top of page

グァタパラ新聞2020年12月号

今年はいつもより時の経つのが早く感じているのは私だけでしょうか??

早いもので林良雄さんよりグァタパラ新聞12月号の一部が届きました。もう12月も半ば。来年は平穏な日々を取り戻したいですね。

たわわに実る木ぶどうジャボチカバ(林良雄さん撮影)


グァタパラ入植者


◼️ 81 川上 賀多志 岡山県小田郡矢掛町 1929年生れ (第2陣)


 中学卒業後笠岡税務署に8年勤務後、自家 営農をしていて渡伯。入植当年は稲作で優秀な成績であり、スプリンクラーを導入して馬鈴薯栽培を行うとか玉葱の子粒栽培に先鞭をつけて好成績をあげるなど好調のスタートであった。ところが米作3年目には130俵に減り、柑橘畑4haの間作にパイナップル400本を植えたが、芳しくないので雑作地に移植を計画、8000本を移植したが、資金難に陥って放棄し、パイナップル苗は地区内入植者に全部分譲した。この頃現地生れの次男孝之君が病気に罹りサンパウロに通い大手術を行って全治したが、この失費が大きかった。3年(1969)前本部から10km離れた雑作地に7ロッテ42haを取得して住宅を移転し、1ロッテ6haを開墾してマラクジャを栽培し、生産段階に入ったところで雹害をうけ損傷したが、最近復活して出荷に漕ぎ付けた。

【10周年の感想の一部】 

 私は一昨年分散するロッテを交換分合により一括して転居した。先ず山林6haを開墾し内5haにマラクジャを栽培した。これは鎮静剤効果のある飲料水の原料となる果樹である。市況も好く昨年来から生産出荷するはずであった。だが筈は外れた。天災である。前後2回にわたる降雹は大減収を招いた。我が経済は鎮静した。生産大学も落第したわけである。一年生をもう一度やるほかない。生産大学の科目は多種多様である。天災、人災、銭災など。何れ天空に羽ばたくであろう。われわれ子弟の滋養、保険のためにも両校とも休学は できない。行く手の障壁は多い、快刀乱麻を断つようなわけにはゆかない。進級を目ざして一歩一歩である。



◼️ 82 長谷川 浤造 岡山県高梁市玉川町(第2陣)


 若夫婦で入植、一家は両親と弟2人の家族構成であった。入植当年の稲作では優秀な成績を収めたので、グァタパラ駅前に農地を購入し手を広げたが、中々大変で浤造夫妻が駅前に移転し、間もなく帰国してしまい、両親と次男は附近の外人農場に移って借地農を行い、三男修造君(1949年生)がグァタパラに残ってが、やがて全員帰国して了まった。先の川上賀多志夫人雅子さんは氏の姉にあたる。

*付記:2017年7月、岩手県人会長千田氏の依頼で、グァタパラ耕地就労者及川儀一氏の追跡調査をした。  

 この及川氏は渡伯1933年4月で、岩手県金ヶ崎三ヶ尻出身、佐々木辡五郎(べんごろう)氏の構成家族で渡伯。その後、兵庫県出身の尾崎ミヨノさん(渡伯時2歳)とは内縁関係であり、2人の間には5人の息女と2人の子息に恵まれた。長男ジョアン氏が唯一及川姓を受け、他の6人は尾崎姓であった。長女はグァタパラ入植者岡山県出身第2陣の長谷川正明氏と結婚される。三女は私(編集者)も知っていたとしみさんであった。内縁関係のため、子供たちはミヨノさんの姓・尾崎を名乗る。また、及川儀一氏はリンコン墓地に埋葬されている。



◼️ 83 直原 一 岡山県久米郡中央町 1911年生れ(第3陣)


 26歳で渡満、奉天交通に入り、国際運輸に合併されて終戦まで8年間在満、その間1年8ヶ月召集されて各地を転々した上長野で終戦を迎えた。夫人と子供は吉林省朝陽鎮に居て21年秋に引揚げたが、長女を上陸

港敦賀で失った。次女千鶴子さん当時2歳だけが残った。それでも夫妻が再会し、直原氏は農協の郡支部に勤務し、後材木商などを営んだ。


 移住地入植以来養豚を続け、現在(1972年)100頭、今期の営農は低地稲作3haで171俵収穫したほか、養豚飼料の玉蜀黍を15ha、宅地で5ha作付け、養豚を拡大して300頭の飼育を目標にしている。

