて、その間一度グァタパラ移住地に来訪している。この米田氏と稲村ひとみ教授の接点去来があるだろうか?と、武本憲二氏と語る。



再会


 お祭りにもう一人、元岩手県人会々長千田曠曉ひろあき氏が5年振りに来訪。5年前の来訪時は、グァタパラ耕地時代に就労し、その後1954年頃バリニャ郡タンケ植民地、更にグァタパラ駅付近に住んでいた、岩手県胆沢郡金ヶ崎町三ヶ尻出身の及川儀一(妻の姓名・尾崎を名乗る)氏の実態調査の依頼をうけた。また、戦前の岩手県人80名の僅かながらの軌跡を、岩手県人会60年記念誌編纂の資料になればと思い送った。


 今度、その記念誌「あゆみ」発行日2021年4月20日、312ページを携えて訪れ、大変遅れてしまったが五年前のお礼と上梓した記念誌「あゆみ」を贈呈して頂く。


 岩手県人会の活動を伺うと世代交代に入っており、また充実した記録を残せたと喜んでいた。実態調査を手伝って頂いた、バリニャ市在の前村氏も2018年に腎臓ガンの手術が悪化し不帰の人になった。この前村氏とは初対面から1年半で死亡され、実態調査の協力を労い、「未確認の地」と題を冠してニッケイ新聞、ブログ掲載には写真入りだが、言ってくれれば正装したのにと言いながらも破顔一笑で喜ばれた。前村氏の父親与吉氏が及川夫妻の仲人を務めた人であり、グァタパラ耕地就労年代は1930年代半ばであり、及川氏はこの人より少し遅れて就労している。



空巣狙い


 去る7月19日午前10時〜午後3時頃の間白昼、E区在住の寺内勝彦氏宅で留守中に空巣狙いの盗難にあう。その手口は電動式ポルトンの車庫をネジの様な物でいとも簡単に開け、奥の鉄製ドアをドライバーの様な物で抉じ開けて侵入する。付近への外出であった為、室内の各部屋には施錠せず車庫からの出入り口のドアだけに鍵を掛けた。その被害はテレビ2台、ガスレンジ1台、ガスボンベ5コ、カメラ、パソコン、アイロン、先日頂いた60周年記念品、衣類の中には日本で働いた社名入り等も含む物が15〜20点、その他10点程細々した物で汚れ落しのスプレー等。


 この様な被害にあわれて大変残念です。身体の怪我が無かったことにせめてもののことです。移住地内の皆さんも留守には充分気を付けてましょう。



第57回グァタパラ運動会


 7月23日、雲一つない快晴に恵まれた運動会日和。入場案内より3年前の2019年度の区対抗順位黄(BC区)、白(E区)、赤(A区)、緑(D区)の順番あり、また入場時の参加者は大、子供合わせて120名と観客小屋内に20名位来ていた。微風でポールにかかげる5匹の鯉のぼりが僅かにハタメキ泳いでいた。


 開会の辞を、高木正人総務から告げられた。両国旗・国歌を脱帽の下で参加者全員で斉唱と掲揚。司会を井上操氏が務め式順通りBC区総務委員から優勝旗、優勝杯が返還される。茂木常男大会委員長より開会の挨拶。海老沢光次郎体育担当、審判長の挨拶、注意がある。選手宣誓は日本語で高木陽二氏より力強く、久し振りか少しいい淀むも所も有ったが、元気に宣誓される。ラジオ体操の手本に大野卓治、菅原進一両氏の下で全員で体を解すが、本部席の役員中よたよたした者もあった。進行、審判員に野球部員やその奥さんの多くの協力があった。それから、マスク着用を求められる。また、今年も48人の敬老者に案内をし、その接待を婦人会役員が務める。


 各区の応援には工夫をこらし、A区の赤は赤い風船を5メートル程の竹竿にびっしり取り付ける。BC区の黄も黄色の風船で同様の作り、トニックの絵を大きな団扇に取り付ける。D区の緑は緑のお神輿と緑色の大団扇、E区は白の大きな吹流し、白い提灯、白いまとい、日傘、白虎等が目を引いた。帰省している多くの子弟家族が入植祭時より目に付いた。


