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奉納相撲

グァタパラの林良雄さんから新しいエッセイをお送りただきました。グァタパラ耕地や東京植民地では、マラリアの犠牲者に対する慰霊祭として相撲大会が開催されているという内容です。

日本では、先月25日に優勝決定戦の結果、日馬富士が逆転優勝をはたしたばかりですが、そもそも相撲は今のような年中行事的な国技になる以前は、神事として行われていたことを再認識しました。

以下、林さんのエッセイを掲載します。

(HP管理人)

「グァタパラ耕地入植者の皆様へ この丘が人跡未踏の原始林でありました頃、即ち1914年6月、始めて日本人の手によって開拓の槌音がこだましてから既に48周年を迎えました。当時この丘を中心に総面積2,000(約4.860ha)アルケールの日本人集団地が出現し、ブラジルに於ける三大植民地の一つとして、あるいは模範村として移民史に残っていることはたゆまざる先覚者、先輩の努力によることは申すまでもありません。これ等850余家族の大部分はグァタパラ耕地で2ヵ年の苦しい契約農年を終えて独立と生活確保のため、この大地で血みどろの苦闘が続けられたのであります。今でこそマラリア病媒介のマラリア蚊は一匹もいませんが、当時その蚊は猛威を振るい、例外なくこの病魔を逃れることが出来ず、次々と犠牲者たちは大望も空しく、ここに300余名の先覚者を失い、骨を埋めて行ったのであります。

本相撲大会はこれら犠牲者に対する慰霊祭として年々欠かさず催されています。既に第二、第三世の時代に達していますが、今なお、我々が本大会を継続しているのは、実にこれら先覚者の慰霊であり、また我々一同の開拓の尊き血と汗に対する慰安大会であります。 そうして本日新しい移民史を築くべく、新しい構想の下に発足したグァタパラ耕地の入植者を迎えてこの大会を催すことは何と有意義なことでありましよう。草場の陰から、先駆犠牲者たちの歓迎の声が聞こえて来るようであります。そうして皆様のグァタパラ耕地成功の一日も早からんことを見守っている姿が―

1962年7月22日

リンコン日伯文化協会

東京植民地青年会

グァタパラ移住地に入植した初年度の1962年7月、付近の東京植民地に招かれた時、その相撲大会の謂れが、風雨にさらされた校舎の荒れ果てたところに貼紙で記され、胸に迫るものが感じられたと言われた。

しかし後年、私は僅かながらモジアナ地方の日本移民の軌跡を繙くと、不可解の所が数ヶ所あり注釈が必要となる。

この謂れでは、東京植民地の開設が1914年6月。この裏付けを見出すため、数十冊のブラジル日本移民史を読破したが、多くの書籍では1915年5月とも10月とも。また相撲大会の方は、1914年グァタパラ耕地で天長節を祝い奉納相撲として開催されている。これを受け継いだものと思える。そうすると48回目の相撲大会として符合する。

次に300余名の先覚犠牲者。先に記したグァタパラ耕地の過去帳で畑中仙次郎氏が言い伝えた400余名の犠牲者。これがどうしても東京植民地の犠牲者とダブっているように思えてならない。

畑中氏の渡伯は1912年4月・厳島丸。東京植民地創設者の一人である馬場直氏は1914年4月・若狭丸。1914年5月着伯の帝国丸第10回渡伯移民35家族(広島県人等)を率いて、モジアナ線オーランジア駅ペローバ耕地に通訳兼監督としてグァタパラ耕地をあとにしている。

渡伯後において、グァタパラ耕地内での2人の交流は僅かであったが、バストス移住地開拓農談会には馬場氏も参加され親交を深めている。

話題を1962年の慰霊相撲大会に戻すと、15人ずつの団体戦では12対3でグァタパラ勢が圧勝、5人抜き、3人抜き、個人戦とすべてを制覇してしまった。

当時、グァタパラ移住地内には造成工事に参加していた南米産業開発青年隊が在住し猛者揃いであり、まわし1本で全伯に名を馳せた東京植民地の力士ぞろいも、これには歯が立たなかった。この大会以後、相撲大会は途絶えてしまう。

この相撲大会に、戦前参加した笠戸丸移民でヅモン耕地に就労された佐方傅八(島村七蔵の構成家族の一員)氏の子息・石村義男氏の手記があるので後日続編で記してみたい。」

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