 

 10周年の感想は次の通りである。

 「住み良い所である。最低生活もできるし、仏教でいう地獄、極楽の観念からすると極楽という所であろう。私は百姓ではなかったので、渡伯後1年ばかりした時は情熱を失ってサンパウロに出ようかと思案したこともあったが、今では養豚専業で300頭飼育すれば相当やれると確信し、近く設備を拡張する予定で資材もそろえている。」



◼️ 84 見尾 多三郎 岡山県上房郡加陽町 1921年生れ(第4陣)


 *農家の四人兄姉の末っ子。昭和17(1942)年適齢で呉の海兵隊に入隊。古鷹號重巡洋艦の三等機関兵であり、ニュージランド近海において撃沉し、3日半漂流後連合軍に救命された。捕虜中に英語を習得した。ニュージランド捕虜生活で、海外に移住するならニュージランドかオーストラリアを希望とした。21年1月、帰郷し岡山駅で聞けば、氏の両親は兵役中に死亡していた。

 帰郷後自家営農に従事、秋恵さん(旧姓・見尾)と結婚し、稲、煙草、梨(少し)、イグサ等を栽培した。また、山間部ではあるが台風、降雪、地震も無く周囲は赤松林で松茸の特産地でもあった。渡伯時に柚子苗を持参し、移住地内に多く広めた。*


 グァタパラ入植当年は割当ロッテの排水が悪くて使用出来ず、他人のロッテで稲作をやったが、旱害をうけ、3haで40俵しかとれなかった。その後本ロッテで豌豆を作ったが霜害にあって全滅。2年目から本ロッテで稲作をやったところ非常によくできて草丈は身長以上にもなったが、結実前に倒伏して大減収となった。以来稲作と玉葱を主体に低地3haを経営、当初酸度4,3度位であったので最近5,7度まで改良、石灰だけでも50トン位投入し、どれだけ投資したかわからない位に肥料も微量要素も入れた。しかし排水の悪い土地で充分の成果は上らず未だに作柄は安定しない。玉葱の子球栽培は、2年目からずっと続けて昨年(1971年)は150俵(45kg入)を収穫、一時一俵120コントという空前の高値が20日間位あって多少有利であった。にんにくを作ったが排水がきかないと割れて駄目なので中絶した。永年作の柑橘は割当用地2haの半分が樹林であったため1年目で半分を植付けたが蟻害で放棄、また雑作地6haにアメリカ松7,800本を植えたが2年後野火に包まれて全焼した。また、長女智子さんの夫小島忠雄氏は同船者であり、南米産業開発青年隊8期生である。


*晩年、ブラジルに移住してよかったと思う。



◼️ 85 平松 昇 岡山県倉敷市水江(第4陣)


 入植後養豚に先鞭をつけ、稲作の成績は良好であったが、同伴入植した弟久志君が独立を希望して実家に兄の冷遇を訴えるので平松氏の方が業をにやして弟にグァタパラを任せ、自分の方が家族をつれてミナス州のカルドーゾに借地農として転耕し、雑作営農に精進していた。弟久志君は間もなくグァタパラを処分して帰国した。平松氏は後年ゴヤス州カルダス・ノバスでホテル業に邁進。子息に章夫 (1955年生)、子女に民子さん。



◼️ 86 東 勝 岡山県児島郡灘崎町(第4陣)


 家族の不和から父則夫氏が附近(グァラニー農場)の外人農場に支配人として入込み、負債を作っては長男であり、自営農である勝氏のところに債権者から請求がくるので、これでは共倒れのほかないとして逃避したものであったが、間もなく父は死亡した。現在サンパウロ市サンタ・アマーロ区で日本語の先生を夫妻でやっている。長女美枝さん、次女美香(1953年生)。


◼️ 87 井上 善一 岡山県児島郡灘崎町(第4陣)


 携行資金の多かった人で入植後、サンパウロ市近郊の桃園を購入して転耕してしまった。その後、南聖地方のイグアッペでバナナや蔬菜の経営主をしている。



◼️ 88 杉本 重雄 岡山県児島郡灘崎町 1916年生れ(第5陣)