 競技入り。最初の2、3番には10歳前後の子供の多いこと、それも女子が男子より8割と圧倒的に多く、その中で各出場者中日系は1〜2名であった。そして賞品、参加賞は殆ど食料品や子供向けの菓子である。最初の区対抗の時間ゲームは各区7人でチーム編成の28人中女性が2名。緑2,50分、黄3,35分、白、赤は5分以上でタイムアウト。


 ミーリョ拾いの入賞者は比較的日系子弟が多く、箸文化からと言うが、今食事にお茶碗を使用している家庭が移住地にあるだろうか?、敬老者の宝探しで本部来賓席から25名が参加したが宝が多く残るので、年齢を下げて72歳までの参加を促す。


 2番目の区対抗のコーンゲーム(コーンとは英語、ポ語でコーネ)各チームに女子が2名参加でチーム編成。3番目の区対抗1,000メートル競走リレーは各選手100メートルであった。親子三代リレーには24組が出場、該当家族中一家で2組編成などがあり、編集者の目からは大変うらやましいかぎり。ゲートボール競技では文協、婦人会、日語、ゲートボール愛好会、農事部、野球部、当然ゲートボール愛好会が圧勝の一位と思ったが、文協チームが一位をキープ。


 4番目の区対抗、ゲートボールリレーではE区にはゲートボール愛好者が多い白組かと予想したが一位は黄組であった。昼食は黙食が理想だが、久し振りの運動会には会話も弾み、多くの人々に会話の花が咲いていた。


 体調を崩し、午後の競技は区対抗の結果のみ。


 運動会区対抗の結果は、優勝が黄(BC区)の22点、赤(A区)と同得点だったが、総合リレーの優勝が黄(BC区)なので総合一位となった。白(E区)と緑(D区)の得点も同点の17点であるが、総合リレーの順位が上だったので白(E区)が三位。応援賞も黄(BC区)が一位、白(E区)が二位、赤(A区)三位、緑(D区)が四位であった。


 昼過ぎから、よく運動会で味わうモンスーン(季節風)の砂埃の洗礼はどうだったか?

第57回移住地運動会




スペイン風邪(俗名・踊り子、肺ペスト)


 スペイン風邪は1918〜1920年にかけて全世界に大流行したH1N1亜型インフルエンザの通称で5億人が感染した。当時の世界人口18億〜19億のおよそ27%が感染し、5千万人の死者が出たと言われる。


 ブラジルでは当時の人口3千万人に対し3万5千人の死者。死者数が少ないので調べると116,777人との記録が一ヶ所あった。ブラジルでの俗名肺ペスト、踊り子など。


 1918年9月14日イギリス郵便船「デメララ号」がリバプール(イギリス)を出港、リスボン(ポルトガル)を経由し、ブラジルのレシフェ、サルバドール、リオに寄港で200人の感染渡航者が下船。同時期に海軍の別船がダカール(セネガル)で軍務に付いていた病兵を乗せてペルナンブコへ帰還している。これが端を発し感染が拡大した。当時のブラジルで手頃に入手出来るのはアスピリン位であり、特定薬のない中自家製薬としてピンガ、蜜、レモンを混ぜたレシピが使われた。これが点じてカイピリーニャが誕生する。また治療薬の根拠なくして空気浄化にラベンダで薫蒸消毒とかタバコの消もく、薬草の丸薬、キニーネ塩(マラリア治療薬)の服用などもあったし、手洗いをさせられた。ウイルスを観察するまでの顕微鏡はまだ開発されておらず、密集場所のバール、工場、学校、教会、劇場等の閉鎖を余儀無くされた。


 大都市の殆どで大流行し、サンパウロ市では47万人の市民の半分以上が感染し5,331人が死亡、当時首都であったリオでは12,700人の死者であり、この二都市でブラジル全国の3分の1の死者数になった。レシフェの218,000の人口に対し10月の1ヶ月で1,250人の死亡、サルバドール13万の人口に対し386人の死亡、ポルト・アレグレ14万の人口に対し1,316人の死亡とある。記録が曖昧であるので今一である。地方での記録を見出すことが出来ないが、東京植民地でもこの頃の児童の死亡率が際立って高い。またカフェランジアの平野植民地の平野運平氏は、スペイン語習得していたのでスペイン行きを望んだが、このスペイン風邪で永眠している。