*氏の生地は岡山県玉野市、県の南端、瀬戸内海沿岸に位置する。一人っ子で鍛冶屋に働きながら三井造船所に勤め、戦中末期頃には回転魚雷製造等にも携わる。香川県豊島(瀬戸内海の東部、小豆島の西方3,7km

に位置する島)出身で海産物扱い業家・7人兄弟・キクノさん(旧姓・木村)と結婚。


 氏は幼年時代身体が弱かったが、青年期に健康となり、視力が弱くメガネ使用のため召集はなく、25歳の時に終戦。


 児島湾干拓地に入植するが、農業経験がなく、初期に稲の除草作業で稗(ひえ)を残して稲を抜いてしまうエピソードもあった。干拓地では塩害もあり、排水路を掘って塩抜きをした。稲作が主であり裏作に小麦などを栽培した。


 同地区出身の東勝、井上善一両氏を神戸港へグァタパラ移住の見送りに出掛けたのが切っ掛けとなり、即農地整理をした。*


 入植当初は、様子がわからないので、組合の指導通りにやってみたが、旱魃が2年続いたので丘地では収穫がなかった。低地では稲を2,5ha作って150俵とれた。3年目位になって入植者の内には、低地は望みないとして養鶏にはしるものが出て低地放棄の声が起こったがグァタパラの特徴は低地開発で、そこに日本の農業技術を注ぎ込んで立派なものとし、これをブラジル側にも認識してもらうことが目的だと聞いていたので、自分はあくまでも低地作を中心に努力してみようと決心した。

*晩年聴覚が悪くなり、補聴器を使用したが2日目で落とし大変な思いで探し当てた。以後、補聴器無しの生活であったが、ブラジルへ移住して良かったと思う。*



◼️ 89 大塚 偉作夫 岡山県真庭郡勝山町  1920年生れ(第12陣)


 農家の長男であったが、12人兄弟で田3反と林業の兼業農家であったので、17歳の時から大阪商船の船員となった。たまたま船が徴発されて御用船となり、陸軍運輸部に属し中国をめぐり、徴兵は甲種合格で現地入営し、独立混成14船団の無線通信兵として5年勤務、軍曹で終戦となり引揚げた。


 子供の頃から日本の農業には見切りをつけていたので、海外雄飛を考えて居り県に希望を申し出たところ、拓連から受け入れられ渡伯することになった。


 夫人は同郷で家を分家に任せ子供3人を連れて移住した。入植当初の第1作目は玉葱苗をもらって3反歩作ったが全然結実せず失敗であった。稲は雨期から始めたがどういうわけか田植は失敗で、直播の方がよく取れた。


 入植初年度から養豚を始め継続しているが、現在(1973年)は8頭だけ、鶏を始めて6年経ち、現在5,200羽、雛2,000羽を飼育、低地を放棄して柑橘用地を6ロッテ12haとって玉蜀黍を作っており、他に雑作地2ロッテ12haをとっていて、将来ここに移転し養鶏.の健全化をはかる計画である。



◼️ 90 吉岡 建次 岡山県都窪郡茶屋町 1922年生れ(第16陣)


 昭和13(1938)年第一次満蒙開拓青少年義勇軍として渡満、成吉思汗訓練所を経て在満の近衛師団に入隊する。真名子氏が私以上の人と折紙をつけている人であるが、目下黙々と自己建設に努力を続けている。入植当初米作を営む。早々に低地を見切り養鶏に営農形態を切り替える。一貫して養鶏専業。


 真名子氏とは内原訓練所より渡満、シベリアのアンクレソン収容所に於いて強制抑留を共に過ごすものだった。彼(真名子氏)は幾分共産思想に感化され、帰国後赤狩り(レード・パージ)の対象にされたが、本人は強制抑留中の生きる術のもので、この手段を受け入れてからはソ連兵には大変心証がよく、受け持つ仕事内容も変るものと語る。


*注:シベリア・アンクレソン収容所は、外蒙古(モンゴル国)の南下アルマータを過ぎ、チフ、シャンフールを過ぎるとアンクレンを見出すことが出来る。*



◼️ 91 岩佐 弘 岡山県真庭郡新庄村 1925年生れ(第17陣)


 昭和20(1945)年岡山連隊に入営、間もなく終戦となり、帰郷し、山間で自家営農に従事し水田酪農を試みてジャージ種乳牛16頭を飼育していた。昭和36(1961)年米作日本一の競争に応募し、反当6石をあげて中国地方一と謳われた。しかし日本農業は畜産を加味した立体農業でなければならないと信じ酪農の導入を計り、農業構造の改善に努めたが、何分山間部で発展性に乏しいため大陸の大規模農業を志して渡伯を決心した。


 入植後低地の稲作に取り組んだが、水の供給が充分でなく思うようにいかなかった。一時グァタパラ駅前の土地14,5haを求めて、乳牛18頭を飼育し、生乳を販売し需要は多かったが、移住地の営農と二股かけた結果営農は不振であった。それで思い切って駅前の土地を売り、入植地一本で経営を立て直すことを決意、丘地20ha、低地に9haの用地をとって再建に踏み出そうとしている。後年ブラジリアへ転耕。



◼️ 92 妹尾 昇 岡山県岡山市 1915年生れ(第18陣)


 家族が多いので(8人)住宅を7メートル規格より延長したためか、一般入植者より建築費が大幅に加算した。米作に邁進。



◼️ 93 堀川 武夫 岡山県児島郡灘崎町 1919年生れ(第18陣)


 入植当初自宅建築中、廂(ひさし)屋根に上って作業中目まいがして墜落、鎖骨を折り入院、手術をした。マンジョカ栽培で養豚を試み数年飼育したが数年後、養蚕に変る。



◼️ 94 富岡 登喜男 岡山県苦田郡鏡野町(第19陣)


 同氏は1968年末、心臓弁膜症で死亡。

 長男啓博氏はコチア青年として一家に先立って渡伯、カストロの栢野農場に配耕されたが、パラチオン農薬中毒にかかり、身体をこわし実家に合流、父を助け養鶏農家として優秀な経営を行っていたが、労働が過ぎると具合が悪く結局肉体労働を避け、特技のテレビ修理の技術を活用しこれに専念すべく、農業経営一切を島根・新田哲三氏に譲渡し、1973年2月リベロン市郊外のボンフィン・パウリスタに移転し、電気製品の修理店を開く。



◼️ 95 藤原 完之 岡山県勝田郡勝央町 1925年生れ(第20陣)


 入植後米作中心で最高200俵をあげたが経営は苦しく、養鶏もやったりしたが、長く経営は不安定であった。昨年(1973)以来養蚕に切りかえ、同県出身の小阪氏が転耕したあとのロッテを引き受け宅地附近に3haに桑園を造成、旧鶏舎を蚕室に利用し、桑園の成長まで全拓農場の既植桑3haの分譲をうけて掃立を始めたが成績はよく、経営も漸く軌道に乗ったものである。



◼️ 96 志茂 平 岡山県久米郡中央町 1922年生れ(第27陣)


 入植後米作、養鶏をやっていたが、再婚した夫人が苺栽培経験者であったので、一時苺栽培に着手。数年前から養蚕を始める。桑園も6ha、用地は宅地4,5ha、雑作地12Haを所有。10周年の感想は、「移住が10年遅かった。しかし子供たちのためにはよかったと思うが、自分は身体が若い時と違って思うように動かないし経営的に伸び悩んでいる。」



◼️ 97 小阪 一 岡山県小田郡矢掛町(第27陣)


 グァタパラ電化した際、氏が電気工の経験があるので、地区内の電気工事の修理などで生計をたててはどうかということで事業団に勤めた。ところが建築の手伝中高所から落ち、そのため持病の大腿骨折が再発して労働不能となり農業を断念せざるを得なくなった。ただ夫人が洋裁に堪能なので、脱耕しサンパウロ市へ移転した。


以上岡山県出身者19戸である。


【編集後記】


 今回、両親の介護に携わった夫妻に、親の介護中、親から介護をして上げてるではなく、介護をさせて頂いていると受け止める様に、それが理解出来る様になったら、軍人出の親から毎日ありがとうと敬礼を頂いたと伺った。

 先の来訪者諸氏に昼食を案内し、密集を避ける為、当地一同は自粛し会計支払いはくれぐれも文協持ちを店主に頼んだ。日系コロニアで旅先での一飯の温情にはどうしても与りがちであるが、律儀にそれをされなかった。

bottom of page