 症状は発熱、鼻汁、咳、咽頭痛、体の痛みなどその内にチアノーゼが現れ、呼吸器症状が出てから2日後には死亡した。特に感染二波での感染死者が多かった。棺は全く不足続きの上、埋葬を手掛ける人手も殆ど感染し、墓まで足らなくなった。ある地方では一家で死亡し、死臭が漂い家の棟にはウルブが多くとまったとの記載もある。この様になると食料品が不足し、その内に食料品店、肉屋などの強奪が始まった。


 ヨーロッパではこの大流行によって、多くの死者が続出で特に20〜35歳の人が罹患したため徴兵出来る成人男性が激減した。このため第一次世界大戦の終結が早まったと言われる。


 日本でも1918年8月下旬〜11月には全国的に発生。第一次世界大戦に参戦した軽巡洋艦「矢矧やはぎ」の乗組員469人が1918年11月帰航中に立ち寄ったシンガポールに一時上陸した。その中の306人が発病、48人は一度罹患しており発症はなかった。この人達には抗体が出来ていたと言われる。このような中、5,719万人の国民の約37%が罹患し、その内25万7,000人の死亡者数であった。このスペイン風邪の終息の有力な説の一つには、生き残った人々に抗体が出来集団免疫が形成され終息に至ったと言われる。


 スペイン風邪名の由来は、1918年は第一次世界大戦中であり、世界の情報が検閲される中で、スペインは中立国であったため戦時の情報統制下になく、感染症による被害が自由に報道されていたことでこの名に成ったようである。


 因みに今回のCOVID19(急性呼吸器疾患)の場合、225ヶ国で流行し、2022年6月28日現在(ただし毎日増加している)で544,496,638人の感染数であり、6,330,570人の死者数。ブラジルでは32,130,316人の感染者数であり、670,532人の死者数。世界で5億4千万人が感染し633万人の死亡。世界の感染者数は百数年前のスペイン風邪より数字の上では多く、633万人の死者数はスペイン風邪より少ない。ただ2021年の世界人口は78億7500万人であり、1918年頃の4倍になっている。


 終りに近年発生した新型コロナウイルスの感染、死亡者数を比較したのと、後述する私(編集者)の学んだ農学校の生い立ちにも関連するものである。



俳句 グァタパラ俳句会


母の日に母元気かと息子電話      高木みよ子


幼子の木の葉の皿の泥だんご      近藤佐代子


童謡を唄いたくなる夕月夜       富岡 絹子


還暦を迎うこの村移住祭        脇山千寿子


母の日は村の恒例フェジョアーダ    菅原 治美


木の葉散るスープのおいしい時期となり 林 みどり


隣人と木の葉掃き寄せ孫自慢      脇山クララ


温暖化忘れし戦火月寒し        田中 独行


〔次回兼題〕冷たき、寒雀、マンジョカ(ホ諸)、当季雑詠



【編集後記】


 60周年祭の式典参列にも影響を及ぼした、安倍元首相狙撃事件。現場の映像を見る限りでは、背後に立ちはだかる狙撃犯の至近距離など。日本警察の警備は世界でも優秀と語られるが、テレビ映像の限りではまるで手薄であった。代議士に張り付くSPのVIPへの警護は数メートル内に見掛けるが、遠巻きのあの距離では事が起きた時、VIP(非常に重要な人物)を護り立ちはだかるには手遅れと、多くの一般人でも感じられる距離であった。背後約7メートルから一発目、間を置かずさらに接近し約5メートルで2発目を発砲、その間2発目まで発砲に約3秒、奈良県警は日本中でワースト・ワンと揶揄する記事が散見する。


 これも、普段の平和ボケから来る危機感の希薄としか思えてならない。


 ご逝去に心より哀悼の意を表し、謹んでご冥福をお祈り致します。


 スペイン風邪のリクエスト等で記事が多くなり、今月号は6ページになったが、下側の余白をうめるためにもう少し足し加える。


 名古屋場所の今場所の大相撲、途中休場者が相次いだ為、コロナ場所になってしまった。部屋でコロナ感染者が出ると、その部屋の力士全員が出場停止。幕内力士が少なくなり、十両力士と幕内力士の取り組みが増えていた。御嶽海、琴の若、隆の勝、一山本、大栄翔、遠藤、翔猿、玉鷲、豊昇龍、隠岐の海、北勝富士等が出場停止となり、八角理事長まで優勝式を差し控えた。前頭二枚目の逸ノ城が初優勝を手にした。

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